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婚約破棄された王子は地の果てに眠る
しおりを挟むいつの日も、僕はただ懸命に生きてきた。
なのにどうしてこうなってしまったんだろう。
「……けほっ、けほっ」
ぼんやりと窓の外の風景を眺めていると、不意に咳が出た。口元に手をやりながら咳き込むうちに段々と激しくなり、最後にはごぽっという音と共に赤いものが吐き出される。その赤を見ていると、ああもうすぐ終わるんだなと何とも言えない感情が湧き起こり、僕は自嘲気味に笑んだ。
僕は忘れられた王子だ。
三年前、王都から随分と離れたこの田舎町に初めてやってきた頃から、僕はもういらない子だったんだろう。いやもしかしたら初めからいらない子だったのかもしれない。
他の兄弟達はみんな王都で頑張っているというのに、僕だけがここにいる。僕だけが、取り残されている。
ここには最低限の使用人しかいない。王である父と王妃である母がつけてくれた三人の使用人達。彼らも本当は僕なんかについてきたくはなかったのだと思う。彼らには彼らの生活もあるし、家族がいる。僕とは違ってみんな必要とされている人なのに、いらない僕なんかのためにこんな辺鄙な田舎まで着いて来なくては行けなかった彼らに同情した。
「はあ、っ……ふう」
咳が落ち着いたのを見計らって、ベッドの近くにあったタオルを手に取り、口元や手に付いた血液を乱暴に拭っていく。吐き出したばかりなのに既に周りが固まり始めている血液に溜息が溢れた。
持っていたタオルを近くに置かれていた水の入った金盥(かなだらい)で濡らし、再び拭いていく。タオルから落ちた血液で透明だった水は赤く色づき、白だったはずのタオルもまた真っ赤に染まっていた。
僕の身体がおかしくなり始めたのは半年前、この街に魔物の群れが襲ってきた時だっただろうか。その頃から僕の身体は度々軋むような痛みがあったが、あまり気にはしていなかった。それに久々の魔物討伐で筋肉痛になったのだとも思っていたのである。
僕の身体に決定的な異変が起きたのは、一週間前。この田舎町周辺の村にヒュドラが襲った時だ。ヒュドラは数多の頭部を持つとされる猛毒の大蛇だと本で見た事はあったが、実際に見たのはあの時が初めてだった。想像よりも数倍も大きい巨体に、僕の足は竦んで動けなくなり、僕はあの時初めて死を覚悟した。
ヒュドラの猛毒は微量吸い込むだけでも死に至ると言われている。僕は防御魔法で自分自身を包み、毒を避けていた。もし当たっても大丈夫なようにしていたのに、ヒュドラの猛毒は今、僕の体を蝕んでいる。
理由は簡単、僕の心が弱かったからだ。
「ふ……っ、く」
涙がぽろぽろと溢れ落ち、掛け布団を濡らしていく。これはどういった感情から来る涙なのか、僕自身にもわからない。
王都にいた頃は王子というだけで近寄ってきていた人達は、僕がいらない子だとわかるとすぐに去っていった。この町でもそう、いらない王子というだけで誰も僕に近寄らなかった。でも彼だけは――エミリアンだけは僕の側にいてくれたんだ。
だからきっと勘違いしていたんだと思う。僕が彼に惹かれているのと同様に彼も僕を好いてくれているなんて、都合の良い妄想をしていたんだ。現実はそんなに甘くないことを僕は誰よりも知っていたはずなのに、恋は盲目とはよく言ったものかもしれない。周りも自分自身でさえも見れていなかった。
ヒュドラの猛毒を避けようとした時、僕の背後にはエミリアンがいた。そしてその彼の側には可愛らしく美しい女性が寄り添っていたのだ。驚いて固まっている僕の目に入ってきたのは、手を繋ぎ合う二人の姿。
その瞬間僕は全てを察した。僕が恋だと思っていたものは僕の一方的な想いで、完全なる勘違いだったんだとその時漸く気がついたのである。
