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16. 約束
しおりを挟む始まりは十日ほど前。ハロルド殿下が体調を崩した。医者の見立てでは処方した薬を飲み安静にすれば直ぐに回復に向かうはずだった。しかし最初は微熱程度だったその症状は徐々に重篤化し、今ではベッドから起き上がれない程まで悪化したと言う。
薬の配合を変え経過を観察しているが、症状の改善は今のところ見られないらしい。
「この世界の病気に詳しくないので分からないんですが、それは珍しい症状なんですか?」
「いや、症例はあるにはある。だからそれに照らし合わせて治療してはいるんだが・・・」
ブレットは表情を曇らせる。神子の奇跡を求めるくらいなのだから、状況は芳しくないのだろう。この世界の医療がどれほど進歩しているのか分からないが王子に仕える医者だ。きっと俺が想像するよりずっと優秀なんだろうし、今直ぐには無理でもいずれは病気の原因を突き止めるだろう。
それでも弟が苦しんでいる時に何でも癒せる神子が現れれば居ても立っても居られなくなる気持ちは分かる。
「ブレット殿下はハロルド殿下が心配だったんですね」
「・・・そうだな、血を分けた大切な家族だ」
「お二人は年齢が結構離れておられるので、尚更ハロルド殿下が可愛いのでしょう」
ヴィクターが背後から俺にだけ聞こえるように補足する。彼に疾しい意図はないのだが、潜められたその声に鼓膜がくすぐられ思わずびくりと肩が反応する。横目でヴィクターの様子を伺うが、幸い俺の反応に気付いてはいないようだった。
無意識に熱を持つ耳を隠す為手櫛で髪を整えるふりをし、ブレットとの会話に集中するよう自分に言い聞かせた。
「分かりました。力になれる事があるならぜひ手助けをさせてください」
「神子よ、恩にきる」
「ただ、私は現在神殿に縛られる立場にあります。行動が制限されていて気軽に出歩けないので・・・ハロルド殿下の元へ赴く事が難しいんです」
目下一番の問題はそこだ。
本当ならブレットには王族として正式なルートで神殿に神子の協力を仰ぎ、俺がそれを了承する流れでコーニーリアスに権力者との繋がりを示唆するのが手っ取り早い。
王族の権力を盾に俺の自由をふっかけるのだ。
だがブレットは恐らくハロルドが伏せっている事を大っぴらにはしたくないんだろう。理由は知らないが王族にも色々事情があるに違いない。藪を突ついて蛇を出したくなかった。
この際コーニーリアスへの直談判はハロルド殿下を治した後で構わない。
「神子の自由が制限されているのは先代と同じなのだな・・・それならば私に考えがある。申し訳ないが暫く神殿長の言う通りに動いてくれないか」
「何か考えがあるんですね」
俺の言葉にブレットが頷く。
コーニーリアスに従うのは気が進まないが、この状況を打破できるなら我慢できる。ただしいきなり態度が変われば怪しまれかねない為、疑われない程度に従順な振る舞いをし、ブレットの策を待つ。
どのみちハロルド殿下の病を癒さないと強力は得られない。
「出会ったばかりの私を信用できるのか」
「ブレット殿下と私の利害は一致している。それで十分でしょう」
「・・・そうか。私に都合が良いと思ったが、神子は私に後ろ盾になるよう望んでいるのだな」
ブレットの物言いから、彼は先代の神子の事を知っている。
先程のやりとりで、これまでの神子と比べて俺が大人しく言う事を聞く性格じゃ無い事は伝わっただろう。
薄情なつもりは無いが、善意だけで貴重な神子の奇跡を施す人間では無い事も。
「殿下に多くを望むつもりはありません。私はただ、もう少し"自由"に過ごしたいだけですから。それに神殿長との交渉は私自身で行います」
「そうか。人の良さそうな形をして、神子は随分強かな人間のようだ。神殿でなくとも、どこでも生きていけそうだな」
強か。
