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第三章

六十二話 声を失くしたお姫様の話

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 六花さんの一言で、三人でとあるクラスの演劇を見ることになった。なんでもこの劇には六花さんの知り合いの弟さんが主役で出ているらしく、どうしても見たかったのだと言う。
 
 記憶にある限りでは初めて見る演劇に胸が躍る。体育館の床に緑色のシートが敷かれ、その上に無数に並んだパイプ椅子。そのうちの一つに六花さんが座り、続いて俺、その隣に壱弦が腰を下ろした。
 入り口付近で配られたチラシに視線を落とし、プログラムを眺める。どうやらこの体育館で行われる舞台は演劇だけではなく、バンド演奏や部活の演奏も行われているらしい。今から見る劇の前後にも『有志バンド』と書かれているから、それなりに数は多いのかもしれないなと思った。

 公演時間が書かれたスペースから視線を移し、今から見る劇のあらすじなどに目を通す。そこに書かれた文字を目で追いながら、俺たちは開演を待っていた。
 
 
 ――今から見る劇は『人魚姫』。
 人間の王子に恋をした人魚のお姫様が、王子と結ばれたいとその美しい声と引き換えに人間の足を手に入れたが、結局は王子の勘違いによって失恋し、人魚姫は海の泡となって消えてしまうという悲恋のお話だ。

 子どもの頃に何度か絵本で読んだことはあったが、その時は「この王子見る目ないなぁ」とか「なんで間違えるかなぁ」と思っただけだった。王子のことを助けたのはその女の子じゃなくて人魚姫なのにと、思いが叶わず泡になって消えてしまったお姫様が可哀想だと思っていたのだ。
 けれど今は、なんとなく王子の気持ちもわからないでもない。自分を助けてくれた恩人が彼女であるか人魚姫であるかなんて彼にはわからないのだ。だからやっと見つけた手がかりに縋って、恋に落ちて――恋は盲目というけれど、本当にそうなのかもなぁ……なんて思う。

(それでもやっぱりお姫様は可哀想だよなぁ……)

 劇のクライマックス、舞台の上では人魚姫の姉たちが自らの長く美しい髪と引き換えに海の魔女から手に入れた剣を人魚姫が受け取るシーンが繰り広げられていた。この剣で王子を殺せば人魚の姿に戻ることができる。助かることができるというのに、彼女はそうはしなかった。
 愛する人を手にかけてまで手に入れた命になんの価値があるのかと言わんばかりの彼女の姿に、劇とはわかっていても胸が痛む。少し前の俺だったら、王子をやっつけた方がいいのにと思っていたことだろう。けれどそう思えないのは、俺が声を無くしてしまったからだろうか。

(あーあ……なに自分とお姫様を重ねてるんだよ……声が出ないってところしか共通点がないっていうのに)

 彼女は悲劇のヒロインで、俺は現実の人間だ。
 悲劇のヒロインになりたいわけでもなければ、悲劇のヒロイン振りたいわけでもない。そんな俺が彼女に自分を投影するなんてと自嘲を溢し、膝に乗せた手をぎゅっと握りしめた。

 舞台上から誰もいなくなる。代わりに泡のような演出がなされ、ナレーションと共に劇は終わりを迎えた。
 出演者が舞台上に一列に並ぶと体育館内は拍手や喝采に包まれていく。ぱちぱちと幾重にも重なった音に自分の音も重ね合わせて、舞台上に赤い幕が降りるまでずっと叩き続けた。横を見れば壱弦が真剣な表情でじっと舞台を注視しながら手を叩いていた。



「よかったですね……」
「ええ、びっくりするくらいクオリティが高かったわね……でもまさかあの子がお姫様の役だったなんて……」

 二人が感想を言い合いながら席を立ち上がった。俺もそれに続いて立ち上がり、二人の後を小走りについていく。やんややんやと語り合う二人を尻目に、俺は手に持ったチラシを四つ折りにしてボディバッグの中にしまった。

 確かに劇のクオリティは高く、とてもよかったと思う。俺は演劇をほとんど見たことがないが、それでも出演者の演技力や演出がすごいことはわかった。
 けれど、いやだからこそ、舞台上のお姫様に自分を照らし合わせてしまったのかもしれない。――声が出なくなってしまった彼女と俺を。

(声……どうやったら出るようになるんだろう)

 物語の中のお姫様は海の泡となって消えてしまうまで終ぞ声は戻らなかった。けれどそれは物語の中のお話だ。
 彼女は海の魔女と取引をして声と引き換えに人間の足を手に入れたが、俺はそうじゃない。俺の担当医である竹中先生は心因性のものだろうと言っていた。だから心が休まれば、安定すればいずれは出るようになるのだと。
 でもそれはいつなんだろう。いずれって……もしかしたら戻らない可能性もあるってことだよな?