コンコン、と扉がノックされる。どうぞと声を掛けると入ってきたのは執事のエイダンだった。
「ルーク様、お食事の時間ですがいかがしますか?」
「……スープだけ、いただくよ」
「かしこまりました。……お水、変えておきますね」
「うん、ありがとう」
エイダンは僕の言葉に軽く頭を下げた後、赤くなったタオルと金盥を見てぴくりと眉を動かした。しかしそれはすぐに元に戻り、手早くそれらを手に取ると一礼して部屋を出ていく。
僕がもう長くはないことを、エイダンは知っている。
エイダンは僕が血を吐いていることも、日に日に起きていられる時間も少なくなっていることに気付いている。
「……ごめんね、エイダン」
王に報告する必要はないと僕が言った時、彼は何かを堪えるような顔で返事をしなかった。否定も肯定もせず、ただ眉間に皺を寄せて難しい表情でただただ黙っていた。
彼の中の葛藤が何かがわからなかった僕はそれ以上何も言わなかったので、彼が王に報告したのかはわからない。正直我儘を言ってみただけだったから報告をしていてもしていなくてもどちらでもいいと思う。けれど、彼のあの痛みを堪えたような表情はもう見たくないなとは思った。
エイダンがスープと新しいタオルや水を変えた金盥、そして飲み水を運んできてくれたので、僕は大人しく水を飲んでからスープに口をつけた。野菜のエキスがたっぷりと入ったこのスープは僕のお気に入りだ。食事をする事が辛い時も、こうしてエキスを抽出し尽くしたスープだけは胃に入れる事ができた。僕は、この優しい味が大好きだった。
「ごちそうさまでした」
スープを飲み終わると、と僕は再び横になった。
ヒュドラの猛毒は解毒不可と言われている為、治療薬もない。王都にいるたった一人の聖女ならば解毒も可能だと聞いた事はあるが、そんな貴重な方が僕なんかのために来てくれるなんて到底思えなかった。
だからただこうして死ぬ瞬間をじっと待つしかないのだ。本来ならば即死や数時間苦しんだ末に死ぬ事がほとんどなのに、下手に自己治癒魔法が掛かった状態の身体は毒が回るのが遅いようで、悲しいことにこうして一週間生きられている。
自己治癒魔法を解けばすぐにでもこの世とおさらば出来る。でも僕はこの魔法の解き方を知らない。かつて僕の婚約者だった人が、僕の身を案じて掛けてくれたこの魔法はこうして呪いのように僕を苦しめている。
滑稽だと、自分でも思う。元婚約者は優秀で、王族は彼の血を欲しがった。だから偶々同い年だった僕に婚約者のお鉢が回ってきたのだが、そもそもが黒髪の忌み子として扱われていた僕が彼の婚約者になんてはなからなれるはずがなかったのだ。
(……でもまさか、他の人を好きになったからと婚約破棄されるとは思わなかったな……その上王都まで追い出されるとは、完全に想定外だったよ)
婚約破棄の場面を思い出して、溜息がこぼれる。
学園の卒業パーティーで婚約破棄を宣言され、お前が悪いと言わんばかりに僕を王都から追い出した。実質追放だ。せめてもの情けにとつけられた使用人達にやっぱり同情する。今からでも僕なんか放って王都に戻ってもいいのに。
そんなことを考えているうちに寝てしまったようで、僕が再び瞼を開いた時には既に陽が傾いていた。血のように赤い夕陽が、僕やこの部屋を照らし出している。
綺麗だと、思った。
「僕もあの夕日のように……」
――キラキラとした色だったらよかったのに。
この忌み嫌われる漆黒の髪も、この真っ黒な目も、全部があの夕日のようにキラキラと輝くような色だったらよかったのに。
そう思わずにはいられなかった。
「夕ご飯はいかが致しますか?」
「……スープだけ、くれる?あと、お水も貰えると嬉しいな」
「かしこまりました」
「……エイダン……いつも、ありがとうね」
「っ……私には、勿体無いお言葉です」
エイダンは言葉を詰まらせながらそう言うと、一礼して部屋を出ていった。僕はその背中を見つめながら、心の中でもう一度ありがとうと呟く。
