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第五章

閑話 刈谷壱弦は混乱する 中編

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 突然座り込んでしまった桃矢に俺は慌てた。弓月も桃矢も床にぺたりと座り込んだまま動かない。桃矢は俯いたままじっと床を見ているし、弓月はそんな桃矢の頭頂部をぼんやりと見つめている。この部屋の中では俺だけが異質だった。
 
 二人の様子がおかしく感じたのはおそらく最初からだ。そう、俺が部屋の扉を開けた瞬間から二人を纏う空気はおかしかった。けれど今までこんな二人を見たことがなかったと思うくらいで、どこがおかしいかまではわからなかった。
 
 俺の目の前にあるのは、かたかたと身体を小刻みに震わせながらも桃矢を一心に見つめる弓月と、そんな弓月を呆然と見つめる桃矢の姿。瀬名先生から俺が聞いたのは、弓月が桃矢に謝りたいらしいということだけだった。しかし目の前の光景はどう見ても謝罪するような雰囲気ではない。謝罪したい相手を目の前にして震えているというよりは、思い出した恐怖に体が震えているといったような感じだった。

「……今まで、どこにいたの」

 不意に桃矢が絞り出したような声色でそう呟いた。質問というよりは、なんとなく答えがわかった上での確認のような言葉だった。だが弓月は答えない――いや、答えられなかった。
 だって、そりゃあ当たり前だろう。少し声が出るようになったとはいえまだしっかりと発声できるわけでもないし、言葉を紡げるわけでもないのだから。だが桃矢はそんな事情を知らないだろうし、まさかそんなことになっているなんて露程にも思ってはいないだろう。だから桃矢は一向に話そうとしない弓月に苛つきを覚えてしまうんだろうなと思った。

「ねえ……僕の質問に答えてよ」

 多分弓月が意図的に無視をしているのだと思ったんだろう、募る苛立ちを隠しもせずに桃矢はそう言い放った。
 だが実際はそうではない。どうしようもないんだ。だから俺は喋れない弓月の代わりに状況を説明するために、咄嗟に桃矢の肩を掴んで口を開いた。
 
「おい、桃矢……弓月は」
「っ、壱弦は黙ってて!」

 声を荒げると同時に手を振り払われた。一瞬の間の後、今度は俯いて吐き捨てるように「何も知らないくせに」なんて桃矢は言う。こいつに怒鳴られるなんてのは割とよくあることだから別にそんなことでは今更驚きも何もない。でもその後に吐き捨てられた言葉は少なからず俺に衝撃を与えたようで、俺の身体は動きを止めた。
 
 ……何も知らないくせに、か。
 その言葉に自嘲が浮かぶ。……確かにそうなんだろう。中学の頃はそれなりに仲が良かったとはいえ、弓月が高校を辞める直前の二人はどこかよそよそしかった。あの頃はこの二人が喧嘩するなんて珍しいなとしか思っていなかったが、今から思えば喧嘩なんて優しいものじゃなかったのだろう。俺が踏み込めないような――それこそ俺が本当の意味で理解することが出来ない第二性のような問題を抱えていたのかもしれない。
 
 文化祭での騒動の時、近くにいた数人が一斉に体調を崩した。後から聞いた話だと、あの騒動はDomの発した威圧グレアが原因で、それにあてられてしまったSubの人達が体調を崩してしまったのだという。俺はNormalだから正直よくわからないけれど、あの時倒れた弓月は多分――いや恐らくSubなのだろう。高校に入ってすぐに行われたダイナミクス検査の結果を隠したがっていたのはそういうことだったのかと、あの時ようやく腑に落ちた。
 いや、でも確か桃矢は俺と同じNormalだったはずだ。親からもそう聞いたし、本人からもそう聞いた。それにあの時、検査結果の紙も桃矢から見せられたが、確かに『Normal』と書かれていた。

 俺は変な方向に動き始めた思考を止めるように目を閉じ、深呼吸をした。肺いっぱいに空気を取り込み、空になるくらいに吐き出す。それを数回繰り返すうちに気持ちは落ち着き、俺は最後に深く息を吐き出した。
 俺は床に座り込んだ桃矢の隣に跪き、少し興奮状態にある桃矢の肩に再び手を置いて静かに名前を呼んだ。すると彼の肩がぴくっと小さく跳ねる。それに構わず俺は桃矢が想像もしていないだろう事実を告げるために口を開いた。

「あのな桃矢、弓月は今話せない」
「…………は?」

 まるで幼い子どもに言い聞かせるようにゆっくりとそう口にする。けれど案の定、桃矢からは意味がわからないといった表情と声が返ってきた。
 まあそうだろうとは思う。正直な話、その反応をする気持ちはわからないでもない。俺だって弓月と再開した時に同じように思ったから。話せないって何だろう、話したくないってことなのかな、なんて。
 
 でも、実際はそうじゃなかった。
 話したくても声が出ないので話せないという、弓月にはどうしようもないことだったのだ。
 
「声が、出ないんだ」
「……う、そ」
「残念ながら本当だ。色々あって、声を失くした」

 今の弓月に伝える手段がないのなら、今は俺が弓月の声になればいい。そう思って伝えた言葉だったが桃矢にはやはり受け入れ難かったらしく、上げていた顔を下げながらずっと譫言のように「うそだ」という言葉を繰り返している。

 ふと顔を上げた弓月と目があった。驚いているような、それでいて困惑しているような黒色の瞳だった。そんな彼を安心させたくて「大丈夫」と伝えるようにふっと目元を和らげたのだが、何故か弓月の表情が泣きそうに歪み、気付けばすっと視線を逸らされていた。
 
 艶のある細くてふわふわとした黒髪が小さく揺れている。彼の身体がまだ震えていることに気づくと同時に、俺はこの場の解散を提案していた。今はこれ以上三人でここに集まっていても意味がないような気がしたんだ。だからまた日を改めるか、二人から個別に事情を聞き出して今後どうするかを決めるのがいいと思ったのだが、桃矢は違ったらしい。

「……いやだ」

 発せられたのはたった一言だけだった。なのにも関わらず心臓がドクンと大きく跳ね、肌がピリつき始める。その上首の後ろがチリチリと痛むようなそんな感じがして、俺は思わず桃矢から手を離して自分の首の後ろに当てた。しかしそこには虫もなにもない。
 俺は首を傾げながら隣に座っている桃矢に視線を向けた。いつの間に立っていたのだろう、俺の視界に映るのは桃矢の足のみだった。

「え……?」

 俺が顔を上げて桃矢を見上げるのと同時に、桃矢の身体が弓月に向かって傾いでいくのが見えた。
 
 
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