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第三章
閑話 瀬名律樹と怪我の功名
しおりを挟む長かった文化祭が漸く終わる。準備期間も忙しなく動いていたせいで、正直ずっと文化祭をしているような気分だった。朝早くから学校に行き、夜遅くに家に帰る生活も後少しだと思えばなんだか感慨深いものがある。
信号が赤になり、車を停止させてから助手席に視線を移した。昨日今日と慣れないところでかなり疲れたのだろう、隣に座る弓月はぐっすり夢の中だ。夕飯を買いに寄ったデパートからの帰り道、車に乗って数分が経った頃には隣から寝息が聞こえてきていたのを見るに余程疲れていたのだろう。
小さいながらも流していた音楽を止め、俺は前を向いた。前で控えめに光る信号はまだ赤のままだ。
目を焼くほどの強い光を放つ夕陽が左側の窓から見える。窓の外の景色だけではなく車内をも赤く染めるそれに思わず目を細めると、視界の端で弓月の身体が動いた。起きたのかと思いながらちらりと様子を伺うが、どうやら体勢を変えただけらしい。
「お疲れ様」
小さくそう声を発しながら弓月の頭に手を乗せた。柔らかな髪を梳くように優しくそっと撫でる。細く、滑らかな髪がさらさらと指先から溢れていった。
やがて長らく赤だった目の前の信号が青になり、俺は名残惜しくも弓月の頭から手を離した。両手でハンドルを持ち、前の車が進んだことを確認してアクセルを軽く踏む。軽いエンジン音の後、車はゆっくりと前に進み出した。
弓月が文化祭に来てくれたことは本当に嬉しかったが、同時に心配も多かった。案の定、昨日の彼は大分不安定であったし、今日も他のダイナミクス持ちの騒動に意図せずに巻き込まれてしまった。いくら招待客だけとはいえ、この二日間の文化祭の来場者数はかなり多い。その為今日のような騒動が起こることを予想していなかったわけではないが、実際に弓月が被害を被った場面を視界に入れた時はどうしてやろうかと思った。
実際怒りが膨れ上がり、ディフェンス状態になる寸前だった。しかしそれでも俺がディフェンス状態にならなくて済んだのは、すぐに周囲が原因を取り押さえたことで威圧が収まったこと、それから腕の中で震えていた弓月が俺の声だけに反応して身を委ねてくれたからだろう。あの場で俺がグレアを発していればあの騒動の比ではないくらいの騒動になっていたに違いない。
(……まあ、だからこそこうして今弓月と帰れるんだけど)
怪我の功名というやつか。そう思いながら、俺は校長に呼び出された時のことを思い出していた。
頼み込まれて渋々出場したミスコンが終わってすぐ、俺は校長室に呼び出された。騒動に関する聞き取りをあらかた終えて、被害を受けた弓月の容態の説明を大まかに行う。すると俺だけでなく弓月もSランクであることを知った校長は、かたかたと手を震わせながら顔を真っ青にし、椅子から立ち上がって頭を深く下げた。
一教師に頭を下げる校長の頭を見下ろしながら言葉の続きを待っていると、ゆっくりと頭を上げた彼の顔が強張っていることに気がついた。確か校長はDomではあるがランクはそれほど高くなかったはずだ。俺を見るその目に僅かに恐怖が浮かんでいることを俺は見逃さなかった。
(なるほど……俺がディフェンス状態にならないか警戒しているのか)
俺がディフェンス状態になっていれば被害は数倍、下手をすればもっと膨れ上がっていただろう。この校長はそれを危惧しているのだ。自分よりも遥かに上のランクである俺が得体の知れないものにでも見えているのかもしれない。
校長は机の上に置いていたA4サイズの茶封筒を俺に差し出した。封筒表面には何も文字が書かれていない。
「……これは?」
「中身を見てくれたらわかる」
「……ケア休暇?」
開いた封筒の中に入っていたのは数枚の書類。一番上の紙の上部には大きく太字で『ケア休暇(パートナー)』と書かれていた。名前もこの休暇制度のことも一応知ってはいる。確かダイナミクスを有する人物が関係する騒動に巻き込まれてケアが必要になった場合に申し出ることが出来る休暇制度の名前だ。
だが今回は俺本人に直接被害があったわけではない。一体どういうことなのかと眉間に皺を寄せれば、ごほんと軽く咳払いをした校長が眉尻を下げながら笑った。
「これはあまり知られていないが、パートナーにケアが必要になった時にも申請が出来るんだ。被害に遭ったパートナーのランクが高いほど取りやすくなる」
「……なるほど」
「過去にこの休暇制度を悪用する輩もいたのだろうね、今では本人から直接申請を行うことはできないんだ。だから君が知らないのも当然だろうね」
既にこちらで申請はしてあるから今日はもう帰りなさいと言われて終えば、一教師である俺はもう「はぁ」と頷くしかない。
校長室を出て、廊下で突っ立ったまま書類を取り出して目を通してみた。どうやら本当に休暇申請をしてくれているらしい。期間を見れば明後日の月曜日から来週の日曜日までの日付が書かれていた。
もし弓月の体調が悪くなれば有給を取るつもりでいたが、これは思わぬ誤算だ。しかし他の書類に目を通していくうちに眉間に皺が寄っていくのがわかった。
要するに、これで手を打てということなのだろう。今回の騒動で被害に遭ったのがSubだけだったからこれで許せと言いたいのかもしれない。
Subはその特性からか社会的地位が驚くほどに低い。同じ第二性持ちであってもDomやSwitchはNormalと同じかそれ以上に重宝されているというのに、世の中のSubへの軽視は酷いものだった。今回もその類だろうことが容易に想像でき、俺は唇を噛み締めた。
保科はあの書類を見た瞬間に「ふざけてるな」と言っていたが、全くもってその通りだと思う。
自宅の駐車スペースに車を止め、エンジンを切った。座席の背凭れに身体を預けて深い溜息を吐き出す。疲れで全身にかかる重力が増したのではと思えるほどに体が重かった。
助手席に顔を向けると、弓月はまだ眠ったままだった。すーすーと寝息を立てながら眠る弓月に腕を伸ばして前髪を指先で掻き分ける。そして顕になった額にそっと唇を落とした。弓月の表情が僅かに緩み、俺の方へと擦り寄ってくる。眠ったままにも関わらず可愛いことをする弓月に腹の奥底から欲望が湧き上がってくるのを感じ、俺は苦笑とともに再び溜息をこぼした。
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