きっと今夜が山だと思う。だって僕の心臓は嫌な音を立てているし、口も舌も手も何もかもが上手く動かなくなっている。
エイダンが持ってきてくれたスープを一口口の中に入れると、涙がぽろぽろと溢れた。一口、また一口、丁寧に口へと運んでいく。その度に涙が落ちていった。
僕と最後まで一緒にいてくれた三人に感謝を伝えたい。三人にはきっと僕以外の大事な人がいるのだろう。しかしその大事な人達を置いてここまでついてきてくれた三人には本当に感謝しかない。
僕はスープの器を下げに来てくれたエイダンに、他の二人の元まで連れて行って欲しいとお願いをしてみる。断られるかな、なんて思っていたのだが、意外にも彼は快諾してくれた。最初こそ目を丸くして驚いていたようだったが、すぐに微笑みながら頷いてくれたのである。
「立ってみるから、手伝って貰ってもいいかな?」
「……あの、もし宜しければ私がお運び致しましょうか?」
掛け布団を退けて、ベッドの端へと身体を動かそうとした時、それを心配そうに見ていたエイダンがおずおずとそんな提案をしてくれた。それは僕にとっては有難い事この上ない提案だったが、僕も一応男なのでそれなりに身長も体重もあることを考慮すればどうするべきなのか迷ってしまう。
「え?エイダンが?それは有難いけど……でも僕、重いよ?」
「大丈夫です。こう見えて鍛えておりますので安心して下さい。前か後ろか、いかがいたしますか?」
こう見えて、と言いながら力瘤を作るようなポーズをするエイダンに思わず笑みが溢れる。普段は真面目なのにたまにこうしてお茶目なところが彼の良いところだ。
前か後ろか……前は抱き上げるって事だよね?
そう考えて僕は少し恥ずかしくなり、小さな声で後ろでお願いしますと言った。エイダンは満面の笑みで「はい」と答えた後、ベッドの近くまで寄ってから僕に背を向けてしゃがみ込む。僕はゆっくりと体の向きを変えながらベッド脇まで身体を動かし、エイダンの背中に身体を乗せた。
「お、重くない?大丈夫?」
「はい、全然重くないですよ。……本当に、軽くなられましたね……っ」
エイダンが俯きながら震え出す。重くないですよと答えてくれた後に何か聞こえたような気がしたが、それよりもエイダンが小刻みに震えていることの方が気になった。
「エイダン?……震えてるけど、どうかした?あっ、やっぱり重かったよね?ごめんね?」
「いいえ……いいえ、大丈夫です。動きますので、しっかり捕まっててくださいね。ルーク様」
重くてごめんねと言うと、エイダンは首をふるふると横に振って声を震わせながらそう言った。僕はエイダンの首に腕を回して掴まると、彼はゆっくりと立ち上がる。
目の前にはエイダンの美しい真紅のような髪。僕の憧れた夕焼けの様に綺麗な彼の髪にそっと頬を寄せた。
エイダンは僕を背負いながら家の中を歩いていく。この道は、成程、まずは調理場に行くようだ。
案の定エイダンは調理場に足を踏み入れ、賄い(まかない)を作っているシェフのヘンリーを呼ぶ。
「ヘンリー、ルーク様がヘンリーにお会いしたいと……」
「うえっ?!ルーク様が?!」
あわあわと慌てた様子で火を止めたり、濡れた手をエプロンで拭いたりと忙しなく動くヘンリーは、僕を視界に入れた瞬間にぴたりと動きを止めた。両目を見開いて僕の顔を凝視している。
僕はそれに構わず、エイダンの頭の横からひょっこりと顔を出してへらりと笑った。
「こんばんは、ヘンリー。いつも美味しいご飯ありがとうね。でも最近はあまり食べられなくて、ごめんなさい」
ヘンリーのご飯はいつも美味しかった。最近は食欲がなくてほとんど食べられなかったけれど、それでもヘンリーが作ってくれる野菜スープだけは食欲がなくても食べられたんだ。今まで、僕のためにご飯を作ってくれてありがとう。そんな気持ちを込めてもう一度、ありがとうと告げる。
