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第3章 Lady Commander
01.跪き、縋り、希うように
しおりを挟む”人質の交換はこちらの指定する場所で行う。
フェルビア湾、南東の無人島で待っている。
朝九時までに現れなければ交渉は決裂したものとみなす。
また、船の偽装などは考えないように。
一目で黒鴎騎士団と判別できる船で現れなければ
人質の命の保証はしない。”
「無人島、というのは……あの廃村がある場所のことだろうか」
「ええ、おそらくは」
そこにはかつて漁村があったが、次第に魚が獲れなくなって、住民たちは島を出て行ってしまった。数十年前の話だ。
そして島には人々が使っていた家や小屋が残されていた。ほとんどはボロボロに朽ちていて風よけくらいにしかならなかったが、巡航の途中に立ち寄ると、火を使った形跡が見受けられたことがあった。
どこかの漁師が使ったのかもしれないし、「死の舞踏」の拠点の一つかもしれなかった。
「朝九時か……」
ステラは懐中時計を確認し、それからジェイソンに告げた。
「王都にいる団員を集められるだけ集めろ! 夜明け前……午前四時には出港する!」
「はっ」
白兵戦になった場合のことを考えると、人数は多ければ多い方がいい。しかし長期休暇中ということもあり、王都を離れて故郷に帰っている者も多い。また、旅行に出かけた者もいるかもしれない。
どれくらいの人数が揃うかはまだわからないが、武器をチェックし、とりあえずの水と食糧の用意もしなくてはいけない。
ステラは頭の中で計画を立てながらドックへ向かおうとして、ラスキンがいたことを思い出した。
「バタバタしていて悪いが、緊急事態だ。成り行きによっては明々後日、私は司令部のほうに顔を出せないかもしれん」
明日明後日は休みだが、ことが長引けば教官長代理の役目は果たせない。そう考えてのセリフであった。
「待ってくれよ」
だが、ラスキンはステラの手首を掴んだ。これが振りほどけないくらいの強さだったら、ステラは逃れようと躍起になっていただろう。だが、そんな強さではなかった。
だからこそ振りほどくのを躊躇ってしまった。
「ラスキン、今、急いでいるんだ」
「アリスターって、あんたを裏切った男じゃねえのか!?」
「……!! 知っていたのか……」
彼が知っているのは、ステラが夫に逃げられたこと。ステラが醜聞持ちであること。それだけだと思っていた。
「悪い。あんたのこと、調べさせてもらった。分かったのは、あんたがアリスター・ピケットと婚約したことと、今は独身なことだけだがよ……けど、アリスターって男はあんたを裏切ったんだろ?」
「それは……」
「自分を裏切った男を助けるっていうのかよ!?」
なぜ、助けようとするんだ。そんな男、放っておけよ。
ラスキンはそう言いたいのだろう。
「ラスキン。貴様がどこまで知っているのかはわからんが……親の決めた相手だった。そしてアリスター・ピケットは、結婚式に現れなかった。好き合った相手ではなかったが、それでも、裏切られたことになるのだろうな……」
十年前、結婚式当日に行方不明となったアリスター・ピケットの捜索は、もちろん即座に行われていた。
直筆らしき手紙があったとはいえ、貴族の血を引く男である。営利目的の誘拐をされて、犯人に無理やり書かされた可能性だって考えられた。少なくともピケット家のほうは、その説を信じたいようだった。自分たちの息子が進んで結婚式をすっぽかすわけなんてない、と。
結婚式前日の彼の足取りは、すぐに判明した。正しくは「アリスターの足取りは分からなかったこと」が判明した。
彼は結婚式前日の夜、「独身最後の夜を友人たちと過ごす」と言って家を出た。飲み明かして二日酔い状態で教会に現れる花婿はわりと多いから、アリスターはその夜帰宅しなかったが、彼の両親はそこそこのん気に構えていた。
しかしアリスターは教会には現れず、手紙を残して失踪した。
そこで、まずは前日の夜を一緒に過ごしたという友人たちに対して聞き込みが行われた。彼らは皆「日付が変わる前にパーティーは終わった、アリスターは家に帰った」という。何かを隠していたり、口裏を合わせている様子は窺えなかった。
ここでこの件は迷宮入りかと思われたが、式が執り行われる日の早朝、港でアリスターらしき人物が、女性と連れ立って歩いていたという目撃情報が入った。
アリスターの手紙を教会まで届けにやって来たのは、港をうろついていた浮浪児だったが、彼の「船着き場の近くで、身なりの良い紳士に教会まで手紙を届けるよう頼まれた。引き換えに銀貨をもらった。紳士は女性と一緒だった」という証言とも合致した。
この日出港した船の乗客名簿を調べたが、偽名を使っていたようだ。名簿にアリスター・ピケットの名前はなかった。
もうひとつ問題となったのは、アリスターの愛人は誰か、ということである。
突然姿を消した女性はいないか、王都周辺で聞き込みが行われたが、少なくとも身元のはっきりした女性で該当するものはいなかった。
つまり、突然いなくなっても社会的に問題にならない女性……アリスターは、ごろつきとつるんでいるような女性と異国に逃げたのではないか。
そんな風に結論づけられた。
ピケット家からハサウェイ家に多額の賠償金が支払われ、アリスターの爵位継承権は取り消された。ピケット公爵の孫とは言っても直系ではないこともあり、アリスターの継承順位は九番目と、あってないようなものであった。
