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しおりを挟む扉越しに、金属のぶつかる音が響く。
トイレに縋りついた状態で唐突に思い出したのは、ボウルとバケツで覆い隠した存在。
「!!」
俺はトイレの水を流すと、自分の部屋は通じる扉を勢い良く開いた。
その先の光景に、予想したとは言え僅かに思考が停止する。
フローリングの床へ無造作に転がるボウルとバケツは、託した役目を果たさず隠すべきものを露わにしていた。水の入ったコップを片手に呆然と立ち尽くす花坂の姿はいっそ滑稽でさえある。
しかし現実は全くもって笑える状況に無い。
いつもならキラキラした目で慕ってくる後輩が、今どんな表情をしているか想像するだけで恐ろしい。蔑んだ目を向けられては立ち直れないだろう。
酔っていたとは言えあまりに迂闊な判断だった。
胃の中身をすっきりさせた所為で余計クリアになった思考が数十秒前の自分自身を責め立てる。
「柚木さん」
「ち、ちがう」
酔いは覚めたはずなのにまともな言葉が出てこない。何に対し違うと言うのか。ある日唐突にこの肉塊が現れたと言って誰が信じるだろう。
このままでは俺のイメージが"部屋の真ん中にアダルトグッズを飾る変態"になってしまう。花坂に限って吹聴する事は無いだろうが、このままでは尊敬される先輩像が崩れ去るに違いない。
もう手遅れだろうか。
ーーー万事窮す。
そんな言葉が頭に思い浮かぶ。
顔を伏せ掌をぐっと握りしめる。爪が皮膚に食い込む痛みが、この瞬間を現実足らしめている。
花坂が小さく息を吸った音も、しんと静まり返った室内では大げさに耳を通った。可愛がってきた後輩から向けられる蔑みに、俺はきっと耐えられないだろう。
瞼をぎゅっと閉じ、断罪の時を待つ。
「花坂」
「ーーー柚木さん、ここに生えているちんこが、俺のものだと言ったらあなたは信じますか?」
「は?」
しかし発せられた言葉は想像を擦りともしなかった。
伏せていた顔を上げ、恐れも忘れまじまじと花坂の顔を見る。その表情は至って真面目で冗談を言っているようには思えない。
彼は元来真面目な性質で、仕事に対してもガチガチのマニュアル人間なのだ。得意先との会食や社内のパーティでもアルコールを避けてきた花坂にとってハメを外すという言葉ほど遠いものは無い。
それこそ素面で下らない下ネタを言うわけがなかった。
それでもその言葉を疑わずにいられないのは、花坂のちんこがその身を離れてここに"ある"と言う荒唐無稽な事実故だろう。
そんな男性向けエロ漫画やBL漫画じゃあるまいし、そんな事が起こり得るわけがない。冗談下手な花坂の苦しい冗談と言う方があり得る可能性だろう。
「いや、この言い方では逃げていますね、お願いします。信じて下さい」
それでもある日唐突に現れたこれを、超常現象と言わず何になる。それならこの後輩の言葉を真っ向から否定するよりも、頭の片隅であり得ないと思考しながらも信じる方がよほど救いがある。
そして何より、俺自身が信じたいのだ。一年と短い期間ではあるが、その人となりを見てきた己の目か節穴ではないと。そして何より後輩の直向きで誠実な性格を。
「信じるよ」
信じる。
そう言葉に出すと、ふっと身体から力が抜け床に座り込む。
とりあえず変態呼ばわりは避けられたらしい。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あー、悪い。水くれるか、ちょっと力抜けた」
苦笑しながら手を伸ばすと、花坂は急足で近づいて来る。とは言え8畳の部屋を成人男性が歩けば距離を詰められるのは一瞬だ。俺は水を受け取ると勢い良く飲み干した。いつもなら浄化ポッドへ溜めた水を飲むが、今はカルキ臭い水道水が逆に心を落ち着かせてくれる。
「それで、これがお前のだって言う確信があるんだな。話してくれ」
ローテーブルに空のコップを置くと、俺は胡座を開き花坂へ向き直る。
対面に座る花坂は正座でぴんと背筋を伸ばしている。薄っぺらいラグの上は固いだろうに。しかし足を崩すようすすめる前に花坂は事情を話し始めた。
「一昨日俺はとある神社へ行き願い事をしました。すると翌日、昼時にちんこが無くなっている事に気が付いたんです。恐らくその時にはすでに柚木さんの部屋はこの有様だったのでしょう」
「その願いって?」
そう言ってすぐ自分の言葉を後悔する。こんな事態を引き起こす願い事が全うとは思えない。それを俺が聞いて問題無い内容なら良いが、花坂が答えたくない事を無理矢理聞き出すのも憚られる。
何より花坂もぐっと息を詰め、苦悶に眉を寄せている。こんな風に苦しそうな表情、この数年間で見た事ない。
やはり俺が聞くべきではない事なのだろう。不用意に花坂の事情へ首を突っ込むべきじゃないだろう。
「やっぱり言わなくても良いから」
「いいえ、聞いて下さい。俺の願いがこの騒動の発端なのだから、柚木さんには聞く権利がある」
膝に置いた手はぐっと力を込め握られている。長く息を吐く花坂の姿に、俺も緊張が高まってきた。
ごくりと唾液を飲み込んだのは、果たしてどちらだったのだろう。
「俺の願いは、あなたと付き合う事だ」
「は?」
「好きです。俺と付き合って下さい」
花坂は改めて姿勢を正すと、俺の目を見てそう言った。
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