上 下
143 / 181
第五章

百十三話 思い出せない(律樹視点)

しおりを挟む
※このお話は本編ですが律樹視点のお話です。



 寝る前は恥ずかしいとベッドの際で丸まっていた弓月だが、完全に眠ってしまった今は俺の腕の中にいた。穏やかな寝息を立てながら俺の服を控えめに掴む弓月の姿に思わず笑みがこぼれる。起こしてしまわないように目にかかった前髪を指先で掻き分ければ、彼の白くてまろい額が姿を現した。そこに軽く唇を押し当てると、胸がほわりと熱を帯びたような気がした。

「はぁ……」

 病院での検査が終わってから先程までの出来事を思い出すと自然とため息が出た。あまりにも怒涛過ぎた所為で正直な話、心と頭の整理が追いついていない。混乱や戸惑いなどいろんな感情や想いがあるけれど、一番はやはり後悔だろうか。

 弓月をあの家の惨状から連れ出す際、当然だが俺は現場を見た。退院してからではあるが、元の肌色が見えないくらいに全身に広がった無数の赤黒い痣も見ている。しかし先程弓月が話してくれた内容はこちらの想像を軽く超えてくるような悲惨さだった。
 今思えば、確かに初めの頃は首の辺りにまで痣は存在していた。けれど身体中の痣の衝撃で首周りの痣にまで注意がいかなかったのかもしれない。まさか日常的に首を絞められていたなんて思いもよらなかった。

 聞く前もそれなりにあった後悔が、聞いた後はさらに強くなった。もっと早く連れ出せていれば彼の心や体の傷の具合も今よりもましだったかもしれない。俺がもっと真剣に探していれば、俺にもっと調べる力や金があれば、俺が今のような大人だったなら――そう後悔が次から次へと湧いてくる。
 だが今更そんなことを思ったところで過去を変えられるわけではない。しかしあの頃に戻れたら今だったらこうしていたのになんて考えてしまう自分がいた。

(戻れたところできっと俺は同じことを繰り返すんだろうけどな……)

 それでも考えずにはいられなかった。
 誰にも傷つけられず、弓月がずっと幸せで笑っていられた未来を想わずにはいられなかったんだ。

 俺は枕の下に置いていたスマホを手に取った。そして先程までのやり取りをしていたメッセージアプリを開き、先程彼が送ってくれた言葉を初めから読み返していく。あまりにも長いからと分割して送ってくれたそれは確かに長かったが、弓月なりに考えてわかりやすいように短くしてくれたんだろうなと所々から伝わってくる。決していい思い出ではないだろうに、それでも俺に伝えるために一生懸命思い出しながら綴られた文字を見ていると、目頭が熱くなった。

「……っ」

 ……ああ、駄目だ。目の前が滲んでよく見えない。さっきは弓月を困らせまいと必死で涙を堪えていたというのに、一人で読み直し始めた途端にこれだ。

「はぁ……、っ」

 口から吐き出した息は震えていた。喉は引き攣り、鼻の奥がつんと痛む。息を吸い込むと、すんっと鼻が鳴った。時折目に浮かぶ涙によって画面が見づらくなりながらもなんとか読み進めていく。そうして半分くらいまで読んだ時、俺は「あれ?」と首を傾げた。

 弓月の話には、弓月の兄である坂薙総一郎以外にも登場人物が出てきた。その中の一人は、俺も良く知っている弓月の友人である刈谷壱弦という生徒だ。しかし他の人物は知らない。まあ当然といえば当然なのだが、それが少し嫌だなと思った。

「トウヤ……どっかで聞いたような……」

 トウヤ――この名前は弓月の話の中に出てきた人物の一人の名前だ。俺はこの名前をどこかで最近聞いたような気がする。文面から察するに弓月の友人の一人だと思うのだが、それらしい人物に心当たりがないように思う。もし仮に同じ学校の生徒だったとしてもトウヤという名前は別に珍しい名前ではないし、そもそも弓月と同じ同じ学年でなかった場合はもう卒業していることになるので調べようがない。

「トウヤくん……トウヤ……?」
 
 小さく口に出しながら必死で頭を働かせるが、残念ながらいつどこで聞いたのかは全く思い出せなかった。

(一応慶士に聞いてみるか……)

