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暗雲

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「ジャミル様、おはようございます。酷い顔色です。どこか痛いですか?」

 世話をしてくれる少女奴隷のネリが、洗面用の水を運びながら尋ねる。俺は、ガンガンと軋む頭を押さえた。

「頭が痛い。ただの二日酔いだ。……ケイルはどこだ?」
「あの、もう出かけられてしまって。申し訳ありません、行き先は存じ上げません……」

 目を伏せるところを見ると、口止めされているのだろう。俺が仕事場に邪魔しに行くと思っているのか。
 フン、と俺は鼻を鳴らした。後宮という閉じられた空間で長年暮らしたジャミル様を、見損なわないでほしい。

「大丈夫だ、今日は家から出ない。大人しくしてる」

 午前中は、簡単な教本を読んで過ごしていた。俺がギリシャで乗り越えなければいけないのは、文字という壁だ。話したり、聞きとったりすることは出来るのだから、そんなに難しいものではないはずだ。
 だが、意味が分からない箇所が何個も並ぶと、逐一調べるのに疲れが出てくる。根気が足りないのだ。

「……分かんねぇ」

 開きっぱなしのパピルスと、メモをもとに解読しようとしたが力尽きた。机に突っ伏してうなり声を上げる。脳味噌を絞りすぎた。俺にはやっぱり、勉強は向かない。
 気晴らしに風呂に入っていると、ケイルに言われた言葉が浮かんでくる。

『自分がどれだけ危ないことしているか、分かってないからだよ』
『明日から一泊、得意先の庭を剪定してくる。そのあいだ、街に行っちゃダメだよ』

 思い出すにつれ、腹が立ってきた。
 まるで、俺が考えなしみたいじゃないか。街にいるのは平民ばかりだし、警察に問われたことなんて一度もない。
 いいなりになるなんてごめんだ、俺は自由になるためにギリシャに来たんだ。ケイルの言う通りの生活なんて、自由の欠片もないじゃないか。

 翌日。

「ジャミル様、どちらにお出かけですか?」
かわやだ」

 ケイルの乳母だという使用人頭にそう言って屋敷を出た。いつもながら、にこりともしない鉄面皮だ。
 屋敷では、玄関に置いてある容器に用を足すから、一旦屋外に出る。
 そこから、俺はまっすぐ繁華街へと足を向けた。目指すのは、居酒屋で住所を教えてくれたマルコスの家だ。もしかしたら、俺の踊りが職になるかもしれない。


「お、この前のあんちゃんじゃないか。ジャミルだったか? いいところに来てくれた」

 玄関すぐの食堂には、居酒屋で演奏していたメンバーが揃っていた。

「俺たちの演奏に華が欲しいと悩んでいたところだ。今晩俺たちの演奏で、踊ってくれるか?」
「俺も、またこの前みたいに一緒に踊れたらいいと思ってた」
「報酬は、演奏料の一割でいいか?」
「もらえるだけありがたいよ」
「じゃあ決まりだ。ジャミル、奥へ行こう。リハーサルをするから、好きなように踊ってくれ!」

 奥の部屋へ進むと、窓のない部屋にこの前見た楽器が並んでいた。音が洩れないようにしているのだそうだ。
 はじめはノリのいい曲が続いて、しばらすると、ゆっくり酒を飲めるようなバラードへと変った。静かな曲では、静かに雰囲気に浸ってもらうため、踊らなくていいそうだ。

 ――なんだ、簡単じゃないか。踊るのは、はじめのほうだけだし、楽なもんだ。

「休憩しよう。ジュースでいいか?」
「ああ」

 冷えた果汁を飲み干したとき、マルコスが隣に座った。

「メンバーになってくれてありがとな。ところで恥ずかしい話だが、今俺たちは困ってるんだ。ほうぼうの飲食店を回っているが、先にスタジオ代を払うところばかりでな。最近、もらうチップよりもスタジオ代が嵩んで、資金不足になってる。新しくメンバーになったお前さんにも、協力してもらいたい。いくら出せる?」

 マルコスが沈痛な面持ちでそう言うと、ほかの二人も渋い顔で頷く。俺が金を出さざるを得ない雰囲気だ。

「俺、金なんて持ってない。引っ越してきて、知り合いの家に世話になっている身だから」

 禁止されていた街に勝手に行って、借金を願い出るほど厚かましくない。ただでさえ、ケイルと喧嘩しているのだ。言い出せるわけがない。

「そうか。じゃあ、そいつに借りるとしよう」

 マルコスが腰を上げる。そのまま屋敷まで乗り込んで来そうでゾッとした。

「やめろ! あいつはなにも知らないんだ」
「ジャミル、お前はもう俺たちの仲間だ。仲間の苦境を救ってやるのが、当然だろう?」

 そう言って近寄ってくる巨体が、まるで力づくで金をせびろうとしているように見える。
 ――弱気な姿を見せては付け入れられる。きっぱり断れ。この場を切り抜けるんだ。
 己を鼓舞して、席を立つ。

「仲間になる話はなかったことにしてくれ。俺はもう帰る」

 家を出たあたりから駆け出すと、追いかけてきたマルコス達も走り出した。

「回り込め! 挟み撃ちにするんだ」
「……っ!」

 もしかしたら、同じ手口で俺のような素人を何人も騙しているのかもしれない。
 捕まりたくない。そう思っているのに、気付けば目の前にマルコス、後ろにはもう二人が待ち構えていた。じりじりと間合いを詰められる。
 こんな真っ昼間なのに、あたりが静まり返っている。だれも表に出てこようとしない。もしかしたら、このあたりは治安が悪いのかもしれない。

「金がないなら、稼いでもらうまでだ。男を専門に扱う娼館がある。そこに売り飛ばすっていうのも手だな」
「まさか、そのつもりで俺に声を掛けたのか?」
「さあな。お前は金を持ってそうだと踏んだんだが、俺の見間違いだったようだ。……おい、俺が腕を押さえておくから、足を持ってくれ」
「やめろ、離せ……っ!」

 腕を掴まれ、力の強さに呻き声が出てしまう。

「くそっ、暴れ出した。助けを呼ばれちゃ面倒だ、口に布を噛ませろ!」

 臭い布を口に入れられ、声を封じられてしまった。演奏者とは思えない手際の良さで、手足も縄で縛られる。そのまま小麦袋のように、肩に担がれた。

 ――このまま、好きでもない爺の慰み者になるのか。せっかくギリシャまで来たのに、また同じような生活を送るのか……。

 眼前に暗い雲がかかったようになる。暴れるのをやめると、「そうだ、大人しくしてろ」と笑われた。
 脳裏にケイルの姿が浮かぶ。自由に慣れすぎて、せっかくの心配を無碍にしてしまった。あいつは、閉じた世界から俺を救い出してくれた恩人なのに。知り合いのいないこの国で、唯一俺を大事にしてくれる奴なのに。
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