元の世界ではあまり向けられなかった言葉だ。どちらかと言うと八方美人な方だったし、知人や同僚にはお人好しだと言われる事が多かった。社会人らしく、他人と足並みを揃えて目立たないように、可も不可もないよう生きてきた。
ただそうして過ごせたのは、単に境遇に恵まれていたからだと今なら分かる。
この異世界でそんな生き方は通用しない。多少どころかおおいに図太いくらいでないと、自分の我なんて通らない。
「どこでも生きていけるかはともかく、今いる場所の住み心地ぐらいは整えたいと思っています」
目下の目標は、とりあえずパンツを取り戻す事だ。祭服は丈が長いが、やはり履いていないと落ち着かない。
「良い心意気だな。やはり神子に会いに来て正解だった。貴殿の奇跡に見える日を楽しみにしている」
ブレットはそう言い微笑むと、政務の続きの為に執務室へ戻ると告げこの場を去って行った。
ブレットの後ろ姿が完全に見えなくなった頃、ようやく深く息が吸えた。肺に新鮮な空気が入り込み全身に血が巡る。緊張で冷え切っていた指先にも、再び熱が戻りだした。
無意識に握りしめていた拳を開けば、手の平に爪の跡が深く残っていた。その傷を意識すると、じんわりと痺れが広がる。
「ッはぁぁ~」
「神子様!?怪我が痛むのですか!」
その場でしゃがみこみ、大きく息を吐き出す。俺の突然の行動に、ヴィクターたちから心配の声が上がった。
ぶつけた肩や腕の痛みなんて、正直感じる余裕は無かった。
ブレットは俺をどこでも生きていけそうだと評したが、そんな事あるわけがない。王子を相手にあんな啖呵を切れたのも状況が許さなかったからだ。
「神子様、早く怪我の治療をしなければ」
「・・・ヴィクター」
優しく背中をさするヴィクターの手は、残念ながら体温を感じ取る事は出来ない。それでも俺の身体を案じる思いはその優しい動きから十分伝わってきた。
しゃがんだ俺に合わせて地面に膝をついていたヴィクターへと向き直り、鎧に覆われた身体へ思い切り抱きつく。鍛えられた身体では、俺の体重程度じゃ揺らがない。
硬い鎧に覆われた胸元に額を押し付ける。ヴィクターの体温を感じ取れない事が今は歯痒かった。
「み、神子様?」
「・・・っ」
ーーー怖かった。
ブレットがヴィクターの首に剣を向けた時、俺が止めなければあの男は本気で首を落としていただろう。それがなんでも無い事のように。最も容易く命を刈り取ろうとしていた。
この数日で散々理解させられているのに、何度だって突きつけられる。命の軽さも、それに疑問を抱かず受け入れる彼らの生き方も。
だからこそ失う前に、神子としての俺の立場を盤石なものにしなければ。
「ヴィクター、約束してくれ。この先何があっても生きる事を諦めないと」
命を賭して守る騎士と言う仕事に対し、俺のこの言葉は相応しくないのだろう。
例え困らせる事になっても、そう請わずにはいられなかった。
「・・・はい、約束します。生きていないと神子様をお守りできませんから」
俺の背中に回された腕の力強さに安堵しながらも、ヴィクターの言葉を全て信じ切る事が出来ないのは俺の弱さなのだろう。
暫く抱き合っていたが、ずっとこの場所にいるわけにもいかない。他の騎士や神官たちに俺が部屋にいないと気付かれる前に戻らなければ。
ヴィクターは俺の怪我を医者に見せて治療させたいようだったが、大した傷でも無いからと断った。なにより早く戻らなければコーニーリアスにブレットとの接触が勘付かれる危険性もある。
渋るヴィクターをなんとか説得し、部屋で手当てをする結果に落ち着いた。
その後は戻るまでの道すがら騎士と数名すれ違いそうになったが、その時はアドルフとあの場にいたもう一人の騎士がうまく気を引き俺とヴィクターは無事に部屋へ戻ることが出来た。
「アドルフが自室に置いてある薬箱を持ってくるそうなので、戻ってきたら治療しましょう」
「ああ、ありがとう」
「・・・そういえば、神子様は自分の怪我に力を使わないんですか?」
ヴィクターの質問にそういえばと思い至る。
