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第一章 異世界転移、渾沌

水溜まりに、水飛沫

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「朔叡(さえ)くん、今日はお客さんもいなし、早めに上がりなよ。」

グラスを拭いていた僕に、穏やかな声が掛けられる。皺交じりの優しい顔をしたマスターが、微笑んで帰宅を促した。


街の中にひっそりと佇む喫茶店が、僕のバイト先だ。

ぼんやりとオレンジ色のランプが灯る店内。暗めでレトロなアンティークのテーブルと、コーヒーの香ばしい匂い。コポコポっとお湯が沸き立つ音が、耳に心地良い。

落ち着いた人を包み込むような雰囲気は、この店のマスターそのものだ。


店内BGMになっている振り子時計の針は、退勤時間よりも30分も早い。ほんの少し僕が逡巡していると、マスターは手際よく白い取手のついた箱を組み立てた。

慣れた手つきで、艶めくアップルパイが箱へ入れられる。バターの良い匂いが、ふんわりと鼻を擽った。


「さあ、今日は店じまい。余ってしまったから、お家でお食べ。」

スタスタと歩いて、マスターは入口の扉にclosedと書かれた看板を下げる。僕は思わず苦笑しながら、マスターの優しさに甘えることにした。


「いつも、ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します。」

マスターの優しさが嬉しくて、自然と頬が緩む。挨拶をして、控室のロッカーへと足早に向かった。


カフェエプロンを腰から外し、ワイシャツの上に制服を羽織る。夏は過ぎたけど、制服はまだ息苦しい。詰襟のボタンを開けたまま、ふうっ、と一息ついて控室を出る。


カウンターに置いてあったアップルパイの入った箱を、静かに手に持って退勤する。

住宅に切り取られた狭い夜空は、ただ暗い。
雨上がりのむわっとした風が、僕の全身を汗ばませる。アスファルトに滲んだ雨水が、色んな匂いと混ざって、むわんっとカビくさい。

湿った雰囲気と一緒に、気持ちが沈む。


気分が浮かない理由は、鞄の中の書類のせいだ。


三者面談の日取りが書かれた紙には、
『水瀬 朔叡(ミノセ サエ)』
という僕の名前以外、空白のまま。


本来であれば親に日取りを聞いて、署名を貰わなければいけない。でも、直接顔を合わせたのは、確か1か月以上も前だ。その時の母との会話は、「そう。」の一言だけ。


僕は、共働きの両親の下に生まれた、一人っ子だ。両親は仕事に忙しく、一緒に出かけた記憶がほとんどない。生活に不自由はなかった。むしろ、他の子よりも裕福だったと思う。


ただ、愛情というものが存在しなかった。


物心ついたときから、僕の両親の仲は冷めていた。いや、それを通り越していた。

知らない人同士が、一つ屋根の下で。
世間の目を気にしながら、家族を装い、
義務的に暮らしているように、僕には見えた。


長い時間、夜まで保育園に預けられ、小学校に上がると毎日塾に行かされた。両親と一緒に居る時間のほうが少なかった。ずっと僕は寂しかったんだ。

そして、僕は、両親に愛されていなかった。


それを確信したのは、幼い僕が迷子になったとき。

珍しく、家族全員でショッピングモールに行ったその日、僕は迷子になってしまった。幼い子供にとって両親と離れ、家に帰れないと思うことは絶望的で、とてつもなく怖いことだ。

今までにない恐怖を味わった僕に、両親はこう言った。


「俺たちに迷惑をかけるんじゃない。どれだけ煩わせるんだ。」


はぁ、と深くため息を吐く父。私に恥をかかせるなと、イライラした様子だった。係員に謝っている母。泣いている僕には、一切触れてくれなかった。

手を繋がれることもないまま、お店を出た。泣いている子供を抱きしめたり、心配して叱ってくれると思っていた。


ただ、これ以上煩わせるなという、冷たい態度。そのときに僕は思った。
両親は僕を愛していない。


やがて両親は離婚した。きっかけは、母親の出世。母のほうがキャリアが上になり、父のプライドがズタズタになったそうだ。


僕は母に引き取られる。母は、働く女性の第一人者だと言われていたらしい。母にも愛されるように努力した。でも、母は何も反応を示さなかった。

母は、徹底的に僕を避けた。もともと、子供に興味がない。そして、父の面影が残っている半身は不要だった。


僕の夕飯は、お金だけがテーブルに置いてあった。5000円という大金が置かれていた。1回の食事代にしては、あまりにも余分だ。
僕が足りないとせがむ、会話一つさえ煩わしいのだろう。


だから、僕は考えを変えることにした。家事は僕がやった。特に、料理は節約して作った。母に貰った自分用の食事代を節約して、小遣いにして貯めた。
すべては、自分が一人で、生きていくためだった。


僕の夢は、早くこの家から出ること。
両親とは違う、温かい家庭を築くこと。

長らく顔も合わせていない母に、どうやって約束を取り付ければよいのだろう。それ以上に、会話をするタイミングがまるでない。


湿り漂う生ぬるい不快な風。それ以上に、僕の憂鬱は心に纏わり付いて、離れてくれない。薄暗い街灯が、申し訳程度に足元をぼんやりと照らす。


トボトボと家へ歩みを進めていると、パシャリっと音がした。直後に、靴下まで不快な冷たさが滲む。


「っ?!」

急に襲った冷たさに、ぞくりと全身の毛が逆立つ。夜のため声をあげるのを何とか堪えた。恐る恐る地面を見て、顔を思いっきり歪めた。

水たまりに右足を突っ込んだ。
もう、それは大きく、肩を落とした。


「……はぁああ……。」

パシャリっと音がしたあとに、靴下まで入り込んだ水。布が変に濡れて、体温に混ざる。不快な生ぬるい冷たさが滲んだ。


黒色の地面には、街灯の薄ら寂しい白い光が歪んで映っていた。身じろいでみると、また黒い穴に薄い光が映る。歪んだ波紋状に広がる。


昔のことを思い出していた頭が、現実に引き戻された。また一つ、大きなため息をつく。


もう、今日は投げやりな気分だ。短い帰り道を、のろのろとした小幅で、足を引きずるように歩いていた。水たまりから足を抜くことさえも、気怠くて。


それでも、このままでいても埒が明かない。なんとか足に踏ん張りを効かせて、重い足を上げる。スニーカーの靴底が、水面から離れようとした、その時だった。


ピチャンっ。


暗い洞窟の中で、水が下に落ちるような響く音がした。空虚な闇で、水面を跳び跳ねさせる、高く澄んだ一滴の水音。


「えっ……?」


妙に頭へ響いた音に、気を取られて呆けていた。
ほんの少しの刹那。


バシャッ、バシャッ、バシャッ!


水飛沫が、意志を持ったように、勢いよく逆上して爆ぜた。




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