「そ……そんなっ!俺は……俺は、ルーク様が美味しそうに食べてくれるのが嬉しくて……俺の方こそいつも食べてくださってありがとうございます。これからもルーク様のために、ご飯作らせてくださいね!」
僕はその言葉に何も返すことができなかった。
エイダンも何も言わない。ヘンリーも返事がないことに驚かない。多分みんな気がついてる。僕がもうすぐ死ぬことに、みんな気が付いているんだ。
ヘンリーの声が聞こえたのか、はたまた偶々かわからないが、調理場の扉がノックされた。
ここには一人を除いてこの屋敷にいる全員が揃っているため、ノックの主が誰かは容易に想像できた。
「ヘンリー、何大声出して……っ、ルーク様?」
「こんばんは、ルイス。いつも屋敷を守ってくれてありがとうね、お疲れ様」
調理場に入ってきたのは使用人最後の一人、騎士のルイスだった。
ルイスは王族に仕える騎士でありながら、たった一人僕についてきてくれた騎士である。この屋敷の警護や僕の護衛を担ってくれている、とても強い人。僕の憧れであり、ここに来る前からの剣の師匠でもある。
ルイスは僕を見てかなり驚いているようで、金色の瞳をこれでもかというほど見開いている。僕がありがとうと言うと、痛みを堪えるような表情の後、俯いてしまった。
「……ルイス?」
大丈夫?どこか怪我でもしたの?
そう僕が聞くと、ルイスはただ一言「大丈夫です」と言ったっきり黙り込んでしまった。体の横に垂らされた彼の腕はぷるぷると震えている。それを見たエイダンも肩を振るわせ始めた。
「エ、エイダン?そろそろ重くなってきた?降りようか?」
「いいえ!……いいえ、どうかそのままで、いてください」
「えっ?え、でも……」
「っ……ルーク様、どうか……どうかそのままでいてやってください」
戸惑いながらこくりと頷くと、ルイスはほっとしたような表情をした。どうしてルイスが安堵の表情を浮かべたのかはわからないけど、エイダンもルイスもこのままでと言うならこのままの方がいいのだろう。
僕は、意気地なしだ。だってありがとうは言えたのに、ここに連れてきてごめんなさいと謝ることができなかったのだから。
そろそろ眠らないとお体に障りますよというエイダンの言葉にこくりと頷き、ヘンリーとルイスにおやすみなさいと告げた。二人は泣き笑いのような表情になりながらもおやすみなさいと返してくれ、僕とエイダンは調理場を後にした。
自室に戻り、ベッドに横たえられる。ベッドの横の窓から見える月は大きく、エイダンの話によれば明日は満月なのだそうだ。見れたらいいね、なんて話をしながら少しだけ話をした後、エイダンはおやすみなさいと言って部屋を出て行く。
僕は、また一人になった。
一人になった途端、心臓がおかしな音を立て始める。ドックン、ドクン、と不規則に大きく跳ねる鼓動に胸が苦しくなり、僕はベッドの上で胸を掻き抱きながら丸まった。
「くっ……はあ、うく、っ」
呼吸が乱れ、脂汗が流れる。
苦しい、痛い、そればかりで埋め尽くされていく。
(本当は、出来ることならエミリアンにもありがとうとさようならを言いたかったけど……無理そうだな)
そう思いながらも、エミリアンとその彼女が寄り添っている姿を見たくなかったからこれでよかったのだと心が言っている。これでよかった、これ以上傷つかなくてよかったのだと。
いよいよ息がうまく出来なくなり、目が霞んできた。あれだけ苦しくて痛かったのに、すうっと何事もなかったように引いていく。
(ああ、もう終わりか。本当はもう少し生きていたかったな……ああでも、そろそろ三人を解放してあげないといけないから、これでよかったのかもしれない。最後にみんなに挨拶できて、よかっ、た……)
僕の世界は、そうして幕を閉じた。
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