上 下
147 / 203
第五章

百十六話 壱弦の家 前編

しおりを挟む

「じゃあ六時に迎えに来るけど、もし何かあればすぐに連絡してね。……いってらっしゃい、弓月」

 駅のロータリーで車を降りる。忘れ物がないかを確認し終えた後、開いた車の窓から心配そうな表情の律樹さんがそう言った。そんなに心配しなくても大丈夫だよと笑うが、彼はまだ少し不安そうだ。そんな律樹さんを安心させるように笑みを浮かべながらこくりと頷くと、ようやく彼の表情も少し柔らかくなり、同じようにこくりと頷いてくれた。
 でも本当は緊張でどうにかなりそうだった。心臓はバクバクとしているし、足が微かに震えている。俺は少しでも自分を落ち着かせるように、律樹さんが持たせてくれた白い紙の箱の取手部分と斜め掛け鞄の肩紐をぎゅっと握りしめた。するとほんの少しだけ震えがおさまってきたような気がする。
 
 律樹さんが窓を閉め、止まっていた車が進み出した。俺は小さく深呼吸をしてから肩紐から手を離し、ひらひらと小さく手を振る。そうして小さくなっていく車の後ろ姿を見えなくなるまでじっと見つめていた。

 

 一週間前、律樹さんは俺に『トウヤくん』に会いたいかと聞いてきた。それに対して俺が返したのは肯定。けれどまさかこんなに早く会うことになるなんて夢にも思わなくて、突然訪れた今の俺にとっては初めての友人宅への訪問にカチカチに緊張していた。
 本当は律樹さんの家で彼と壱弦を含めた四人で会う予定だったんだけど、なんでも学校の方でやることができてしまったようで、今日は休日なのに出勤をしなければならなくなってしまったらしい。教師という職業は大変だなぁ、なんて思いながら俺は緊張をやり過ごすようにふうと息を吐き出した。

 今から向かうのは壱弦の家である。実は『トウヤくん』――打木桃矢くんは壱弦の幼馴染で家も近所らしく、今日は壱弦の家で会うことになったのだ。

「あっ、弓月!こっちこっち!」
「!」

 俺を呼ぶ声が聞こえて振り向くと、そこには笑顔で大きく手を振る壱弦の姿があった。それに小さく手を振り返しながらこちらに向かって歩いてくる壱弦の元へと足早に向かっていく。するとそんな俺の様子に気付いたらしい壱弦も同じように駆け足でこっちにきてくれた。何日かぶりに見る壱弦は当たり前だがほとんど変わっていないというのに、たった数週間の期間が開いただけでなんとなく懐かしさを感じる。

 二人で横並びになりながら壱弦の家までの道のりをゆっくりと歩いていく。道中、俺は壱弦が話すことに対して頷いたりいう反応を返すだけではあったが、楽しそうに話をする彼の姿に俺も楽しくなって自然と笑顔になっていた。

「そういえば声も少し出るようになったんだっけ?瀬名先生が保科先生に嬉しそうに話してたよ」
「……!」
「瀬名先生、弓月のことになるとすごく感情が豊かになるよな」

 え?律樹さんはいつも表情も感情も豊かだと思うけど?と首を傾げると、壱弦は一瞬動きを止めた後に「やっぱり弓月の前では違うんだな……」とぽつりと呟いた。声を出さずとも通じていることにもびっくりだが、それ以上に普段は知りえない律樹さんの情報にも驚いてしまう。
 けれどそれは多分壱弦の勘違いだと思った。別に俺の前でだけじゃなくて家だから穏やかなのかもしれないし、感情表現が豊かになるんじゃないのかななんて思いながら首を横に振る。否定をしているつもりはなかったのだが、俺の表情を見た壱弦が困ったように笑った。

「……弓月は変わらないな」
「?」
「悪い意味じゃなくて、良い意味だよ。……変わらないでいてくれてありがとうって」
「??」

 帰ってきた答えにますます意味がわからないと首を傾げれば、わからなくて良いよと頭をくしゃくしゃに撫でられた。なんだかはぐらかされたような気もするが、壱弦もそれ以上は話すつもりはないらしい。

「――ここだよ」

 沈黙の中、数分間歩き続けた俺の視界に入ってきたのは、駐車スペースの隣にレンガ敷きのおしゃれなアプローチがあり、反対側には小さな庭がある白い壁が綺麗な二階建ての家だった。今の季節は庭に何も植えていないのか置かれたプランターが少し寂しげだが、春になればきっと綺麗な花に囲まれるんだろうなと想像出来る素敵な庭だ。きっと手間暇かけてしっかりと手入れされているのだろう、荒れた様子は微塵もない。

 促されるがままにアプローチを通って玄関扉から中に入り、靴を脱いだ。知らない家の香りが鼻腔をくすぐり、なんだか不思議な気分になる。洗面台で手洗いをした後、俺たちは壱弦の案内で彼の部屋へと入っていった。

「ここが俺の部屋。どこでも好きなところに座って。……あと今日は俺以外の家族はみんな出掛けてるから、そんなに緊張しなくていいよ」
「……!」
「流石にわかるって。……だって弓月、ずっとそわそわしてるし」

 どうやら緊張していたことがバレていたらしい。驚く俺の頭をぽんぽんと撫でながら、壱弦はくすくすと笑っていた。

「中学生の頃はたまに遊びに来てたんだけど……思い出せそう?」
「……」

 そう言われ、少しの間考えてみる。しかしうまく思い出すことができず、ゆっくりと頭を横に振った。すると壱弦は寂しげに微笑みながらもどこかすっきりしたように、そっかと呟いた。

 飲み物を用意してくるという壱弦に、俺は自分の持ち物を思い出して慌てて手に持っていた紙の箱を差し出した。取手のついた白くて四角い箱が壱弦の手に渡る。初めは驚いた様子で目をぱちくりと瞬かせていた彼だったが、何かに納得した様子でふっと笑みを浮かべた。

「……瀬名先生って、本当こういうところきっちりしてるよな……」

 ぽつりと呟かれた声に俺は軽く笑みをこぼした。確かに律樹さんは几帳面だし、色んなことに対して丁寧だと思う。今日も朝から出掛けて、帰ってきたと思ったらこの箱を持っていた。壱弦の家に行くんだからと持たせてくれたそれには、きっと俺や壱弦の好きなケーキも入っているのだろう。

「……あ、俺の好きなチーズケーキと弓月の好きなフルーツタルトもあるじゃん。あといくつか入ってるし、先に一緒に食べるか」
「ぇ……」
「あいつ来るのまだだし、ちょっとくらい食べたってバレない…………え?」
「……?」

 箱を開けて中身を確認しながら悪戯っ子のような笑みを浮かべていた壱弦は、一瞬の沈黙の後に箱から顔を上げて俺を見た。呆然といった様子で見つめられる。
 突然変わった壱弦の様子に俺は戸惑いながら、そっと首を傾げた。

 
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

転生したけど赤ちゃんの頃から運命に囲われてて鬱陶しい

翡翠飾
BL
普通に高校生として学校に通っていたはずだが、気が付いたら雨の中道端で動けなくなっていた。寒くて死にかけていたら、通りかかった馬車から降りてきた12歳くらいの美少年に拾われ、何やら大きい屋敷に連れていかれる。 それから温かいご飯食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、柔らかいベッドで寝かせてもらったり、撫でてもらったり、ボールとかもらったり、それを投げてもらったり───ん? 「え、俺何か、犬になってない?」 豹獣人の番大好き大公子(12)×ポメラニアン獣人転生者(1)の話。 ※どんどん年齢は上がっていきます。 ※設定が多く感じたのでオメガバースを無くしました。

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈

めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。 しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈ 記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。 しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。 異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆! 推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!

目が覚めたら囲まれてました

るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。 燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。 そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。 チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。 不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で! 独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。

処理中です...