しかし両家の間に起こった問題に決着をつけるためにも、彼の継承権剥奪は必要なことだった。
以後、ハサウェイ家とピケット家の交流は途絶えたので、ピケット家がアリスターを探し続けているかどうかは不明であった。
異国で元気に暮らしているのかもしれない。
愛人と家族を設けて幸せに暮らしているのかもしれない。
でも、生きてはいないかもしれない……。
時折そんな考えがステラの脳裏を過ったが、調べようとは思わなかったし、知りたいとも思わなかった。
それが、こんなかたちで名前を聞かされようとは。
ステラはラスキンを見上げた。
「これは仕事だ。アリスター・ピケット個人はどうでもいい。だが、勘当されているとはいえ、奴がピケット公爵の血縁であることには変わりない。私は、黒鴎騎士団の団長としての任務を遂行するだけだ。国益を損なわないようにな」
勘当されている男に国益も何もないであろうが、親族たちの感情というものがある。彼らは「絶縁したとはいえ大切な家族。どれだけお金がかかってもいいから助けてほしい」と言うかもしれない。
どちらにしろ「アリスターを見殺しにしろ」とピケット公爵家が正式に宣言しないかぎりは、黒鴎騎士団が動くしかない。そして公爵家という立場上、社交界を冷えつかせるような発言はしないだろうと推測できた。
ラスキンの力がゆるんだので、そこでようやく彼の手を振り払う。
「仕事って……」
「私情を挟むわけにはいかない。これは、仕事だ」
「いいのか? 自分を裏切った男を助けに行くんだぜ?」
「……私情を挟むとすれば、そうだな。アリスターを救ったことで、ピケット家に恩を売ることができるかもしれない。それだけだ」
ラスキンはステラに惚れていると言ってはいたが、それは本当のことなのだろうか。曖昧に終わった性行為を完遂したいだけなのではないだろうか。
男とはそういうものだし、彼だってステラが靡かなければすぐに他の女へ目移りするのだろう。
自分を欲しがる男などいない……分かっていたことではないか。
ステラはラスキンに背を向けた。
「俺も、連れて行ってくれ!」
「……なんだと?」
ステラが振り返ると、なんと、ラスキンは跪いてもう一度ステラの手を取った。騎士みたいに──いや、彼の職業は騎士なのだが──、物語に出てくる騎士みたいに、縋り、希うように。
「頼む……! 雑用でもなんでもやる。俺をこき使ってくれてもいい。足手まといにならないように気をつける。俺を連れて行ってくれ……!」
「な、なにを……」
「言っただろう、あんたが好きなんだよ」
「……。」
ラスキンの気持ちと、人質の交換は関係のないものだ。ラスキンがついてくる必要性は感じない。そう言おうと思った。
「アリスターの野郎があんたと再会して、やっぱりあんたと結婚したいとか言い出したらどうすんだよ!」
「話が飛躍し過ぎではないか? 第一、海賊たちが本当にアリスター・ピケットを人質にしているのかわからん。私を誘き出すための嘘かもしれん」
ステラの醜聞を知る海賊たちはちらほらといる。アリスターの名を挙げ、ステラを誘い出し、そこで攻撃してくる作戦なのかもしれない。「死の舞踏」からの手紙には「ジョンは我々の仲間」というようなことが書いてあったが、それだって信用はできない。仲間だと思っているのはジョンのほうだけで、組織全体から見れば彼は捨て駒かもしれないのだから。
海賊たちも、一番の敵である黒鴎騎士団を潰してやろうと必死なのだ。
ラスキンは跪いたままステラを見上げた。
「会合地点まで行って……罠だったら、どうするんだ?」
「戦うか、逃げるかしかない。状況次第だな」
ステラの手を握るラスキンのそれに、ぐぐぐっと力がこもった。
「俺も連れて行ってくれ」
「貴様は部外者だ。何かあっても責任はとれん。手を離せ」
「頼む! 連れていけないって言うなら、ここで俺を倒していってくれ。あんたならできるだろ? それなら諦めもつくからよ」
「……ラスキン。貴様、意外と女々しいな!」
このクソ忙しい時に、グダグダと面倒くさい男だ。
本当に倒してやろうかと思った。簡単だ。ラスキンの手を握りつぶして、痛みに怯んだところで腹を蹴り上げてやればいい。
「俺だって、自分がこんな風になるとは思わなかったよ……」
でも、そうボソッと告げられて、倒す気はあっという間に失せた。
女々しいと罵った相手から肯定の言葉が返ってきたとき、自分が男性に対して雄々しさや勇猛さなどをまったく求めていないことに、ステラは初めて気づいたのだ。
ステラはこれまで恋に落ちたことがない。
自分より強い男なんてたくさん見てきたが、力自慢や剣技に優れた男に心惹かれたことはなかった。
「……。」
では……では、自分は何を求めているのだろう?
──妻も恋人もなく、ある程度女慣れはしているが、でも遊び人という感じではない、寛容で柔軟な男。
それは、自分が純潔を捨てるにあたって相手に求めていたことだった。
いま一度、ベネディクト・ラスキンを見つめる。
ステラを否定もしなければ持て囃すこともしない、ステラがステラであることを自然に受止めてくれる、寛容で柔軟な男。
何もないと思っていた場所に突然扉が現れて、それが全開になった気がした。
その扉へ近づいていき、先に何があるのか覗いてみたくなった。
だが、本当にそうしてしまったら、もう元の場所には戻って来られない気もしていた。
「……足手まといになった時点で、サメの餌にするからな」
それだけ告げるのが精いっぱいだった。
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