声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

九十六話 夢と現実(律樹視点)

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※このお話は本編ですが、律樹視点のお話です。



 夜の静けさにもかき消されそうなほど小さくか細い声が弓月の口から溢れ出る。初めは聞き間違いかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
 驚いて動けない――というよりも弓月の口からこぼれ落ちた声に目も耳も奪われて離すことができないのだ。そんな状態の俺と慶士が息を呑んで見つめる中、酸素を求めるようにはくはくと開閉していた弓月の口が動きを緩め、やがて言葉を紡ぐような動きをした。しかしそれが何を言っているのかまではわからない。もう少し大きければわかっただろうが、今のようなほんの僅かな動きではわかりようもなかった。

 弓月の手の動きがゆっくりになっていく。苦しそうに歪んでいた顔がある瞬間にふっと緩み、さっきのことが嘘のようにふわりと穏やかな表情になった。それはまるで安堵に微笑んでいるようなそんな表情にも見えるのに、なぜか俺の背筋には冷たいものが走る。それはカーテンの隙間からこぼれる青白い月明かりに照らされた彼の顔色がいつもよりも白く、生気を失っていくように見えたからかもしれない。

「――ぃ……ぁ」

 不意に弓月の細い指先が首輪カラーをするりと撫でた。その際にも何かを呟いたようだったが、口の動きも声の大きさも小さすぎてやっぱり何を言っているのかはわからなかった。

 俺はすっと隣に視線を移した。混乱や戸惑いを含んだ瞳とぱちりと目が合う。……それはそうだろう。魘されながらいつもよりも激しくもがいて抗うように、首元を引っ掻きながら息も絶え絶えに喘いでいた弓月の体が急に弛緩し、その上酷く苦しげだった表情が一変したのだから。きっと俺も今同じような目をしているに違いない。

 俺と慶士の視線が弓月の方へと移る。示し合わせたわけではなかったが、自然と吸い寄せられるように俺たちは視線を移していた。そうして見下ろした先、弓月の顔からは微笑みが消え、ただ穏やかな表情が浮かんでいた。
 急に体が弛緩したことや青白い顔色が余計そう見せているのかもしれないが、どこか不安になる光景のように思えた。心臓に冷たいものが流れ込むような、そんな恐怖と一緒に浮かび上がる不安。一筋の汗が背筋を静かに流れていった。

「――律樹」

 慶士が驚いたような声色で俺を呼ぶ。不安に呑まれそうになっていた俺はその声にはっとして弓月の顔を見た。
 長い睫毛が微かに震え、ぴくりと白い瞼が動く。弓月、そう呼びたいのに息が詰まってうまく言葉が出ない。薄らと開いた瞼から覗く瞳が月明かりに照らされて星空のようにキラキラと輝いていた。

「……」

 淡い色合いの唇がぴくりと動いたが、さっきのようにその細い喉から声が出ることはなかった。……やっぱりさっきのは聞き間違いだったのか、それとも俺の願望が見せた幻だったのだろうか。
 
 弓月の口から溢れた細い吐息は少し震えていて、俺は堪らず彼の身体を覆うように優しく抱きしめていた。夏よりも厚い服越しに感じる体温がなんだかいつもよりも低い気がして、抱きしめる腕に少しの力を入れた。

「魘されてたけど、大丈夫?……っ」
「……」

 頬にそっと触れる。想像していたよりもずっと冷たいその肌に、なんだか無性に泣きたい気持ちになった。
 俺の体温を少しでもわけられたらと両手で頬を包み込むと、弓月が気持ちよさそうに目を細めた。じんわりと手のひらから頬へと体温が移っていくのがわかる。俺は思わず安堵の吐息を漏らした。

 視界の端で慶士が立ち上がるのが見えて、俺は顔を上げた。俺の視線に気がついたのか、慶士が俺の方を見る。そのままじっと見つめていると、慶士はふっと口元を緩めながら人差し指で首元をとんとんと軽く叩いた。
 なるほど、救急箱を取るためにリビングに行くらしい。確かにちらりと見えた弓月の首元は俺たちが想像していたよりもずっと酷かった。複数ある傷は浅いものもあれば深く血が滲んでいるものもあった。きっとそれを治療をするためだろう。
 
 慶士が部屋を出ていく。扉が閉まる音がすると同時に、弓月の手が俺の手に触れた。氷のように冷たい指先が俺の手をするりと滑り、お互いの指が絡み合う。ぎゅっと繋ぐ手に力を入れると、弓月の指が小さく震えていることに気がついた。

「……寒い?」

 そう聞くが、どこかぼんやりとした様子の弓月は何も答えない。ゆっくりと緩慢な動きで瞬きをして、それから静かに息を吐くだけだ。もしかするとまだはっきりと目が覚めていないのかもしれない。

「弓月」

 名前を呼べば、弓月の瞳がゆっくりとこちらを向いた。満点の星空の如くきらきらと光り輝く瞳に心臓が高鳴る。いつもよりも気怠げな表情が妙に色っぽく見え、俺は気まずさにほんの少し視線を逸らした。

 本当はどんな夢を見ていたのかを聞きたかったのだが、やめた。今の弓月を見ていると、余計なことまで思い出させてしまいそうで躊躇してしまったんだ。もし夢の内容が忘れてしまったはずの過去の記憶だったら、なんて考えてしまったというのもある。

「大丈夫だよ」

 小さく身体を震わせる弓月の頬に手を当て、熱を測るように彼の額に自分のそれを合わせた。体温は少しずつ上がってきたようで、さっきよりもほんのりと温かい。そのことに安堵していると、近い場所にある弓月の瞳が俺の方に向けられていることに気がついた。未だに夢うつつの状態なのか、夜空のような瞳はやはりぼんやりとしている。

「……大丈夫だよ」

 額を合わせながらもう一度そう言うと、弓月の口からは柔らかな吐息がこぼれ、安心したようにそっと瞼が降りた。
 
 
 
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