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第六章
百三十六話 途中送信の言葉 中編
しおりを挟むあっと思った時には既に遅く、シュポッという音とともに無情にもトーク画面にメッセージが表示された。
どうしよう、まだ書いている途中だったのに……。
送信取り消しってどうやるんだっけとあわあわする俺の耳に届いたのは、聞き慣れたピロンという電子音。その瞬間、俺の身体はまるで石像にでもなったかのようにぴしりと動きを止めた。隣に座っている律樹さんがスラックスのポケットからスマホを取り出す。視線がテレビから手元へと移る様子がやけにゆっくりに感じられ、俺はスマホを握る手に力を入れた。
律樹さんの指がするりと滑るように動いていく。角度的に画面までは見れないけれど、恐らく俺とのトーク画面を見ているのだろう。途中送信をしてしまったのだから早く続きを書いて送らなきゃと思うのに指はぴくりとも動かない。焦りなのか何なのか、俺は額に汗を滲ませながらちらりと律樹さんの顔を覗き見た。
「……!」
画面を見つめる彼の眉が微かにぴくりと動く。ただ単に動いたように見えただけなのか、それとも顰めたのかまでは俺にもわからない。だがその様子に、少し前に行った文化祭でのことが脳裏によぎった。
(そういえばあの時もこんな表情だったな……)
思い返せば俺が壱弦といる時はいつだってこんな表情をしていたように思う。その時は気のせいかとも思っていたが、今の彼を見て改めて気のせいではなかったのだとなんとなく思った。
どんな表情かって聞かれても説明しにくいのだが、強いて言うならば不機嫌ともとれるような何とも言えない複雑そうな表情といったところだろうか。今までの俺なら「どうしたんだろう?」なんて疑問に思うこともなくスルーしていたが、壱弦の想いを知ってしまった今では何となくその表情の意味が分かってしまった気がしてスルーすることが出来ない。
それに、もし律樹さんが俺よりも先に壱弦の気持ちに気付いていたとすれば、今までの表情や態度にも説明がつく。ただ俺一人が知らなかっただけで、これ以外の言動にも意味があったのかもしれないと思った。
俺がそんなことをぐるぐると考えている間にも、彼の中では答えが出ていたらしい。目を閉じて整えるようにそっと息を吐き出し、そしてゆっくりと瞼を押し上げていく。そこから覗く琥珀色が僅かに陰ったように見えたかと思えば、俺の喉が無意識に音を立てた。
「そうだね……お互い気晴らしにもなるだろうし、行っておいで」
目を伏せながら呟くようにそう言う律樹さんの声に、俺の口からは「へ……」と気の抜けた音が漏れた。その音に手元のスマホを見つめていた琥珀色の瞳がこちらを向き、ふっと和らぐ。いつものような穏やかで優しい目元に胸が高鳴る。しかしもう一度発せられた言葉に、俺は目をぱちくりと瞬かせた。
『……なんで』
虫の声にさえかき消されそうなほど小さくて掠れた声が俺の口から溢れ出た。少し前の律樹さんなら眉間に皺を寄せて渋っていただろう。今もそうだと、思っていた。
心臓が急に動きを止めたようにおとなしくなる。しかし代わりに突き刺すような痛みが胸を襲った。
確かに律樹さんの言う通りお互いの気晴らしにはなるだろう。けれどまさか肯定が返ってくるとは思わなくて思わずそう呟くと、彼は眉尻を下げながら困ったように笑った。
「折角誘って貰ったんだから、俺のことは気にせず遊んでおいで。きっと刈谷も……弓月のことをお祝い、したいんじゃないかな」
「……っ」
楽しんでおいでと笑う律樹さんに、心臓がずきんと痛みを訴えた。そんな痛みに抗うように俯き、痛んだ箇所を手で握りしめる。服に皺が寄ろうが別にどうでもいい。俺は拳を小刻みに震わせながら服を握りしめていた。
俺は、何も言えなかった。
そもそも声が出ないとかそういうことではなく、答える言葉が思い浮かばなかったのだ。
律樹さんの優しくて温かな手が俺の背中をそっと撫でる。まるで勇気を出せと背中を押してくれているようだったのに、なんでこんなに苦しいんだろう。律樹さんはただ俺に――そう思った時、俺はやっと今の自分の気持ちを理解した。
きっと俺は、律樹さんに行かないでと言って欲しかったんだ。俺がいるんだから他の人となんか行かないで欲しいって、そう……思って欲しかったんだろう。
けれど気付いたところで何も出来ないし、言えない。喉に魚の骨が刺さったような微かな違和感と痛みを無視する以外に、今の俺に出来ることは何もなかった。
「…………ん」
長い沈黙の後、俺はその一言を発するのが精一杯だった。胸を掴む手をそのままに、俺は俯きながらスマホに指先を滑らせた。震える指先をゆっくりと動かしながら、壱弦宛に了承の旨の返事を書いていく。壱弦とのお出かけが嫌なわけではない。嫌なわけではないけれど、今は少し気分が落ち込んでいた。
俺はソファーから立ち上がり、おやすみなさいと律樹さんの横顔に向かって小さく呟いた。これ以上ここにいると泣いてしまいそうだった俺は、彼の返事も待たずにリビングを後にした。
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