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第三章

六十三話 DomとSub 前編(律樹視点)

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※このお話は本編ですが、律樹視点でのお話です。



 弓月との幸せな時間はあっという間だった。
 元々たった一時間という短い時間ではあったが、体感はもっと短いように思えるくらいだった。
 少ない時間だったためにゆっくりと見て回ることも出来ず、結局昼食を買って飲食や休憩のためのスペースとして開放されている教室で食べて話をするくらいで終わってしまった。本当ならもっと学校の中を案内したり、クラスの出し物を一緒に見て回ったりしたかったが、それは俺が教師である限り叶わないだろう。
 
 文化祭の間は、準備の期間も含めて忙しかった。準備期間中は準備をする生徒のために車を出したり、関連する様々な講習を受けたり、羽目を外して騒動を起こさないように見回りを強化したりとやることはいくらでもある。普段の仕事に加えてのこの作業量に体力も気力も削られていた。
 それは文化祭開催期間中も同じ。いや寧ろ開催期間中の方が気力も体力も削られている気がする。特に模擬店での事故や不審者等の事件が起きないよう常に気を張り巡らせておかないといけないため、気の休まる時はほとんどないと言っても過言ではないだろう。

 この仕事量だ、多分自分が気付かないうちに疲労が溜まっていたのだろう。だから俺は弓月が何かを隠していることには気が付いていたけれど内容まで察する余裕がなかったし、今思えば恐らく気遣う事すらも難しかったように思う。

「律樹くん、お疲れ様」
「お疲れ様です……」

 この人は俺と同じ数学教諭であり、俺の姉である瀬名六花の学生の頃からの友人――和泉いずみ夏帆かほ先生だ。
 同じ科目を教えている先輩の先生ということもあり、普段からよく相談に乗ってもらっているため仲はそれなりにいいと思う。校医であり俺の友人でもある慶士も含めて、学生の頃からよくお世話になっていたため、正直あまり頭が上がらない。

「噂の従兄弟くんと一緒だったんだっけ?」
「ええ、まあ……」

 曖昧な返事を返す俺に、和泉先生は手元の紙を見ながらくすりと笑った。彼女の言う『噂の従兄弟くん』というのは言わずもがな弓月のことである。恐らく昨日六花姉さんから色々と聞いていたのだろう、その笑顔と発言にはどこか含みがあった。

「……そういえば焼きそば食べに行きましたよ」
「あっ、本当?ありがとう!どうだった?」
「とても美味しかったです」
「ふふっ、ありがとう」

 さっき弓月と食べた焼きそばの屋台は、この人が担任を受け持っているクラスの出し物である。偶々休憩に入る前にそう聞いていたことと、弓月が好きだったために買いに行ったが中々美味しかった。一緒に食べている時の弓月は幸せそうで、見ているこちらまでつい口元が緩んでしまうほどだった。
 そんなことを思い出していると、ついさっきまで一緒にいたというのにもう会いたくなってしまう。会いたい、会って抱き締めてまた甘やかしてやりたい。そう思うのに、どうして俺は別れ際、あんなことを言ってしまったんだろうなと自嘲が溢れる。

(弓月と一緒にいられる刈谷と姉さんに嫉妬した……とか本当、笑えないよなぁ……)

 姉さんたちといっぱい見ておいで、なんて少し意地悪なことを言ってしまったなぁと思う。わざわざ『姉さんたち』と言わなくたってよかった。けれど見て回る相手が俺じゃない悔しさに、気付けばついそう口走ってしまっていた。
 あの瞬間の弓月の表情は酷く寂しそうだった。揺れる瞳がまるで「どうして」と言っているようで、今思い出すだけでも胸が締め付けられる。つい口走ってしまった後悔に苛まれながら、俺は深く深く溜息をついた。

「……あ、そうだ。今弟のクラスが体育館で劇をしているんだけどね、六花たちそれ観に行くんだって言ってたよ」

 和泉先生には歳の離れた弟がいる。今年高校三年生で弓月と同じ歳の彼は、確か弓月とも面識があったはずだ。一言二言話したことがある程度だと聞いたことはあるが、本当のところはどうなのかなんて俺にはわからない。

「へぇ……どんな劇なんですか?」
「んー……確か、人魚姫とか言ってたかなぁ?」
「人魚姫……」

 俺はその言葉を噛み締めるように呟いた。
 人魚姫――人間の王子に恋をした人魚が声と引き換えに人間の足を手に入れたが、王子との恋が叶わずに海の泡となって消えてしまう話、だっただろうか。声が出ないというキーワードに、脳裏に弓月の姿が浮かび上がる。

「弟が主役らしいのよね」
「それは……おめでとうございます、でいいんですよね?」
「多分?……まあ元々演劇部だったし、あの子顔だけは綺麗だから女性の役もよくやってたみたいだから本人としても良かったんじゃないかしら」
「……そういうもんなんですね」

 そう答えながらも脳裏に浮かんだ弓月の姿が消えない。足と引き換えに声を失った人魚姫と心因性ではあるが声を失くした弓月の姿が重なる。
 所詮は物語、そう思っているのにどうしてか心臓が嫌な音を立て始めた。

 ……いや、大丈夫だ。弓月は声は出ないけれども、その代わりに文字でたくさんお喋りをしてくれている。それに音がなくても、形や動きだけでも気持ちが伝わって両想いになれたのだ。だから物語の中の彼女とは全く違う。
 そう思っているはずなのに、不安が拭えない。

「人魚姫って序盤で声を失うでしょう?だから声を上げずにどうやったら思いや考えが伝わるのかって頭を抱えていたわ。動きを大袈裟にしてみたり、表情や空気を作ってみたり……大変そうだなぁ、なんて思いながらもどこか楽しそうで、羨ましいなんて思っちゃったわ」

 くすくすと笑いながら和泉先生は視線を移した。その先にあるのは体育館の入り口。腕につけた時計を見れば丁度今劇をやっている最中のようだった。
 
 今この体育館の中に弓月がいる。彼は自分と同じように声を失った人魚姫に何を想っているのだろうか。

「……さっ、見回りの続きをしましょうか」
「……そう、ですね」

 いつの間にか止まっていた足を再び動かした和泉先生の後を追いかけるように、俺は足を踏み出した。



 
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