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第四章

八十七話 繰り返す日常

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 前回とは違い、今回は洗面台の前で前髪を切るらしい。俺専用にと用意されている椅子に腰掛け、洗面台の鏡を見る。鏡に写っているのは、以前カットした時にも使用した下側の部分が受け皿のようにくるりと上がっているケープを身につけた自分の姿。なんだか面白い光景だなと思いながらくすくすと笑っていると、鋏を携えた律樹さんが鏡越しにどうしたのと首を傾げたのが見えて、俺は思わず「なんでもない」と口を動かした。

「本当に?……あ、こっち向いてくれるかな?」

 律樹さんに促されるがままに、鏡に向かっていた顔や体を真横に向ける。そして真正面に立つ律樹さんを見上げると、真剣な色を含んだ琥珀色の瞳と視線があった。真っ直ぐに俺を見つめる瞳が少し上の方を向く。前髪の長さを見ているのだと気づいたのは、律樹さんの指先が前髪を軽く掬い上げた時だった。
 律樹さんが俺の顔――正確には目に掛かっている前髪をじっと見つめている。想像以上の近さに、心臓が高鳴りっぱなしだ。
 何度もキスをしているというのに、息が掛かるほどの距離に律樹さんの整った顔があるというのは心臓に悪いなと、ドキドキと忙しなく動く鼓動に思った。うるさく鳴り響く鼓動は大きくて、近くにいる彼に聞こえてやいないかと不安になる。けれどそんな不安は一気に霧散した。

「眉と目の間くらいで……でも短すぎるのも……」

 きっと今の律樹さんの目には俺の前髪しか写っていないのだろう。だから俺の心臓の鼓動なんて彼の耳にはこれっぽっちも入っていない。
 それが良かったのか、それとも残念だったのかはわからない。少なくともこの鼓動の音を聞かれているかもなんて不安はすぐに消し飛んでしまった。

 元々端正な顔立ちの律樹さんだが、真剣な表情はいつも以上に格好良い。もっと見ていたいなぁ、と思いながら見つめていたのだが、もう切るよという合図で渋々目を閉じざるを得なくなってしまった。残念だ、非常に残念だ。

「ほら、切った髪が入るから目を閉じて」
「……」
「そう、上手だね」

 言われた通りに目を瞑ると、律樹さんは俺の頭を撫でながらそう言った。今の言葉はコマンドではなかった。なのにコマンドで褒められた時のような足元から多幸感や満足感が湧き出てくる。しかし今は髪を切ってもらう時だ。そっと目を閉じ、動かないように動きを止めるのに集中する。
 鋏が髪を切っていく音が聞こえる。うるさい鼓動の合間に聞こえてくるのはチョキンという軽い音ではなく、ジョキンという重い音だ。慎重に切っているのだろう、音はかなりゆっくりだった。
 
 切れたて落ちた短い髪が顔の表面についていくのが目を閉じていてもわかった。息を吸い込むと髪が鼻や口に入りそうで、ゆっくりや浅くしか呼吸ができない。気にする必要は多分ない。けれど律樹さんにあんまり変な姿を見せたくなくて、俺は必死に息を止めながら耐えていた。、

「んー……もう少しかなぁ」

 額に律樹さんの指先が触れる。ほんの少し掠っただけだというのに、俺の胸は驚くほどに高鳴っていた。

「……ん、出来た」
「……!」

 優しい声色がそう告げ、俺は閉じていた瞼を開いた。たった数センチ切っただけだというのに視界が広く感じる。

「どう?」

 俺はカット用のケープを着けたまま、こくこくと頷いた。良かったとほっとしたように言葉をこぼした律樹さんにありがとうと笑えば、彼も同じようにふわりと微笑んでくれる。それが嬉しくて、俺の笑みもまたさらに深まっていく。

 その後はケープを外し、お風呂に入った。切った後の短い髪が残らないように、いつもよりも少し念入りに頭の先から足の先まで洗ってから湯船に浸かる。熱くもなく、かといってぬるくもないちょうど良い温度にほうとため息が溢れた。
 暫くして俺と同じように全身を洗い終えた律樹さんが湯船に足を入れ、ゆっくりと腰を下ろしていった。僅かに容量がオーバーしたのか、湯船から溢れたお湯が排水口へと流れていく。律樹さんが湯船の縁にもたれ掛かるように体勢を変えると、さらにお湯が溢れ出ていった。

 排水口に水が流れていく音だけが浴室内に響いている。特に何かを話すでもない静かな時間が流れていた。

「弓月、こっちにおいで」

 お湯の中で膝の上を叩くように手のひらが動き、水面が揺らぐ。その様子にふとチョコレート事件のことを思い出した。そんなこともあったなぁ……くらいの記憶だが、目の前に広がる肌色に顔が朱を帯びていく。
 今素肌同士が触れ合えばきっと俺のモノは反応するだろう。でも今は正気だ。この先に起こることを期待はしているけれど、ほんの少し緊張してしまって膝の上に座ることを躊躇してしまった。

「弓月、膝においで」

 今の言葉もコマンドではなく、ただ彼の願いとして口にされた言葉だった。『プレイじゃなくて恋人として触れ合いたい』という言葉通りに彼はコマンドを使う気はないようだ。いっそのことコマンドを使ってくれれば、何も考えずにただ本能に従って甘えたり大胆な行動もできるというのに。
 ――いや、寧ろそれがわかっているからこそコマンドを使わないのか。
 
 俺は赤くなった頬を隠すように俯きながら、そろそろと律樹さんに近寄る。そして俺を迎えるために開かれていた足の間に移動し、体を縮こめながら腰を下ろした。もちろん律樹さんに背を向けて、だ。
 どうして俺が俯いているのかも、背中を向けているのかも律樹さんは全部わかっているに違いない。ああもう、本当にもうコマンドが欲しい。もっと触れ合いたいのに、このままじゃ羞恥が邪魔をしてどうもこうもない。

 俺はきゅっと唇を引き結び、律樹さんの膝に指を滑らせた。ちゃぷんと音が鳴り、水面がまた揺れる。

「弓月」

 律樹さんの優しくて低い声が俺を呼ぶ。
 俺が返事をするその前に、俺の身体は律樹さんの肌に包まれていた。

 
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