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第五章

百九話 ごめんなさい

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 彼の表情に、俺ははっとした。
 絶えず流れる水音に掻き消されたと思っていた俺の声は、どうやら律樹さんの耳には届いていたらしい。本当に微かな掠れ声だったにも関わらず、あの声というよりも音を彼の耳は確かに拾っていたようだった。目尻からあたたかな雫が伝い落ちていく。
 
 律樹さんの手が壁際に伸び、きゅっと音がした。それと同時にそれまで俺たちに降り注いでいたお湯が止まり、ぽとんとシャワーベッドから水滴が落ちる。

「……っ」

 俺は咄嗟に顔ごと視線を逸らした。振り向いた身体ごと元に戻し、そのまま視線を下げていく。
 律樹さんは兄達とは違う。……違うとわかってるのに、どうしてか体と頭が言う事を聞いてくれない。もはや意思とは関係なく身体は小さくかたかたと震え出すし、頭は嫌なことばかり考え始める。
 これも一種のトラウマなのだろうか、不意に声を出して怒られた場面が脳裏に過ぎった。その光景を思い出し、剥き出しの膝の上に置いた手を握りしめる。そして耐えるように目を閉じて唇を噛み締めた。

「いつから……」
「……」

 まだ音のようなものが少し出せるようになっただけで話せるわけではない。かといって、お風呂場にスマホを持ち込んでいるわけでもないので言葉を返せない。
 
 ぽとりと太腿の上にあたたかな雫が落ちる。握っていた拳から力を抜き、軽く開閉をした。その様子をぼんやりと眺める。そうしているとなんだか落ち着いてきたのか、あんなに揺れていた心がぴたりと動きを止めた。しかしそれにほっとしたのも束の間、今まで素肌にぴったりと張り付いていた彼のシャツが名残惜しそうに離れていく感覚に俺の心臓は再びきゅっとなった。

「ごめん、折角温まったのに冷めちゃうね。……俺、ご飯の用意してくるから、身体洗ったら出ておいで」

 聞こえてきたキィ…という音に勢いよく振り向くと、ちょうど律樹さんがお風呂場から出て行こうとしているところだった。シャワーを頭から被った律樹さんは案の定濡れ鼠になっており、栗色の髪からは水が滴り落ちていく。濡れた服がぴったりと肌に張り付き、俺なんかよりもよっぽど逞しい身体を強調していた。
 今までも一緒にお風呂に入ったり、擦り合いをしたりした時にも裸を見たことはあったが、当たり前かもしれないがそのほとんどが正面ばかりだった。しかし今俺の視界に入っているのは濡れ鼠の背中。ぴったりと服が張り付いているからこそ見える陰影に、意外と肩甲骨が出ているんだなぁ……なんて現実逃避にも似た感想が浮かぶ。

「……弓月、離して」
「……?」
「手、離してくれないと出れない」
「っ……!」

 困ったような表情で俺を見下ろす律樹さんの言葉に、俺は漸く自分が彼のスウェットの裾を掴んでいたことに気がついた。無意識、だった。なんで掴んだのかもいつ掴んだのかも覚えていないが、なんとなく出ていって欲しくないと思ったことだけは覚えていた。

「弓月、本当に風邪ひくから……」
「……ぁ」

 きっと俺の手も彼の服も乾いていたならばするりとなんの抵抗もなく外れただろうが、どちらも濡れている今はそうもいかないらしい。まるで指や手のひらに濡れた服が吸い付いているみたいだと思った。

 開いた扉からひんやりとした空気が流れ込み、濡れた肌を撫でる。思わずぶるりと身体を震わせると、律樹さんがそっとため息を吐いて扉を閉めた。そしてぱたんとしまった扉を背に、律樹さんは顔を手で覆いながらズルズルとその場にしゃがみ込んだ。あれだけ吸い付いて離れなかった手が呆気なく離れていくようすに、少しだけ名残惜しさを感じた。

「……もう……なんなの……」

 近づいたと思ったら離れて、離れたと思ったらまた近づいて……俺は、どうしたらいいの。

 そんな小さな呟きが虚しくこの狭い空間に反響する。
 ごめんなさい、そう伝えるように座っていた椅子から降りて床にぺたりと座り込み、膝と頭を抱える彼の腕に手のひらを置いた。

「……今日、急にキスしたのが嫌だった?」

 覇気のない声だった。俺は違うと頭を横に振る。振動は腕から伝わっているはずなのに、律樹さんは俺を見ないままだ。

「じゃあ……俺のこと、嫌になった?」
『ちがう!』

 声が出ないのも忘れて俺はそう口を動かしていた。けれど律樹さんは俺のことなど見ていない、伝わるわけがない。

「……俺は……弓月が好き。ずっとずっと大好きで……だからプロポーズもしたんだ……でも、最近の弓月は……俺を、避けてるように……見える」
「……っ!」

 今度は違うとは言えなかった。
 だって距離を置こうとしていたのは本当だったから。けれどそれは俺が律樹さんのことを嫌いになったとかそういうわけじゃなくて、記憶を少し思い出してしまったからだ。記憶の中の俺が、俺の行動を抑制する。本来の醜い自分を曝け出したくなくて、見られたくなくて、嫌われたくなくて距離を置きたいと思った。
 ……でもよく考えたら、律樹さんからすれば体調が良くなってすぐに意味もわからないまま距離を置かれ始めたってことだもんな。そりゃあそんな事を思ってしまうのも無理はないと……思う。

 俺はいつもおんなじ事を考えてる。
 以前の俺も、記憶が少し戻った俺もどっちも律樹さんのことが好きで、だからこそ嫌われたくなくて必死に考えていた。こんなことを一人で考えたって、しっかりとした答えが出るわけじゃなくて堂々巡りになるだけだってわかってる。でも自分に自信がないことや自分のことを受け入れられないことを理由に同じことばかり考えてしまう。思考が止まらない。最悪なことばかり考えるこの頭は止まらない。
 それで結果律樹さんに誤解させて、彼を傷つけて……俺は本当に何がしたかったんだろ。考えたいだけなら自分一人で悩めばいいのに、律樹さんを傷つける必要なんてあっただろうか。

 俺は律樹さんの腕から手を離して、床に手をついた。濡れたタイルの床から冷たさが伝わって身体がまた震えたけれど、そんなことはどうでもいい。俺はゆっくりと頭を下げて、彼の膝頭にこつんと額を当てた。

 ごめんなさい。
 そう口にしたくても今はまだ出来ない。だから声もスマホもない今、俺が彼にそう伝えるのはもうこれしかなかった。

「弓月……?」

 濡れた布が擦れる音がする。ぱしゃっと水が跳ねる音がすぐ側で聞こえ、額を当てた彼の膝が揺れた。

「……ねえ、顔上げて」
「……」

 その声に俺はゆっくりと顔を上げた。眼前に広がるのは彼の怒ったようにも悲しそうにも見える顔。俺はぐっと身体を伸ばし、顔を寄せた。
 

 
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