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第六章

百四十五話 物音

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 意識が浮上する。重い瞼をぐっと押し上げるが、世界は真っ暗なままだった。ゆっくりと数度瞬きを繰り返しても暗いままの世界に、今は夜なのかと思う。

 眠ったことで頭痛は少しましになっていた。部屋の壁掛け時計の秒針がチッ、チッと規則正しい音を立てている。いつもであれば気にならないくらいの小さな音なのに、部屋の中が静かだからなのかやけに耳についた。
 仰向けに寝転び、ぼんやりと天井を見つめる。暫くすると真っ暗だった視界は徐々に開いていき、数分が経つ頃には掲げた自分の手が見えるようになっていた。

(……今、何時だろう?)

 時計がある方を見上げるが、いくら視界が戻ってきたからといっても流石に時計の針までは見ることはできない。俺は鉛のように重い体を引きずりながらベッドから落ちるように降りた。

(スマホ……どこだっけ?)

 帰ってから着替えもせずに寝転がり、そのまま眠ってしまったことだけは覚えている。だがスマホを入れたバッグをどこに置いたかまでは思い出せなくて、俺は大きく溜息を吐いた。
 
 その時、不意に遠くの方で微かにカタンという音が聞こえた気がした。初めは聞き間違いか幻聴かとも思ったのだが、それにしてはずっと聞こえてくる。

(もしかして……律樹さん……?)
 
 今は夜のようだし、彼が帰ってきていたとしても不思議ではない。そうだったらいいなと少しの期待を込めつつ、俺はベッドに寄り掛かりながら立ち上がり、手探りで探し当てた壁を伝いながら部屋を出た。

 結論から言えば、物音は律樹さんではなかった。
 律樹さんの部屋を覗いてみたが、そこはもぬけの殻。あれ?と首を傾げながら光のない真っ暗な廊下をゆっくりと進んでいくが、どこもかしこも人の気配はなかった。
 
 ――なら、どこから音が聞こえてくるのだろう。
 音が聞こえてくる方へ近づきながら、手近な部屋の中を見ていく。しかし洗面所やトイレ、台所、そして居間にもやはり彼の姿はない。

「……っ」

 こういう時、ふと思い出す。
 少し前に見た夢のことを、そしてあの家にいた頃のことを。
 無意識のうちに身体が小刻みに震え出し、ゆっくりでも進んでいた足はぴたりと動きを止めた。怖いという感情が足元から込み上げてくる。
 
 俺はその場にぺたりと座り込んだ。おすわりの体勢はSubにとっては本能的に落ち着く体勢だというが、本当にそうらしい。そのまま暫く身体を抱きしめていると徐々に震えがおさまってきた。ゆっくりと呼吸を繰り返していくうちに緊張と不安で乱れていた呼吸が段々と落ち着いていく。最後に大きく息を吐き出し、俺はもう一度前を見据えた。

 音の出所は、玄関だった。
 そういえば以前にも同じようなことがあったなと思い出す。あの時は確か酔っ払った近所の方が自分の家と間違えて鍵を開けようとしていたんだっけ。

「……だ、れ……?」

 喉がからからに渇いている。口の中に残った僅かな唾液をごくりと飲み込み、喉を潤わせようとしたが、未だ渇いたままだった。
 勇気を出して問いかけた声は酷く掠れている上に震えていた。その上その声は蚊の鳴くようにか細く、そして自分の耳にすら届いているかどうかも怪しいくらいに小さな声だった。そんな声量だったにも関わらず、何故か玄関から聞こえていた音がぴたりと止んだ。

 玄関扉のガラス戸の向こうで影が揺れる。
 まるでホラー映画に出てくる一幕のようだった。

 人の形をした黒い影はゆらりと揺れた後、すっと消える。カタカタという音も再び鳴り始めることもなかったから、きっとどこかに行ってしまったのだろう。そうであって欲しいと思いながら、俺はふうと無意識に詰めていた息を吐き出した。



 あれから玄関先で物音がすることはなかった。多分もう何も起こらないと思う。そう思ってはいても、一人真っ暗で静かな自分の部屋に戻る勇気なんて俺にはなかった。俺は未だ少し震えている足にぐっと力を入れて立ち上がり、今いる場所からほど近いところに位置する居間へと向かった。
 
 居間に着くと同時に明かりを付け、テレビの電源を入れる。明るい室内に響く賑やかな音楽と笑い声にようやく一息吐けたような気がした。そうしてソファーに寝転びながらぼんやりとテレビの画面を眺めているうちにまた眠っていたらしい。

「……こんなところで寝たら風邪引くよ」

 肩をゆすられ、閉じていた瞼を開ける。低く柔らかな声色に含まれる心配の色に、俺はなんだか嬉しくなってへらりと笑った。

「おかえり、なさい」

 寝起きのからからに渇いた喉から出た声はいつもよりも酷いものだった。掠れに掠れたその声は自分自身の耳にすら届かないほどだったにも関わらず、目の前の彼には問題なく通じたようで、小さな「ただいま」という言葉が返ってくる。
 
 少し前までは日常だった光景。
 けれどここ数日で大きく変わってしまった光景。

「……じゃあ、俺シャワー浴びてくるね」
「っ……まっ、て!」

 そう言って離れて行こうとする彼の手を慌てて掴んだ。帰ってきたばかりなのだろう、その手は凍えるように冷たい。俺はゆっくりと身体を起こしながら、数日ぶりに合った目をじっと見つめた。

 律樹さんの目の下には色濃い隈が出来ている。もしかしてここ数日まともに眠れていないのだろうか。
 俺は手を掴んでいない方の手を彼の顔へと伸ばした。いつもはきめ細やかで綺麗な肌が今は少しざらついている。黒い隈に指先をそっと沿わせながら、俺は無意識に眉を寄せた。

「……っ」

 いくらDomの方がましとはいえ、一定期間プレイをしなかったらDomだってSub俺たちのように体調は悪くなる。抑制剤などの薬を用いれば一週間程度であれば大丈夫だと言われているようだが、今の律樹さんのように疲労が溜まっていたり、睡眠がうまく取れなかったりしていると数日程度でも体調が悪化することもあるのだという。

 俺は掴んでいた手にもう片方の手を重ね、困惑が混じった琥珀色の瞳を見上げた。

 
 
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