儀式の制限を考慮すると貴重な奇跡を軽傷に使っていられないが、ストックに余裕が出たら一度試しておくくらいはした方が良い気がする。今の軟禁生活が続く間はそんな大怪我も負いそうに無いが。
「そのうち・・・機会があれば。そうだ。怪我といえば、落ちそうになったブレット殿下を助ける時どうして気付いたんだ」
扉は閉まっていた上に距離が離れていた。とても俺の声が聞こえたとは思えない。
ヴィクターは手を顎に当て考える仕草をすると、僅かに間を開けて答えた。
「それは・・・あなたに名を呼ばれたような気がしたから、でしょうか。俺のことを呼びましたよね?」
「よ、んだ、かもしれない」
あの時は必死でブレットの腕を掴んでいたから記憶がはっきりしていないが、それでもヴィクターの名前を呼ぶ声は外にいたアドルフの声に掻き消されていた気がする。
ブレットを助けた後にヴィクターは俺に"助けを求めるように"と言っていたくらいだから声が明確に届いたわけじゃ無いんだろう。
「あなたはいつも無茶をするから」
ヴィクターは俺の腕に触れると、そっと手首の袖をずらした。手には包帯が巻かれており、腕には先程ぶつけた際に出来たあざと擦り傷がついている。
「自分の力不足を歯痒く思います。出会ってからずっと、あなたが傷つく前に助けられていない」
「そんなこと」
チラリと視線を向けられ否定を口にする為開き掛けた口を閉じる。
ヴィクターに助けられていないと言う点は否定したいが、ここ数日で傷が増えている事は事実だった。
なにしろヴィクターとの出会い方でさえ階段から落ちた所を助けられたくらいなのだから。
祈りの間での事、儀式の間での事、治療院での事。ここ数日で目まぐるしく出来事が起こり続けていて、過ごした時間に反し全てが濃厚な日々だった。
無茶をすると言われても仕方ないのかもしれない。
「でも俺は、やっぱりヴィクターに救われてるよ。お礼をいくら口にしても足りないくらいに」
鎧に覆われた手を取りぎゅっと両手で包み込む。この手に幾度となく救われた。先程の出来事にしても、ブレットの足元の木が折れた時本当はもう駄目だと思った。それでもヴィクターの手がブレットの腕を掴んだ。
光を反射し輝く銀の鎧を目にした瞬間、どれほど心強かったことか。
「・・・いいえ、神子様」
「ヴィクター?」
「本当にお礼を言うべきは俺なんです。なぜなら俺はーーー、」
不自然な言葉を途切れさせるとヴィクターは横に視線を向けた。つられるように視線の先を追えば、そこには薬箱を腕に抱えたアドルフが戻ってきていた。
「アドルフ、薬箱を持ってきてくれたんだな。手間をかけさせた」
「大した事じゃ無いさ。お前の部屋より俺の自室の方が近いし。それよりタイミングが悪かったよな。会話の邪魔をしたか?」
「いや、そんな事は無い。すまないが、神子様の手当てを頼めるか」
「え?」
ヴィクターの言葉にアドルフが戸惑いの声を上げる。
俺もヴィクターが手当てをしてくれるのだと思っていたので、その言葉に内心驚いていた。
だがすぐに召喚の間や儀式の間のような、神子が深く関わる部屋に騎士が入れない事を思い出した。
ヴィクターが俺の部屋に足を踏み入れたのは2回。
初めて奇跡を起こした後気を失った時と、先程ブレットを助けた時だけだ。
アドルフなら問題ないと言う事は、もしかしたら鎧の色で決まりが異なるのかもしれない。
「・・・ヴィクターがそれで構わないなら。神子様も良いですか?」
「もちろん」
アドルフの言葉を了承し、そのまま室内へ招き入れる。扉が閉まる頃には、ヴィクターはいつものように扉を守るような姿勢でこちらに背を向けていた。
"本当にお礼を言うべきは俺なんです。なぜなら俺はーーー、"
もしあのタイミングでアドルフが来なかったら。
その先にいったいどんな言葉が続いていたのだろう。
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