162 / 193
第五章
百二十八話 好きな人
しおりを挟む一度溢れ出した涙は止まることを忘れてしまったかのように次から次へと流れていく。しゃくりあげることもなく、声を上げることもなく、ただただこぼれ落ちていく涙。
既に日は落ち、窓の外はもう真っ暗だ。お店や住宅の灯りがぽつぽつと黒の中に浮かび上がる光景はとても綺麗だが、それでいて少し寂しく感じる。けれどそんな灯りも家に近づいていくごとに少なくなっていき、俺は僅かに視線を下げた。
ウインカーの音が聞こえ、ゆっくりと車が止まる。街灯から外れた真っ暗な背景に自分の顔が映っていた。
さっきまで冷たい空気に晒されていたからか、頬や鼻頭がほんのりと赤くなっている。それに――なんて酷い顔だろうと思った。表情は無いに等しいのに、涙だけはぽろぽろと流れている様子は側から見れば不思議な光景だろう。俺も、俺自身がよくわからなかった。
車が進み出し、カタッという音とともに車体が振動した。そうして少し進んだところで車が停止する。もうついたのかと視線を動かすが、残念ながらそこは律樹さんの家ではなかった。
もうすぐ夕飯の時間だから買い物でもするのかもしれない。そんなことを考えながら袖で目元を拭おうとした時、律樹さんが俺を呼んだ。反射的に、しかしゆっくりと振り返る。運転席側に顔を向けると同時に後頭部があたたかなものに包まれ、次の瞬間には俺の顔は律樹さんの胸に押し付けられていた。
「……っ……?」
今この一瞬の間に一体何が起こったのだろうか。
自分の意思とは関係なく驚きに見開かれていく目。一度ぱちりと瞬きをすれば瞳を覆っていた膜が崩壊し、大きな雫がぽろりと落ちていった。
視界いっぱいに広がるスーツの色、そして鼻腔を擽る俺の大好きな優しい香り。律樹さんに抱きしめられているのだと気がついた時、びっくりしたことで一瞬止まっていた涙が再び溢れ出した。
「……何かあったんだろうなってことは、駅で顔を見た時からなんとなくわかってたよ。刈谷も……何か言いたそうだったしね」
「……」
俺は何も応えなかった。僅かな返事も肯定や否定の仕草も、そして手元にあるスマホを使っての返答や説明も、俺は出来なかった。
少し前までの俺なら全て話したら嫌われるかもなんて考えていたけれど、今はそうじゃない。きっと律樹さんなら何も言わずに話を聞いてくれるだろうし、俺を嫌うことなんてないだろう。けれどどうしても俺は言えそうになかった。
だって説明しようとすれば壱弦の好きな人が俺だってこともばれてしまうし、俺がそのことを知っているのだと知られてしまうから。
律樹さんが不用意に口を滑らせる人じゃないってことくらい知っている。でもそうじゃない。ただ俺が、俺の好きな人に知られたくないだけだ。
俺が何も言わずに黙り込んでいると、律樹さんが小さく溜息をこぼした。後頭部を包み込む彼の手が髪を梳かすようにゆっくりと上下に動き出す。
「別に、無理に理由を聞こうなんて思ってない。でも泣く時くらいは……俺を頼ってほしいな」
「……っ」
「……大丈夫、ここには弓月と俺しかいないから」
俺は強く目を閉じ、律樹さんのシャツをぎゅっと掴んだ。再びぽろぽろと溢れ出した涙が頬を伝う前に押し付けた彼のシャツに全て吸い込まれていく。俺の頭を撫でる大きな手と体に触れる温もりに背中を押されるように、俺は涙が溢れるままに泣き続けた。
そうして助手席と運転席に座った状態で抱きしめられながら泣き続けた結果、俺はいつの間にか眠っていたらしい。気付けば律樹さんは買い物を終え、車は家に着いていた。
先に買い物の荷物を下ろし終えた律樹さんが助手席のドアを開け、俺に手を伸ばす。それに寝起きの力の入らない手を重ねると、ぐっと強く引き寄せられてもう一度抱きしめられた。
「っ……?」
「……歩ける?」
「……ん」
耳のすぐ近くで発せられた低く優しい声に、心臓がどくんっと大きく高鳴る。涙はもう引っ込んでいたけれど、今度は熱を帯びていく顔を隠すように彼のシャツに顔を押し付けた。
その後は、少し違うところもあったが概ねいつも通りだった。車から降りてすぐに一緒にシャワーを浴び、律樹さんの作ってくれたご飯を食べて眠った。自分が思っていた何倍も疲れていたようで、布団に潜り込んだ瞬間からの記憶がない。目が覚めた時には既に布団に律樹さんの姿はなく、俺はベッドの上で一人だった。
律樹さんが気を利かせて充電してくれたのだろう、枕元に置いていたスマホには充電ケーブルが差し込まれていた。俺はそのスマホを手に取ってケーブルを抜き去り、布団に潜りながらスマホに触れる。何件か来ているメッセージのうち一件は、昨日も会った壱弦からだった。
(体調は大丈夫か?……か)
書かれている内容はどれも俺を心配するものばかりだった。俺はそのメッセージに『大丈夫』とだけ送ると、すぐに良かったと返事が返ってくる。だが、その後に続いたメッセージに俺はぴたりと指の動きを止めた。
――今週の土曜日、もし空いてたら出掛けないか?
昨日壱弦の家に行くまでの俺であれば、受験勉強の邪魔にならないかなぁと心配しながらも二つ返事で了承の返事を送っていたに違いない。しかし、今はただどうしようと内心頭を抱えるしか出来なかった。
148
お気に入りに追加
1,117
あなたにおすすめの小説
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
王命で第二王子と婚姻だそうです(王子目線追加)
かのこkanoko
BL
第二王子と婚姻せよ。
はい?
自分、末端貴族の冴えない魔法使いですが?
しかも、男なんですが?
BL初挑戦!
ヌルイです。
王子目線追加しました。
沢山の方に読んでいただき、感謝します!!
6月3日、BL部門日間1位になりました。
ありがとうございます!!!
親友だと思ってた完璧幼馴染に執着されて監禁される平凡男子俺
toki
BL
エリート執着美形×平凡リーマン(幼馴染)
※監禁、無理矢理の要素があります。また、軽度ですが性的描写があります。
pixivでも同タイトルで投稿しています。
https://www.pixiv.net/users/3179376
もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿
感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!
https://www.pixiv.net/artworks/98346398
目が覚めたら囲まれてました
るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。
燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。
そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。
チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。
不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で!
独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる