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第五章

百十話 やっぱり好き

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 俺は唇を彼の唇に押し付ける。それはただ触れるだけの軽い口づけ。ゆっくりと重ねたそれを再びゆっくりと離そうとした時、不意に律樹さんが体勢を変えた。彼の手が後頭部に回り、ぐっと引き寄せられることで口付けが深くなる。俺を離さないのでもいうように後頭部を鷲掴む彼の手が乱暴に髪を掻き乱し、さらに押し付けられた唇が呼吸を奪うほどに深く合わさっていく。

「っ……ん」

 小さな息遣いがこぼれた。酸素を取り込もうと喘ぐと同時に、口の中に溜まっていた唾液が口端からつたい落ちていく。息継ぎがうまくいかなくて息が苦しい。けれどどこか満たされたような気持ちが胸の中にあふれていた。
 
 彼の膝に置いた手とは反対側の手を自分の首元に持っていき、もらった首輪をつるりと撫でた。普段は首輪に隠れて見えないが、俺の首元にはいくつもの治りかけの引っ掻き傷がある。首と首輪の間にある僅かな隙間に指を差し入れると、ざらざらとした細かな瘡蓋の感触が指先に触れた。それを頭が認識した瞬間、俺は無意識にその傷痕を指の腹でぐっと押し込んでいた。

「……っ」

 俺のその行動に気がついたのか、彼の手が首元にあった俺の手を掴んで引き剥がした。強く掴まれた手首が少し痛い。
 深く重なっていた唇が離れ、掴まれた手首を強く引かれる。咄嗟のことに踏ん張りが効かなかった身体は、なんの抵抗もなく座り込んだ律樹さんの胸の中にぽすんと身体がおさまった。なんだか既視感を感じる。そのあたりでようやく堂々巡りになっていた俺の思考はほんの少し鈍くなってきた気がした。

「……自分を大事にして……頼むから」

 息遣いが耳に触れ、濡れた服が肌に張り付く。絞り出された声はひどく掠れ、俺の胸を打った。全身が濡れているからか、彼の鼓動や熱がダイレクトに伝わってくる。こんな状況なのに心臓がうるさく鳴り始めた。

「俺がプロポーズをしたのは、弓月を幸せにしたい、弓月と幸せになりたいと思ったからだよ。でもそれは……弓月がいないと出来ないことなんだよ……俺一人がじゃない、弓月となんだ」

 その言葉に俺は目を閉じた。
 俺だって律樹さんを幸せにしたいし、一緒に幸せになりたい。でも記憶が戻ってから、急にどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

「……俺を、頼ってよ」

 雫が頬にぽとりと落ちてきて、思わず顔を上げて目を開けた。まず最初に目を奪われたのは彼の目尻から静かにはらはらと流れていく涙。珍しい彼の泣き顔が視界いっぱいに広がり、俺の胸はぎゅっと締め付けられた。

 なんで同じことばっかり考えるのか。答えが出ないままにそれでも考えて続けていたのは律樹さんと俺の気持ち、それから記憶に基づいた俺自身のことが複雑に交差していたからだ。記憶から考えれば、俺は大事にしてもらえるような価値のある人間だと思えない。そんな価値のない人間に律樹さんの時間も労力も割きたくないと思った。なのに大好きだから離れたくないという矛盾が生まれてしまった。
 多分それらが俺に同じことを考えさせる理由だったのだと思う。
 
 だが不思議なことに、俺が今まで考えていたことが今の一瞬でどうでもよくなってしまった。律樹さんの目尻からこぼれ落ちる涙に、そして表情に、今まで考えていたことが霧散した。

「……ぃ……」

 りつきさん――そう口にする。律樹さんの掠れ声よりももっと酷くてほとんど聞こえないような小さな小さな声だったけれど、彼の耳には届いたようだ。苦しげに眉間に寄った皺がほんの僅かに薄くなり、代わりに眉尻が下がる。ごめんなさいと口にすれば、彼の唇に少しだけ力が入った。

「俺は、謝って欲しいわけじゃない」
「……」
「ただ……ただ、俺の大事な弓月を傷つけないで欲しいだけだよ」

 律樹さんの手が俺の手首から離れ、腰に回る。その手に力が入ったかと思えばぐっと引き寄せられ、俺の身体はさっきよりもずっと強く抱き締められた。

 押し当てた耳から聞こえてくるのはとくとくという規則正しい心臓の音。生きている証の音だ。残念なことに水に濡れているせいで俺の大好きな香りはほとんどしないが、それでもほんの微かに香るそれが俺を満たしていく。

「ねえ、弓月」
「?」
「俺のこと……好き?」

 間髪入れずにこくりと頷くと、律樹さんはそっかと言った。胸元に顔を押し付けているから彼が今どんな表情をしているのかはわからない。けれど声が少し震えていたからまた泣いているのかもしれないと思った。

「……愛してる?」
『あいしてる』

 俺は顔を上げ、ゆっくりとそう紡いだ。
 ――そう、俺はずっと律樹さんのことが好きで愛している。多分助けてもらったあの日からずっと、彼のことを想っている。だからこそ嫌われたくなかったり、幻滅されたくなかった。

「俺も……好きだよ。愛してる」

 その言葉が胸に炎を灯し、じんわりと熱が広がっていく。片手で彼の服を掴み、もう片方の手を首についた首輪に添えた。相変わらずそれは冷たくて硬かったが、その感触が俺を安心させる。

 お風呂から出たら夢で見たことを全部律樹さんに話そうと思う。高校に入学してからのことを全部話して、それから俺の気持ちも全部伝えよう。
 俺のために泣いてくれる律樹さんならきっと幻滅も嫌悪もしないと思う。だから俺は包み隠さずに律樹さんに言うんだ。

 そう決意する俺の口元はほんの僅かに緩んでいた。


 
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