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第九章 真相
哀しい願い
しおりを挟む「……この領域で、一緒に暮らそう。嫌なことも、苦しいこともない。美影にはいずれ寿命がくるけど、その時は魂だけになっても私と一緒にいよう。この領域の魂は、輪廻の渦に乗らない。永遠を共にしよう。」
それは、俺を堕落させるような誘惑。
俺の心は、自然と凪いでいた。
もう、俺は、覚悟を決めているんだ。
「……ベリルの好きという気持ちは嬉しい。でも……。」
俺を抱きしめていた腕が、少しだけ離れる。俺は、ベリルの美しく、神秘的な薄緑色の瞳を見つめた。
「……俺は、ベリルの気持ちに応えられない。」
ベリルの胸の前に置いていた手に、そっと力を入れる。ほんの少しベリルから身体を離した。見上げたベリルの顔は、とても切なそうで、傷ついた表情をしている。
「……どう、して?私は、こんなにも美影を愛しているのに!……お願い。一緒にいて?もう、色のない世界は嫌なんだ。孤独は嫌だ……。」
心が軋んで悲鳴を上げているような、切実な言葉。
ベリルの声音は揺れていて、か細く力がない。
この美しくも、時の流れを感じない空間。
悪く言うなれば、害悪のない、虚無。
ここにたった一人。永遠とも言える長いときを、ずっと生きていたベリル。
「……私は美影のおかげで、世界に彩りが出た。恋焦がれる、愛しいということを初めて知った……。孤独という胸に穴が開きそうになる闇も。……精霊王にはいらない、『心』を知ってしまったんだ。」
それまでは、『心』なんて無かった。
他の神域のモノと同じように、人間に平等に接して。
時折、本当に気まぐれに精霊の加護を人間に与えて、人間界に波風を立てて。試練や戦い、あるいは幸運というギフトを与えた。
それでいて、人間界を観察し、……ただ傍観していた。
それなのに……。
どうして、『心』を知ってしまったのだろうか?
誰に問いかけるでもなく、言葉が溢れ出てきて零れたかのように、ベリルは教えてくれた。
幼い頃の、ベリルに初めて会ったときの記憶を、呼び起こす。
俺が術で治療したベリルの怪我は、穢れを放っていた。幼い姿をしたベリルは、絶望した顔をしていた。震えて、どうすれば良いか分からないと、途方にくれた少年。
そして、口から思わず出たというように、呟いたのだ。
『もう、帰れない。』と。
おそらく、ベリルは穢れを受けて障りが出た。精霊は繊細な存在だ。少しでも悪意に触れれば、障りが出る。
その障りが、数多くの感情を生み出す『心』だったのではないだろうか。
「どんなに綺麗な場所にいたって、仲間を増やしたって、私は一人だ。孤独は寂しい。辛い。哀しい。……どうすれば、一緒にいてくれる?」
ベリルの薄緑色の瞳が、焦りの色で揺れた。まるで、子供が縋るような目だった。
俺のことを小さいときから、ずっと、ずっと守ってくれた。
例え、父に力を封じられて、視えなくなって、会話をすることさえできなくなって。
自分の存在が認識されなくても。
俺の記憶から、一緒に過ごした楽しい思い出も、記憶も無くなっていたとしても。
それでも、ずっと待っていてくれたのに。
ごめん。
長い間、寂しい思いをさせて。
大切な友達をずっと放っておいて。
ずっと、一人にしてしまって、ごめん。
でも……。
「……俺が、共に生きたいと願ったのはベリルじゃないんだ……。俺が恋焦がれ、命を捧げてもいいと思った人がいる。」
眩しい太陽の光のような、金糸の髪。深い森の色をしたエメラルドの瞳。穏やかな笑顔の中に、苛烈な感情を潜めたあの人。
「………やっぱり、あの第三王子かな?風精霊の加護者。」
ベリルの問いに、静かに俺は頷いた。ベリルは最初から、俺の答えが本当は分かっていたようだった。
「ずるいよ……。私のほうが先に美影のことを愛していたのに。人間と言うだけで、同じ種族と言うだけで、お互いに惹かれ合って一緒に居られるなんて。……精霊王の私には、叶わない夢じゃないか。」
「……ごめん。」
こんなにも、自分のことを想ってくれているのに。
でも、偽りは言えない。
俺の大切な友人である精霊王ベリルに、偽りの言葉を言いたくない。
『………美影、もう、何をしても……。美影の心は手に入らないんだね……。』
ベリルが自分の左胸の服を握った。薄衣の美しい服に、苦しげな拳によって皺がよる。
『……心なんて、持たなければ良かった……。そしたら、身体が引き裂かれるような痛みも、暗い闇に落ちていく孤独も、誰かとずっと一緒にいたいと想う気持ちも、生まれなかったのに……。』
薄緑色の瞳から、ぽろぽろと宝石のような涙が零れ落ちる。
心を持たなければ良かったなんて、
なんと哀しい後悔だろうか。
「……俺は、ベリルの心によって救われた……。今俺が生きているのも、ベリルの優しい心のおかげだ。……長い間、寂しい思いをさせてごめん。……ずっと、俺を見守ってくれて、ありがとう。」
そっと、ベリルの両頬を包み込んで、伝っている涙を拭う。薄緑色の美しい瞳を、まっすぐに見つめて。
俺は、自分の想いを一心にベリルに伝えた。
「俺は、ベリルの姿が見えなくなったとしても、いつも、包み込まれるような、温かさを感じていたよ。……今だってそうだ。」
春の温かな、揺蕩うほど心地よい風。
この何もない空間も、ベリルだからこそ、こんなに穏やかで優しいのだろう。
「俺は、ベリルの優しい『心』が好きだ。俺にとって、ベリルはかげがえのない存在だよ。」
心からの慈しみを込めて。
『心』を持ったベリルが、俺は大好きだと。
薄緑色の瞳が、はっとしたように開かれる。そして、ベリルは俯いた。左胸を苦しげに握りしめていた拳の力が、僅かに弱まる。
『……一緒にいることが叶わないのなら、もう、こんなところに居たくないよ。長く生きることも、『心』を持つことも疲れてしまったよ……。』
両目から絶えず、ポロポロと涙を流しながらベリルが呟く。
ベリルがそう述べた瞬間、天からひどく冷淡な声が聞こえた。
『役儀の果たせない、不良品はいらない。』
それは今までに聞いたことがない、荘厳な神々しい声。
発せられる言葉の一つ一つに、恐れ多く全身から鳥肌が立つ。
自分の身体だけではなく、心の中にさえ入りこみ、命を握られるように支配される感覚。
誰が発したのか、言わずと分かってしまう。口に出すのも憚れる。
『……美影、最後にお願いがあるんだ。もう、創造神が私を『不良品』だと言って、存在を消しにかかってきている。だから……っ?!』
ベリルの身体が、前屈みに崩れ慌てて抱き留める。
「っ!!ベリル!!」
美しい薄絹の重なった裾が、白い床と同化している。やがて、足があったはずの場所には、何もなくなっていた。
ベリルの身体が、存在自体が透き通って消えていっている。
地面に座り込んで、俺はベリルを横抱きのように寝かせた。ベリルは俺の左頬に手を伸ばすと、切なげに呟いた。
『……最後は愛しい人の手の中で、消失したい。』
それは、哀しい望みだった。
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