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第五章

百三話 胡蝶の夢 後編

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 何度も何度も覚めない夢を見ていた。
 何が原因でこうなったのか、理由はわからない。抑制剤が使えなくなって少しした頃から過去の夢を見始めたような気がするから、つまりはそういうことなのかもしれない。
 
 どれだけ痛みを感じても、どれだけ苦しくても、どれだけ願っても夢から覚めることはなかった。俺が見ているものが夢であって夢ではないのだと気付いたのは、夢を見始めてから何回目のことだったろうか。

 ――痛みがあれば夢ではなく現実だ。
 その言葉が事実なのか、それとも根拠のないただの迷信なのかはわからない。ただ今の俺がわかっているのは、痛みを感じる夢もあるということだ。
 特に俺が見ている夢は過去の出来事だ。その場合はもしかすると、俺の体や心の奥底に眠っていた記憶から痛みも情報として蘇っているのかもしれない。そんなに再現性を高めてどうするんだと文句を言いたかったが、生憎垂れる相手がいなかった。

 何度も夢を見ているうちに心は疲弊していき、同時に諦めが生まれた。どうせ自力で夢から覚めることも叶わない。それどころか今起きているのか、眠っているのかすらもわからないのだ。こんな状態で諦めない奴なんているんだろうか。

「――弓月」

 遠くの方で律樹さんの声がする。ぎし、とベッドが軋むような音がしたかと思えば、頭や顔に優しい温もりが触れた。大切なものに触れるかの如く、その温もりはそっと俺を撫でていく。

 重い瞼を押し上げると、薄らと視界に動くものが入った。ぼんやりと靄がかかったかのような視界では、それをはっきり見ることはできない。けれどその手の優しさや温もり、そして鼻腔を擽る俺の大好きな香りが律樹さんだと告げている。
 俺は目を動かして、律樹さんがいるであろう方向に目を向けた。僅かな光に照らされて人影がぼうっと浮き上がる。俺は視界に入ってきた光に僅かに目を細めながら、へにゃりと頬を緩めた。
 
「ただいま、弓月」
『おかえり』
「……うん、ただいま」

 やっぱり律樹さんだった。
 彼の声はとても落ち着く。低すぎず高すぎず、とても優しくて穏やかな声だ。俺はこの声が大好きだった。

「ご飯、食べようか。……起きられる?」

 こくりと頷くと、背中とベッドの間にするりと腕が入ってきた。身体を支えられながらゆっくりと上半身を起こす。たったそれだけの動作だったにも関わらず息が上がった。
 くたりと律樹さんの胸に寄り掛かる。服越しに伝わるトクトクという心臓の音が心地いい。全身が温もりに包まれると同時に、わずかな浮遊感が全身を襲った。

 これは幸せな夢だ。多分律樹さんと会って間もない頃の夢なんだろう。この家に来てすぐの頃はよくこうして抱き上げて移動してもらったなぁ、なんて懐かしい気持ちが込み上げてきて、俺は彼の胸元に頭を擦り付けた。
 うん、やっぱり律樹さんの匂いは落ち着く。きっと俺が律樹さんに会いたいってずっと思っていたから、俺の願望がこんな幸せな夢を見せてくれたんだろう。

「今温めてくるから、ここで待っててね」

 その言葉と共に温もりが離れていく。もう少し一緒にいたくて思わず待ってと伸ばした手は、残念ながら彼に届かずに空を切った。行き場をなくした重たい腕をぱたんと下ろし、俺はソファーの背もたれに背中を沈めた。

 肺に溜まっていた空気をゆっくりと吐き出す。するとさらに身体の重さが増した気がした。ずっと見てきた夢も現実と区別がつかないくらいにリアルだったが、その中でも特にこの夢は現実と錯覚してしまいそうなくらい現実味を帯びていて、なんだか不思議な感じだ。肌に擦れる服の感触も冷たい空気も、全部が実際のもののように思える。
 鼻から息を吸い込むと、奥がつんと痛んだ。錘でもつけているのかというくらい重い腕をぐっと持ち上げて、痛んだ鼻に手を当てる。指先に触れた鼻頭はひんやりとしていた。

「……?」

 ……あれ、なんで冷たいんだろう。
 ほとんど働いていない霞がかった頭に浮かんだのはそんな疑問だった。

 俺は今、律樹さんと出会ってすぐの頃の夢を見ているはずだ。けれど律樹さんと出会ったのは確か夏だ。だから今のように空気が冷たいということも、鼻頭が冷たくなることもなかった。もし強めの冷房をかけていたとしても、ここまで空気が冷たくなるだろうか。……いやその前に、あの律樹さんが寒くなるくらいまで冷房を下げるだろうか。
 俺は鼻先に触れていた指先を動かした。鼻から口へ、そして顎を通って首元にゆっくりと移動させていく。控えめな喉仏を通り過ぎた時、指先から感じた感触は俺のよく知るものだった。

「……ぁ」

 冷たくて固いそれに触れた瞬間、目の奥がつきりと痛んだ。そしてじんわりと滲んでいく視界にゆっくりと瞼を閉じると、目の端から温かなものが溢れていく。

 ――ああ、これは……

 俺は形を確かめるように手を横に動かした。この感触とこの形を俺はよく知っている。それは毎日、それこそ数え切れないくらいに触れていた大事な宝物だった。

(もしかして……夢じゃ、ない……?)

 もしも今見ているものが過去の夢ならばこんなに空気が冷たいはずはないし、なによりこの首輪カラー俺の首ここにあるのはおかしい。夢だからなんでもありなんじゃと言われれば確かにそうかもしれないが、今までずっと見てきた夢は正確に過去を反映していた。流石に今この時だけ違うというのは考え難い。
 あとは、そう……これが現実であってくれという俺の願望だ。そしてどれが現実で、どれが夢なのか――曖昧だった境界に対して明確であってくれという願いだ。

「弓月、ご飯――っ、弓月⁉︎」
「……っ」

 ガシャンッと大きな音がした次の瞬間には、俺は大好きな香りと温もりに包まれていた。後頭部に回った手が俺を落ち着かせるように、頭の形に沿って上下に動かされる。目からとめどなく流れ出る涙は下へと落ちていく前に、律樹さんの胸元へと全て染み込んでいった。

「どこか痛い?」
「……」

 優しくて穏やかな声音が俺の耳にすっと入ってくる。俺はふるふると緩く頭を振りながら、律樹さんの服をぎゅっと掴んだ。
 これはきっと現実なんだと思った瞬間、頭の霞が一気に晴れた。そして鉛のように重かった身体も徐々に軽くなっていく。

 ひっく、ひっくと声もなくしゃくりあげる俺の姿に律樹さんが何を思っていたのかはわからない。けれど俺を強く抱き締めてくれる律樹さんの腕はただただあたたかくて優しかった。
 
 
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