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第10章 魔王戦
微睡みの湖、親友との別れ
しおりを挟む此処は、一体どこなのだろうか?
不思議な浮力で前髪や服は上へ浮かぶ。重い瞼を開けた俺は、薄暗い水中を揺蕩っていた。時折こぽりっと、小さな水泡が俺の頬を気まぐれに撫でていく。水の流れは随分と緩やかで、降り注ぐ陽は春の日和のように温かい。穏やかな湖の中にいるようだった。
気を緩めれば眠ってしまいそうな心地良さだ。
__ここまで連れてきて、ごめんなさい__
水中でも明瞭に聞こえたその声に、微睡んでいた意識が僅かに反応する。この澄んだ若い男性の声は、茨の檻の中で聞いたものと同じだ。
「……??」
何処か焦った様子の男性に返事をしようにも、金縛りにあったように口が動かず、身体にも力が入らない。水の流れに抗えぬまま左手がふわりと浮いて、中指に着けた指輪がするり外れて水に攫われる。
金色の指輪がキラキラと上に遠ざかっていくのを、綺麗だなと呑気に眺めていた俺の背中に、突然ぶるりっと悪寒が走った。動かない身体が、本能からの恐怖で粟立ち寒気で震える。
___っ?!待って!!
彼の切迫した叫び声が響いた直後、水底から黒色の何かが一斉にこちらへと伸びてきた。ドロリとした何かが蠢いて、かなりの速さで近づいてくるのが視界の端で見えた。
……あれは、なんだ?
透明な水に垂らしたインクが、さかのぼって水底から昇って来るように、透き通った水に黒色を滲ませながら俺の背後に迫って来る。
___もう、やめてください……!
悲痛な彼の声が聞こえたと同時に、俺の身体を大きな泡が包み込んだ。水泡は瞬く間に防御結界に変わって俺を守ってくれるが、到達した漆黒の淀みが結界ごと俺を飲み込んだ。必死に制止する彼の声は聞こえなくなり、代わりに複数の低い声が俺の耳に届いた。
『……ただ、家族を守りたかっただけなんだ』
『愛する者のもとへ帰りたい……』
『どうして自分だけが、こんな酷い目に遭わなければならない……』
それは、耳を塞ぎたくなるような痛々しさと、絶望に蝕まれ、もがき苦しむ人々のうめき声だった。漆黒の淀みは外側から防御結界を圧迫し、結界が軋む音が聞こえ始める。ほんの僅かな隙間から、淀みが滲むように入り込んで俺の手に触れた。その肌を斬るような冷たさに俺の身体が強張った。
『苦しい、苦しい、苦しい……』
なんて冷たさだ。身体だけじゃなく、心の奥深くまでも凍てつかせ虚しくさせられる。憎悪と哀しみに、後悔と懺悔。全ての負の感情が入り混じった混沌。
身体に絡みついた闇から、頭の中に映像が次々と流れ込んでくる。帰ってきてくれと泣きながら見送る幼い娘、恋人との最後の抱擁、血塗られた戦場で腕の中で死んだ戦友たち。
この水底から湧き出る哀しい闇は、死んでもなお不老不死の魔法によって無理矢理この世に残された、歴戦の戦士たちの魂だ。実体験のように生々しく脳裏に浮かぶそれらは、戦士たちの哀しみの記憶。
『君はもう、あの世界で必要とされていない』
だからこっちにおいでと、闇たちが俺を道連れにしようと、それはそれは優しく囁いた。気が付けば防御結界は粉々に砕け、小さな光の破片が闇に飲まれた。闇たちに静かに水底に引きずり込まれ、沈みゆく身体が止まる気配がない。
……そうか。
俺はもう、あの世界には要らない存在なのか。
そう思ったとたんに、身体はさらに深く闇に潜り込んでいった。上からの日差しが遠ざかって暗い底に近づいていく。もう、目を開けていることさえ億劫に感じた俺は、眠くなって目が閉じかけていた。
『そんなはず無いだろう』
意志の強い声が闇の言葉を否定した瞬間、微睡んでいた意識がふいに目覚めた。金色の柔らかな光が俺の頬を後ろから包み込む。人の手の形をした光は両頬を優しく撫でたあとに、右手を引っ張って俺を振り返させた。
『起きろ、火澄。彼らの哀しさに引き寄せられるな』
