150 / 193
第五章
百十九話 思い出したくなかった
しおりを挟むひとつ、思い出したことがある。
それは夢の中に桃矢くんが現れたあの日の記憶だ。
まだ咲いている桜の木に寄りかかる俺の上に乗った兄は、俺の首に添えた両手に力を入れていく。そんな兄の隣にはいつも通りシュンが立っていて、微かに笑みを浮かべながら俺を見下ろしていた。初めはしていた抵抗をしなくなったのは、あの日からだったような気がする。
俺に跨る兄よりもずっと後ろ、大分離れていたところに桃矢くんはいた。多分中々戻ってこない俺を心配して呼びにきてくれたんだろう。ただタイミングが悪かった。――そう、初めは本当にただただタイミングが悪いだけだったんだ。
「とうや、くん……」
首を絞められているせいで軌道が塞がり、思った以上に声を出すことはできなかった。か細くて掠れた声がずっと遠くにいる彼に聞こえたとは到底思えない。けれど通り過ぎようとしていたはずの桃矢くんはその場でぴたりと足を止め、すっとこちらを向いた。
心臓が嫌な風に跳ね上がる。こんなところを友達に見られてしまったという羞恥と絶望。しかし顔を赤くすることも青くすることも出来ない俺は、やがて心の中に諦めを見出した。
……ああ、もう、いいや。
あの時の桃矢くんの顔を思い出してしまった俺は、きっともう今度は忘れられないと思う。それほど俺の中では衝撃だった。
「は……とうやぁ……?」
俺のか細い声が聞こえたらしい兄が眉間に皺を寄せる。そして俺の視線を辿り、兄の目や顔がずっと後ろにいる桃矢くんに向けられた。それは多分シュンもだったと思う。二人はゆっくりと振り返り、そしてくすりと笑みをこぼした。
俺はこの笑みを知っている。彼らがどんな時にその笑みを浮かべるのか、嫌と言うほど知っていた。
立っていたシュンが体の向きを変え、ふっと笑った。一歩踏み出した足はスキップでもするように軽やかな足取りで桃矢くんの方へと進んでいく。
嫌な予感がした。けれど兄が上に乗っている状態、しかも首を絞められている状況ではどうすることもできない。そして残念なことに、抗おうにも体力も気力もほとんど残っていなかった。そうこうしているうちにシュンが桃矢くんの元に着いてしまった。
――やめて、桃矢くんは関係ない、逃げて。
そう言いたくても軌道が塞がっている今はまともに声を出すことすらできない。口を開いてもはくはくと音が鳴るだけで呼吸をすることもままならなかった。
視界が滲み、頭がぼんやりとしてきた頃、ようやく兄の手が俺の首から離された。塞がっていた気道が一気に広がり、堰き止められていた空気が一気に肺の中に入って咽せる。げほごほと咳き込む俺に興味なんてないのだろう、兄は俺の上から立ち上がってシュンを呼んだ。
「……誰?そいつ」
「こいつは俺の従兄弟の桃矢。久しぶりすぎて最初誰だかわかんなかったわ。そんで、こっちが坂薙総一郎な」
「坂薙……?……っ……あの、あれって……」
「――ん?ああ、あれ?あれはこいつの弟。今ちょうど兄弟喧嘩の真っ最中だったんだよ。変なところ見せてごめんな?びっくりしたよな」
こんなことが兄弟喧嘩だなんて誰が信じるんだと思ったが、そういえば教師は信じていたことを思い出し、俺はせっかく開きかけていた口をそっと噤んだ。でもそう思いながらも、心のどこかでは桃矢くんは俺の友達だから信じるわけがないと思っていたのかもしれない。だからこそ次の言葉に俺はショックを受けたんだと思う。
「……そ、うなん、です、ね……」
かなり歯切れの悪い返事ではあったが、それでも彼は肯定した。従兄弟の言葉を信じ、そして笑みを浮かべたという事実に俺の中の何かが崩れていくのを感じる。
「そういえばお前……Dom、か?」
「え……あ、いや……」
「あー……まあ、隠したくなる気持ちはわかるよ。俺も最初は隠したいって思ってた。……でも、Domであることを認めるのも大事なことだよ」
「え……それ、どういう……?」
俺がいるところから彼らのところまではそれなりに距離があるはずなのに、不思議なくらい彼らの声はよく聞こえた。桃矢くんの戸惑うような声音に俺は顔を上げる。すると丁度顔を上げたらしい桃矢くんと目があった。
「……っ」
俺たちは同時に息を呑んだ。
最近互いに抱いていた違和感の正体に、この時突然気がついてしまったのである。
「ゆづき……もしかして、Sub……なの?」
「……あっ……や……」
喉が張り付いてうまく声が出せない。引き攣ったような声が喉からこぼれ、俺は顔を背けてきゅっと唇を噛み締めた。
「あー……やっぱ桃矢と弓月は知り合いなのか。そういえば同じ学年か……もしかして同じクラス?」
楽しげにくすくすと笑いながらシュンはそんな風に話す。しかし俺と桃矢くんはそれに答える余裕がない。それがシュンの何かに触れたのか、いつもよりも数段低い声が俺たちの耳を打った。
今までのこともあり、俺の体が反射的にびくりと跳ねる。桃矢くんも同じようにぴくっと肩を震わせて、揺れる瞳を恐る恐るといった感じでシュンの方へと動かしていた。
「――なら、桃矢が欲求を満たしてやってよ」
初め、何を言っているのかわからなかった。