 もし仕事中に聞いたのだとすれば、同僚である慶士に聞けばわかるかもしれない。そう思って聞いてみることにしたが、もうすぐ入力し終えるという時にそういえばもう夜も遅かったことを思い出した。まああいつなら多分夜中に送ったところで何も思わないだろうが、こちらの心情があんまりよろしくない。入力し終えたメッセージはそのままにして、俺は弓月が送ってくれた文面に再び目を通し始めた。

 刈谷やトウヤの他に出てきたのは弓月の家族、ユキちゃんという人物を含めた友人数人、そしてシュンという総一郎の親友だった。この中で知っているのは弓月の家族だけだ。思い当たる節もない。しかしそうにも関わらず、俺はこの『シュン』という文字を見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。『シュン』という名前もあだ名も決して珍しいものではないはずなのに、どうしてこんなにも胸騒ぎがするのだろうか。

 目を閉じ、あの家から弓月を連れ出す時のことを思い出す。当時あの家にいたのは弓月の家族を除いて数人。だがあの時は頭に血が上っていたせいで残念ながら名前は愚か、顔すらもどんなだったか思い出せない。
 あの場に『シュン』という名前の人物がいたのかを思い出そうとしても、他の数人同様思い出すことはなかった。それが今はとても悔しくて、歯がゆい。もしその『シュン』という奴が近くにいた場合、俺がそいつの顔や名前を知っていれば弓月を安全なところへ逃すことも可能だったのに。

 俺は腕の中で穏やかに眠る弓月の髪を優しく撫でながら、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

目が覚めたら囲まれてました

るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。 燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。 そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。 チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。 不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で! 独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。

3人の弟に逆らえない

ポメ
BL
優秀な3つ子に調教される兄の話です。 主人公:高校2年生の瑠璃 長男の嵐は活発な性格で運動神経抜群のワイルド男子。 次男の健二は大人しい性格で勉学が得意の清楚系王子。 三男の翔斗は無口だが機械に強く、研究オタクっぽい。黒髪で少し地味だがメガネを取ると意外とかっこいい? 3人とも高身長でルックスが良いと学校ではモテまくっている。 しかし、同時に超がつくブラコンとも言われているとか? そんな3つ子に溺愛される瑠璃の話。 調教・お仕置き・近親相姦が苦手な方はご注意くださいm(_ _)m

元会計には首輪がついている

笹坂寧
BL
 【帝華学園】の生徒会会計を務め、無事卒業した俺。  こんな恐ろしい学園とっとと離れてやる、とばかりに一般入試を受けて遠く遠くの公立高校に入学し、無事、魔の学園から逃げ果すことが出来た。  卒業式から入学式前日まで、誘拐やらなんやらされて無理くり連れ戻されでもしないか戦々恐々としながら前後左右全ての気配を探って生き抜いた毎日が今では懐かしい。  俺は無事高校に入学を果たし、無事毎日登学して講義を受け、無事部活に入って友人を作り、無事彼女まで手に入れることが出来たのだ。    なのに。 「逃げられると思ったか?颯夏」 「ーーな、んで」  目の前に立つ恐ろしい男を前にして、こうも身体が動かないなんて。

堕ちた父は最愛の息子を欲に任せ犯し抜く

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

兄弟愛

まい
BL
4人兄弟の末っ子 冬馬が3人の兄に溺愛されています。※BL、無理矢理、監禁、近親相姦あります。 苦手な方はお気をつけください。

貧乏Ωの憧れの人

ゆあ
BL
妊娠・出産に特化したΩの男性である大学1年の幸太には耐えられないほどの発情期が周期的に訪れる。そんな彼を救ってくれたのは生物的にも社会的にも恵まれたαである拓也だった。定期的に体の関係をもつようになった2人だが、なんと幸太は妊娠してしまう。中絶するには番の同意書と10万円が必要だが、貧乏学生であり、拓也の番になる気がない彼にはどちらの選択もハードルが高すぎて……。すれ違い拗らせオメガバースBL。 エブリスタにて紹介して頂いた時に書いて貰ったもの

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

束縛系の騎士団長は、部下の僕を束縛する

天災
BL
 イケメン騎士団長の束縛…

処理中です...