瞼をゆるゆると持ち上げた俺に、前世の親友が淡い太陽の光を纏いながら、日本人にしては色素の薄い茶色の瞳を細めた。全く火澄は寝るのが好きだなっと、親友は微笑んだ。
闇たちは親友の纏う光に近づけないのか、俺から離れて遠ざかり、こちらの様子を窺がっている。
『火澄は、あの世界の人たちに愛されている。今だって、火澄の帰りを待っている人が沢山いるんだ』
日本での親友は、そう言って俺の腰辺りを指し示す。その金色の光に包まれた指先を視線で辿ると、双剣の鞘に付けた艶めく宝石に目が留まる。鞘から伸びる美しい組みひもにつけた『星喰いのかけら』は、真珠のように艶めいて淡く発光していた。
真珠からは、さらにワイヤーのような細い糸が伸びていた。その先は、陽の光が差す上へ伸びている。
『それに、ソルも迎えに来ているよ』
「……ソル、が……?」
ソルの名前を聞いた瞬間に、俺は魔王に取り込まれた瞬間のことを思い出していた。あの時助けたソルが、強引に魔王の封印をこじ開けて、俺を追ってくれたらしい。ソルの姿が見えないことに青ざめる俺へ、親友は大丈夫だと優しく言い聞かせた。
『この世に縛り付けられた戦士の魂に、行く手を阻まれているだけだ。死霊の魂が消えれば、ソルと合流出来る。……この人たちは、オレが連れていくよ』
俺たちを囲うように漂う漆黒の淀みを見回し、親友は茶色の瞳に強い光を宿して言い放った。彼らが輪廻転生の流れに乗るように、親友は連れて帰ると言っていた。
……それでは、俺の目の前にいるこの親友は?
死霊達を導いたあと、親友はどうなってしまうのだろうか?
俺の感情が顔に出てしまっていたのだろう。親友は俺の右頬に添って手を伸ばすと、頬を掠めていた髪をそっと耳に掛けてくれる。その優しい手つきと同じように、かつての親友は穏やかに微笑んだ。
『……そう心配するな。一度通った道を戻るだけだ。この人たちは帰り道を知らないから、誰かが導いてあげないと。……それにな……』
親友は緩い癖のある髪を揺らしながら俺に近づくと、宝物を触るようにそっと俺を抱きしめた。親友の優しい心に直接触れているように、あったかくて切ない衝動が俺の心に染み渡る。
この親友は既に覚悟を決めているのだと、切なさの理由が分かってしまった。
『オレは嬉しいんだ。やっと……、やっと火澄のことを守ってやれるって』
親友の震える背中に手を回す。魂だけとなってしまった親友だが、陽だまりのような温かさと、春の風のように穏やかな優しさを感じる。
『愛していたよ、火澄。心から。だからさ__ 』
前世からの親友は、朗らかに微笑んだ。親友がよくしていた、俺の大好ききだった笑顔だ。
『__ソルと幸せにな』
親友の身体に纏った金色の光が、強く輝き出す。温かい腕が離れていった。手を伸ばそうとしても、金縛りにあったかのように動かせない。
待ってくれ。行かないで。
俺が君に何も出来ていないんだ。
哀しさが頬を伝う。
「……ずっと守ってくれてありがとな。旭陽」
やっとの思いで口にした俺の言葉に目を見張った親友は、薄い膜を張った瞳で晴れやかに笑った。ずっと靄がかかったように言えなかった、前世の親友の名前。
最期にやっと出てきた彼の名前は、彼に相応しい夜明けの太陽だった。
あたりが眩い光に包まれた瞬間、『やっと帰れる』『もう戦わなくていいのか』と安堵の呟きが耳を掠めていった。前世からずっと傍にいてくれた親友に、俺はただ涙を流して見送ることしか出来なかった。
光が治まった水中は澄んだ色を取り戻し、親友の姿もそこには無かった。ぎゅっと目を瞑って、これ以上涙が出ないようにと堪えていると、いきなり後ろから力の無い声が聞こえた。
「……ごめんなさい。君たちの大切な友人の魂を犠牲にして……。」
「っ?!!」
「……僕が、魔王だ」
目の前に立つ魔導士の服を着た青年は、魔王とは正反対の澄んだ瞳で哀し気に佇んでいた。
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