声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第四章

八十六話 幸せな時間

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 どのくらいの間口付けていただろうか。
 何度も角度を変え、深さを増しながら重なり合った唇が離れていく。名残惜しそうに透明な糸が繋がり、そしてぷつりと切れた。

「……先に買ったものを冷蔵庫に入れてくるね」

 耳に息がかかるくらいの距離で発せられた少し待っててねという低く甘い声が鼓膜を震わせた。体温が僅かばかり上がり、顔だけじゃなくて全身がぶわりと沸き立つ。
 律樹さんが居間を出て台所へと向かう背中をぼんやりと見つめながら、俺はとすんとソファーの座面に横たわった。そして先ほどつけてもらった首元のチョーカーに指先をそっと這わせる。

 幸せだなぁと思う。同時に、こんなにも幸せで良いんだろうかとも思う。
 あの日からずっと、夢の中にいるみたいだ。ずっとずっと思い描き、けれども諦めないといけなかったあたたかな日常を過ごすという夢。今俺が見ているこの幸せな時間が本当に夢だったとしたら、目が覚めた時に俺はそれまでと同じように耐えることができるんだろうか。

「お待たせ、弓月」

 俺が横たわっているソファーの傍に膝をついた律樹さんがふわりと微笑んだ。その笑顔を見た途端、なぜか沸き起こった感情に目頭が熱くなる。俺は涙がこぼれないようにきゅっと唇を引き結び、そして勢いよく上体を起こして律樹さんに抱きついた。
 首の後ろに腕を回し、肩口に顔を埋める。目から滲む水滴が律樹さんの服へと吸い込まれていった。濡らしちゃってごめんなさい、そう思いながらもそこから離れることができない。涙に濡れた顔を見せたくなくてぐりぐりと顔を擦り付ける。そして深呼吸をすれば肺いっぱいに俺の大好きな香りが広がっていき、俺はきゅっと目を閉じた。
 急に抱きついたのだから驚いているだろうに、律樹さんは何も言わずにただ俺を受け止めて頭や背を撫でてくれた。まるで大丈夫だよと言っているような手の動きに、だんだんと呼吸も涙も落ち着いていく。
 
 そうして落ち着いてきた頃、俺は漸く顔を上げた。するとそれを待っていたかのように、律樹さんの大きくてごつごつした手が俺の頬に触れたのだ。涙を拭うように親指が目元をゆっくりと滑っていく。じっと優しい光を帯びた琥珀色の瞳を見つめていると無意識に俺の口が律樹さんの名前を形作った。それは決して音にはならなかったけれど、それでも律樹さんにはしっかりと伝わったようだった。

「本当はこれからデートに行く予定だったけれど、弓月さえ良ければなんだけど……延期しても良い?」

 ソファーに座っている俺の隣に腰を下ろした律樹さんは、俺の方に軽くもたれ掛かりながらそう言った。しっかりと繋がれた手の温もりが心地いい。繋いだ手にぎゅっと力を入れて返事をする。律樹さんの手がまるでわかったとでも言うように動き、俺はくすくすと笑いながら彼の肩に頭を乗せた。
 
 律樹さんが言わなかったらきっと俺が延期を申し出ていただろう。律樹さんが帰ってくるまでのあのメンタルでは流石に外に出ることはできなかっただろうし、何より抑制剤の服用が出来ない今は外に出ること自体が少し怖かった。
 だから律樹さんから提案してもらえたことに感謝することはあっても、嫌がったり恨むなんてことはあり得ないのだ。それにもしメンタルが回復していたとしても、今は律樹さんと一緒にこの家でゆっくりと過ごしたいと思っているから、どちらにしろ延期を申し出ていたことだろう。、

「じゃあ……お昼食べたら二人でゆっくりしようか」

 プレイでもいいんだけど、今日は恋人として過ごしたいんだと言う律樹さんの言葉に頬が熱くなる。俺はそれを隠すように下を向いた後、小さく頷いた。
 鼓動がいつもより少し早く感じる。きっとこれは期待だ。律樹さんと一緒にくっついていられるという、期待。トクトクと規則正しく鳴り響く鼓動も期待しているのか、少し早さが増した気がした。



 昼食を済ませ、歯を磨く。律樹さんが部屋着に着替える前にシャワーを浴びるというので、俺も一緒にシャワーを浴びた。用意していた洗いたてのふわふわなバスタオルで体表面に付いた水分を拭い、同じように洗いたての部屋着を身に纏う。隣を見れば、俺と同じようにバスタオルで体を拭き終わった律樹さんがこちらも洗いたての部屋着を着ているところだった。

「髪、乾かすからおいで」

 とっとっと軽い足取りで律樹さんの方に向かい、足元に置かれた椅子に腰掛けた。この椅子は俺の足が不自由だった時に律樹さんが俺の為にと用意してくれた椅子だ。足が動くようになった今でもここに置いているのは、こうして髪を乾かしてもらう時のためである。
 律樹さんがドライヤーを構え、スイッチを入れる。ブオォォと大きな音が鳴り出すと同時に、温かい空気が俺の髪を靡かせ始めた。律樹さんの指が髪をすくように撫でていく。その上を温風が勢いよく過ぎていくのが心地いい。

 数分が経ち、あらかた髪が乾いてサラサラになった頃、律樹さんはドライヤーのスイッチを切った。鏡に映る律樹さんが俺の真っ黒な髪を一房掬い上げてくすりと笑う。
 どうしたのと鏡越しに律樹さんの目を見れば、彼は目を細めながらおもむろに手に取った髪に顔を近づけた。それは触れるか触れないか、おそらくぎりぎり触れない程度だったにも関わらず、俺の身体はたったそれだけで熱を帯びていく。えっえっと照れと恥ずかしさにあわあわとする俺に、律樹さんはくすくすと笑いながら口を開いた。

「ついこの間切った気がしていたのに、もうこんなに伸びたんだなぁって……」

 その言葉に、そういえば前回は長くなり過ぎた髪の毛を律樹さんに切ってもらったんだったと思い出した。あの時は律樹さん以外に触られること自体が無理だったから仕方がなかったんだってわかっているけど、実際に切ることになった律樹さんは緊張しただろうなと思う。
 今でこそ律樹さん以外の人とも会うことができるようになったが、少し前までは触れるどころか会うことすらもできなかった。そう考えれば俺も少しは成長したのかな、なんて少し嬉しくなった。

「……また切りたい?」

 鏡越しに律樹さんが俺を見ながらそう言った。
 長くなったとはいえ、以前よりも長くはない。でも、と前髪を指先でつまみながら鏡を見る。後ろや横は良いとしても前髪だけは切りたいかもしれない、と前髪を引っ張って揺すりながらへらりと笑った。

「そうだね、前髪だけ切るのもいいかもね。……今度は美容院に行ってみる?それとも……」
『りつきさんがいい』
「ふふっ、わかった。……じゃあ今日の夜、お風呂に入る前に切ろうか」

 うん、と大きく頷くと、律樹さんはとても嬉しそうに笑った。
 
 俺が触れてほしいのは律樹さんだけ。
 そう思いながら、俺は鏡越しに琥珀色の瞳に向かってもう一度大きく頷いた。


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