桃矢くんが俺の欲求を満たす――そんなの俺たちにプレイをしろって言っているようなものだ。恐らくシュンもそう言いたかったに違いない。けれど俺たちは友人同士だ。もしプレイをすれば今までのような関係ではいられなくなってしまう。対等の関係ではなく、支配し支配される関係になってしまうんだ。
俺はゆるゆると首を振った。小刻みに身体を震わせながら頭を横に振った。同意を求めるように、救いを求めるように桃矢くんを見た瞬間、俺のお腹の中がどろりと溶けてしまうような不快感が溢れ出てしまったのである。
シュンが桃矢くんの耳元に唇を寄せ、何かを呟いた。すると僅かに眉間に皺を寄せた桃矢くんは、次の瞬間には口元を歪ませて口を開いたのだ。
――「Kneel」と。
139
お気に入りに追加
1,117
あなたにおすすめの小説
伸ばしたこの手を掴むのは〜愛されない俺は番の道具〜
にゃーつ
BL
大きなお屋敷の蔵の中。
そこが俺の全て。
聞こえてくる子供の声、楽しそうな家族の音。
そんな音を聞きながら、今日も一日中をこのベッドの上で過ごすんだろう。
11年前、進路の決まっていなかった俺はこの柊家本家の長男である柊結弦さんから縁談の話が来た。由緒正しい家からの縁談に驚いたが、俺が18年を過ごした児童養護施設ひまわり園への寄付の話もあったので高校卒業してすぐに柊さんの家へと足を踏み入れた。
だが実際は縁談なんて話は嘘で、不妊の奥さんの代わりに子どもを産むためにΩである俺が連れてこられたのだった。
逃げないように番契約をされ、3人の子供を産んだ俺は番欠乏で1人で起き上がることもできなくなっていた。そんなある日、見たこともない人が蔵を訪ねてきた。
彼は、柊さんの弟だという。俺をここから救い出したいとそう言ってくれたが俺は・・・・・・
継母の心得
トール
恋愛
【本編第一部完結済、2023/10〜第二部スタート ☆書籍化 11/22ノベル5巻、コミックス1巻刊行予定☆】
※継母というテーマですが、ドロドロではありません。ほっこり可愛いを中心に展開されるお話ですので、ドロドロが苦手の方にもお読みいただけます。
山崎 美咲(35)は、癌治療で子供の作れない身体となった。生涯独身だと諦めていたが、やはり子供は欲しかったとじわじわ後悔が募っていく。
治療の甲斐なくこの世を去った美咲が目を覚ますと、なんと生前読んでいたマンガの世界に転生していた。
不遇な幼少期を過ごした主人公が、ライバルである皇太子とヒロインを巡り争い、最後は見事ヒロインを射止めるというテンプレもののマンガ。その不遇な幼少期で主人公を虐待する悪辣な継母がまさかの私!?
前世の記憶を取り戻したのは、主人公の父親との結婚式前日だった!
突然3才児の母親になった主人公が、良い継母になれるよう子育てに奮闘していたら、いつの間にか父子に溺愛されて……。
オタクの知識を使って、子育て頑張ります!!
子育てに関する道具が揃っていない世界で、玩具や食器、子供用品を作り出していく、オタクが行う異世界育児ファンタジー開幕です!
番外編は10/7〜別ページに移動いたしました。
悪役令嬢の兄です、ヒロインはそちらです!こっちに来ないで下さい
たなぱ
BL
生前、社畜だったおれの部屋に入り浸り、男のおれに乙女ゲームの素晴らしさを延々と語り、仮眠をしたいおれに見せ続けてきた妹がいた
人間、毎日毎日見せられたら嫌でも内容もキャラクターも覚えるんだよ
そう、例えば…今、おれの目の前にいる赤い髪の美少女…この子がこのゲームの悪役令嬢となる存在…その幼少期の姿だ
そしておれは…文字としてチラッと出た悪役令嬢の行いの果に一家諸共断罪された兄
ナレーションに
『悪役令嬢の兄もまた死に絶えました』
その一言で説明を片付けられ、それしか登場しない存在…そんな悪役令嬢の兄に転生してしまったのだ
社畜に優しくない転生先でおれはどう生きていくのだろう
腹黒?攻略対象×悪役令嬢の兄
暫くはほのぼのします
最終的には固定カプになります
天寿を全うした俺は呪われた英雄のため悪役に転生します
バナナ男さん
BL
享年59歳、ハッピーエンドで人生の幕を閉じた大樹は、生前の善行から神様の幹部候補に選ばれたがそれを断りあの世に行く事を望んだ。
しかし自分の人生を変えてくれた「アルバード英雄記」がこれから起こる未来を綴った予言書であった事を知り、その本の主人公である呪われた英雄<レオンハルト>を助けたいと望むも、運命を変えることはできないときっぱり告げられてしまう。
しかしそれでも自分なりのハッピーエンドを目指すと誓い転生ーーーしかし平凡の代名詞である大樹が転生したのは平凡な平民ではなく・・?
少年マンガとBLの半々の作品が読みたくてコツコツ書いていたら物凄い量になってしまったため投稿してみることにしました。
(後に)美形の英雄 ✕ (中身おじいちゃん)平凡、攻ヤンデレ注意です。
文章を書くことに関して素人ですので、変な言い回しや文章はソッと目を滑らして頂けると幸いです。
また歴史的な知識や出てくる施設などの設定も作者の無知ゆえの全てファンタジーのものだと思って下さい。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる