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第六章
百四十二話 御守り 後編
しおりを挟む「あのさ……もし違ったなら……いいんだけど」
駅までの道のりの途中、不意に隣を歩く壱弦がそう言った。相変わらず手は繋がれたままだったが、もう手は震えてはいなかった。
俺は「なに?」と壱弦の方を見ながら続きを促すように小さく首を傾げた。しかし言い難いことなのか、壱弦は何度も開きかけた口を何も発さずに閉じるということを繰り返している。
暫く沈黙が降りたまま俺たちはゆっくりと道のりを進んでいった。僅かに居心地の悪さを感じる静けさではあったけれど、不思議と落ち着いてはいたような気がする。
そのまま数分が経ち、もうすぐ駅に着くという時だった。ようやく言う決心がついたのか、壱弦が足を止めて俺の方を向いた。手を繋いでいた俺もつられて足を止め、口を開こうとしている彼を見る。
今日だけでもこの光景を何度見たことだろう。何かを言おうと口を開いたはいいけれど、結局何も言えずに閉じていく口。だがさっきまでとは違い、引結ばれた唇が再び開いた。
「さっ……さっきの御守り、って……もしかして……瀬名先生の?」
「……!」
俺はその言葉にバッと壱弦の方を見た。無意識に多くなる瞬き、そして心臓がとくとくと鼓動を速め始める。壱弦の方も俺のあまりの勢いに驚いたのかびくっと微かに身体を揺らした。壱弦は俺と同じように目をぱちくりと瞬かせた後、やっぱりと言って眉尻を下げた。
別に律樹さんにあげるための御守りだったとしてもそれは悪いことではないだろう。それ自体は別にやましいことでもなんでもないはずだ。それなのに、俺は壱弦の目を見ていることが出来なくてすっと目を逸らした。
「な……んで……」
「……わかるよ、弓月のことなら」
「……」
「だって俺……弓月のことが好きだから」
「……え……?」
好きという言葉に、俺の心臓が大きく跳ね上がる。
ドクンドクンと大きく鼓動し始め、俺は逸らしていた視線を再び壱弦の焦茶色の瞳に合わせる。繋がれた手から伝わる振動がどちらのものなのかもわからないけれど、少なくとも俺の心臓は大きく音を立てて動いていた。
「本当はさ、言うつもりなんてなかったんだ。だってずっと……どんな形であれずっと、隣にいられると思ってたから」
寧ろ伝えることで今のこの関係性が壊れてしまうかもしれないことの方が怖かったのだと、そう壱弦は苦笑混じりに呟く。その言葉は俺の心につきりとした痛みを与えた。
俺も以前似たようなことを考えていた。
俺の律樹さんに対する好きという気持ちが家族愛なのか、それとも恋愛なのかを聞かれた時だ。あの時、俺はすぐに答えることが出来なかった。もし俺のこの気持ちが彼の望む答えではなかったら、俺が答えた瞬間に今までの関係性が全て崩壊してしまうような……そんな気がして怖かったんだ。
だから不安や恐怖に押しつぶされそうになる気持ちはよくわかる。あの時は数分、いや数秒ほどのことだったかもしれないが、途方もなく長い時間のように思えたものだ。
「でも、っ……でも弓月と会えなくなった時……ずっとなんてものはないんだって気付いた。それまでは友達のままでもいいから一番近くに……隣にいれればいいと思っていたのに、それが当たり前じゃなかったことに気がついたら……もう、抑えられなくなってた」
俺は地面に向けていた視線を少しだけ隣に向けた。すると俺の方を見ていたらしい焦茶色の瞳と視線が合う。表情は今にも鳴きそうな笑顔なのに、その目があまりにも穏やかに凪いでいて、俺は思わずこくりと喉を上下させた。
「俺はこれからもこの先も、ずっと弓月の隣にいたい。弓月の隣で一緒に笑ったり泣いたり、たくさんの思い出を築いていきたい。弓月が今まで抱えてきたものを……俺に抱えさせて欲しい」
俺を真っ直ぐに見つめる瞳に強い光が宿る。真剣さを帯びた意志の強そうな目からは、壱弦がどれほど本気でこの言葉を紡いでいるのかが伝わってきた。
繋いだままの手に力が込められる。先程までの振動とは違い、今は壱弦の手が小刻みに震えているのがわかった。
「――好きだよ、弓月」
――出会ったあの瞬間からずっと好きだった。
そう壱弦は笑った。俺は何かを言おうとして、けれど何も言えなくて、僅かに開いた口を震わせながらきゅっと唇を引き結んだ。
もし、もしも俺がSubじゃなくて普通の家庭で普通の子どもだったらどんな風になっていただろう。欲求を発散させるための定期的なプレイは必要なく、あの頃のように兄やシュンたちに虐げられることもなかったと思う。……いや、もしかすると俺がSubじゃなくても兄は俺を虐めていたかもしれない。
俺がSubじゃなくてあのまま学校に通えていたら、きっと壱弦は俺にこうして想いを伝えることはなかっただろう。中学校、高校、それから大学。みんなと同じように勉強をして、遊んで時々喧嘩をしてもまた仲直りをして――そうしてずっと一緒にいられたんだろうな。
でも俺はSubだ。紛れもないSランクのSub。どう足掻いたところでこの第二性が変わることはない。俺が経験してきたあの地獄のような日々を思えばSubという性に嫌気はさすけれど、それでもいいこともあった。
「……ごめん、なさい」
俺はゆっくりと頭を下げて呟いた。とても小さく、ひどく掠れた声だった。けれど懸命に絞り出した言葉は壱弦の耳にも届いていたようで、彼はただ一言「そっか」と言った。
壱弦からの想いを聞いてなお、俺の中を占めるのは律樹さんただ一人だった。初めは俺を地獄から救い出してくれた恩人というだけだったけれど、一緒に過ごしていくうちにいつしか彼のことしか考えられないくらいに思いは膨らんでいた。
時折不安になることもあるけれど、それでもやっぱり俺は律樹さんのことが好きだ。
「……そっ、かぁ……」
「……っ」
耳に届いた小さく震えた声に、もう一度ごめんなさいと謝罪する。さっきよりも小さく、そして掠れた声は彼の耳に届くことなく消えていった。
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