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第六章
百四十四話 わからない
しおりを挟む考え事をしているうちにいつの間にか辿り着いていたらしく、気付けば家の前にいた。いつものように扉の取手に指先を掛けて開けようとするが、扉はガタッと僅かに揺れただけで開く様子はない。
そういえば律樹さんは今日も遅いんだったっけ。俺用にと渡されている合鍵をバッグから取り出し、鍵穴に差し込む。手首を捻りながら回すと、解錠を知らせるカチッという小さな音が鳴った。
鍵穴から鍵を抜いて扉に手を掛けると、今度はガラガラという音とともに扉が開いた。ただいまと口を動かしながら視線を落とす。……やっぱり律樹さんはまだ仕事から帰ってきてはいないらしい。視線の先にある玄関の土間部分には、行きと同じように共用のサンダルが一足あるだけだった。
靴を脱ぎ、上り框に足を掛ける。靴下越しにも感じる床の冷たさに身体がわずかに竦んだ。
誰もいない居間を通り過ぎ、まずは洗面所に向かった。蛇口を捻り、水の中に手を入れる。真冬の水は冷たいはずなのに、不思議なことに外から帰ってきたばかりで冷え切っている指先には僅かにぬるく感じた。水が触れたところからじんじんと微かに痺れが湧き上がっていく。
なんとか手を洗い終え、ふわふわのタオルで手を拭いた後、俺はゆっくりとした足取りで与えてもらった自室へと向かった。
「はぁ……」
部屋に着くと同時に、俺は着ていた服もそのままに冷たい布団の上にぼふんと力なく倒れ込んだ。……身体が重い。気分が落ち込んでいるというのもあるだろうが、単純に体の不調が増しているせいでなんだか鉛のように重く感じた。
朝よりも酷い頭痛に耐えるように強く目を瞑る。しかし痛みは引くどころか、体の重さに比例してどんどんと増していくばかりだった。
布団の上で身体を丸めながら俺はそっと首元の首輪に触れた。指先から伝わるのはいつもと同じ冷たくて固い感触。少し前までは触れると同時に心が落ち着いていったものだが、今はどうしてか胸が痛んだ。
――会いたいなぁ……なんて。
ここ数日、律樹さんの帰りは遅い。
単純に仕事が忙しいというのもあるんだろうけれど、何となく他にも理由があるんじゃないかなんて思ってしまう。体調が悪いと思考がネガティブになってしまっていけない。でもここ最近の律樹さんの様子を見ているとあながち嘘でもないんじゃないか……なんて思うんだ。
……実際、色々思うところがないわけじゃない。少し前までは頻繁に合っていた視線も今は一度もなかったり、一緒に夕食を食べることもお風呂に入ることも、そして何より二人で過ごす時間もなかったり――まあ俺の気のせいかもしれないんだけど。
今日も遅くなると言っていたけれど、何時に帰ってくるんだろう。昨日は深夜だったみたいだけど、今日もそうだったら寂しいなぁ……なんて。
「ぅ、……っ」
不意にズキンと頭が割れるように痛んだ。先程までよりも幾分か強い痛みに堪らず呻き声が漏れる。こういう時鎮痛剤が使えれば少しはましだったんだろうが、生憎今の俺には薬が一切使えない。
(……ほんと、不便な身体)
今の俺に出来ることはただ耐えることだけ。
我慢していればいつかは痛みはどこかへ消え去ってくれるはず。だからその時まで俺はこのまま耐え続けるしかない。
――そう、ただそれだけだ。
身体を丸めながら痛みをやり過ごすためにもう一度目を閉じる。固い物で殴られているような強い痛みに時折息を止めながら、俺はじっと耐え続けた。しかしガンガンと鳴り響くような頭痛に、気付けば俺の意識は深く沈んでいった。
すうっと引いていく痛み。気を失ったのか眠ったのかはわからないが、どうやら俺は夢の中にいるようだ。
夢の中で俺は現実と同じように律樹さんの家にいた。けれど現実とは違って隣には律樹さんがいる。久しぶりに感じる重なった手の感触と温かさに、夢だとわかっていても鼻の奥がつんとした。
「弓月」
隣を見上げると律樹さんの琥珀色の瞳と視線がかち合う。向けられる目は蕩けそうなほど甘いものではなく、僅かに歪んでいる。笑みを浮かべているようにも泣いているようにも見えるその表情に、胸がつきりと痛んだ。
「弓月は俺がDomだから好きなんだよね」
つい先程まで春のような暖かさに包まれていた身体は、一瞬で真冬の海のように冷たくなった。
違う、そう言いたいのに口が動かないし声も出ない。
「本能で同じランクのDomに惹かれただけ」
――これは夢だ。
夢だとわかっているはずなのに、心は凍りついていく。
……俺だって、一度も考えなかったわけじゃない。
俺たちのようなSubはDom性を持つ人間がいなければ生きてはいけない。それぞれ性のランクにあったプレイパートナーを見つけ、生きていくために欲求を満たすためのプレイを行わなければならないんだ。それは第二性を持たないNormal以外であれば生きていく上で必須の条件となる。特に俺のように強いSub性を持つ奴には絶対だ。
一定期間プレイをしなければ体の不調は当然のこととして、最悪の場合死に至ることもある。それがどのくらいの期間なのかは個人差が大きいために目安すらも算出することは難しいらしく、どこにも書いてはいなかった。
「――だからNormalの俺のことを振ったんだよね」
「……っ」
落ち着いた低い声が急に少し高い声に切り替わった。それと同時に律樹さんの姿が掻き消え、代わりに壱弦の姿が現れる。繋いでいた手は離れ、それまで伝わっていた体温が嘘のように急速に冷えていった。
「俺はNormalだから弓月にコマンドを与えてやれない。形だけのプレイをすることは出来ても、完全なプレイをして欲求を満たしてやることは出来ない」
「弓月にとってそれは死活問題だ」
「だからこそ同じランクのDomである瀬名先生を選んだんだろう?」
違うと言いたいのに、言えない。
俺はその言葉たちをすぐに否定をすることができなかった。
身に覚えがあるとかそういうことじゃない。けれど自分の心のどこかではその気持ちがあったかもしれないと思ってしまう自分がいる。
俺は律樹さんが好きだ。愛している。けれどこの気持ちは果たして本当に俺の本当の気持ちなんだろうか。本能で強いDomを求めているだけなんじゃないだろうか。
壱弦を振ったのも、彼が第二性を持たないNormalだから。本能が求めているものは強いDomだから、律樹さんを強く求めてしまっているんじゃないか。
考えれば考えるほどそうなんじゃないかって思えてくる。結局は俺も、所詮は俺の大嫌いな家族と同じ種類の人間だったのかもしれない。あの人たちのような汚れた血が俺の中にも確かに流れているのだから何もおかしな話ではない。
「――誰も、本能になんて抗えないんだよ」
大事な人達の声が重なって聞こえてくる。
これは夢だ、現実じゃない。それはわかっている。……わかっているのに放たれた言葉が耳を打ち、俺の心に黒い影を落とした。
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