 俺は喉元を右手で覆った。
 役に立たない声帯、愛する人の傍で愛を囁くこともできないことが、物語の中の彼女にとってはどれほど歯痒かっただろうか。俺は運良く口の形だけでも好きだと伝えられたし、この現代にはスマホという便利なものがあるけれど、それでもやっぱり咄嗟に言葉を発することができないことに歯痒さを覚えることも多い。

 ……ああ、駄目だな。考えれば考えるほど、物語の中の彼女に自分を重ねてしまっていけない。

「――……!」
「――……‼︎」

 不意に遠くから言い争うような声が聞こえ、俺は俯いていた顔を上げた。すぐ前を歩いていた六花さんと壱弦が足を止め、声の発生元だろう辺りを見つめている。俺も視線をそちらに移してみれば、そこでは男女三人が言い争っているようだった。

「なにかしら……あれ」
「痴情のもつれ……ってやつなんですかね?」

 肌がぴりぴりとしている。言い争っているのは男性二人に女性が一人――いやあれは、男性と女性がもう一人の男性を取り合っているようにも見える。
 争いに気がついた生徒や一般参加者が俺たちと同じように足を止めて、なんだどうしたと口々に言い合う声が聞こえてきた。肌のピリつきは治ることなく、尚も強くなり続けていく。

「俺、先生を呼んで――弓月……大丈夫か?お前、顔真っ青だぞ」
「……?」

 両腕を摩りながら言い争っている彼らから視線を逸らすように顔を俯かせていると、壱弦が俺の肩を掴んで焦ったような声でそう言った。自分の顔色はわからないからなんとも言えないが、見上げた先の彼の表情はとても冗談を言っているようには見えない。
 大丈夫だと口を動かしてへらりと笑うが、壱弦には伝わらなかったようだ。下がりかけだった眉尻は一気に八の字を描き、肩を掴む手に力が込められていく。

「――五月蝿い‼︎」
「……ッ⁉︎」

 そんな怒声が耳に届いた瞬間、小さな悲鳴がいくつか上がった。俺は悲鳴こそ出なかったが、喉がヒュッと鳴った。
 ガタガタと震え出す身体を抱きしめるようにしながらその場に蹲る。震える手で被っていた帽子の鍔を摘んで、目深に被っていたそれをさらに深く被ろうとしたが、うまくいかなかった。

「弓月っ!大丈夫か⁈」

 これはDomの威圧グレアだ。強いか弱いかなんて知らないけれど、少なくとも病院にいた時に兄に対して律樹さんが放ったものと同じくらいのような気がする。かなり距離はあるはずなのに、それでもこんなにも強い威圧を感じるのはきっと発した人のランクが高いからなんだろう。

 呼吸が荒くなる。手足の先から熱が引いていく。
 小刻みに震える身体は尚も震えを強くしていき、身体を支えきれなくなった俺は地面にぺたりと座り込んだ。身体がどろりと溶けていくような気持ちの悪さに吐きそうだ。
 片手を地面につけ、必死で倒れないようにする。歯を食いしばりながら、氷のように冷たくなった指先で固い地面を掻いた。まるで水の中にでもいるように、音が遠い。肩を抑えている力強い手の感触も消えていく。

 怖い……怖い怖い……!
 こんな状態になっているのに、Domの威圧だけはまだはっきりと感じられる。頭の中も目の前もぐるぐるぐるぐると回り、まるでかき混ぜられているかのようで気持ちが悪い。

 そんな時、ふっと鼻を掠めた香りに喉がひくりと鳴った。そして不思議なことにあれだけガタガタと震えていた身体がぴたりと止まった。頭と背中に何かが触れる。触れられた場所から熱が伝わり、俺は漸く息を吸い込むことができた。

「弓月、落ち着いて呼吸して……そう、上手」
「……っ」

 耳に届く聞き慣れた穏やかな声に俺は顔を上げようとして、失敗した。突っ張っていた腕が力を失くし、身体が傾ぐ。このまま地面に顔を打ったら痛いだろうなぁ……なんてどこか冷静な頭の中でぼんやりとそう思いながら、次に来るだろう衝撃に備えて目を閉じた。

 ――が、一向に想像していた衝撃は訪れない。
 代わりに全身を浮遊感が襲い、俺は薄らと目をあけた。

 なんだか前にも同じようなことがあったような気がする。あの時は確か目の前がずっと真っ暗で何も見えなかったような気がしたけれど、今は霞んだ視界に光が満ちていた。

「もう大丈夫だよ。……俺が保健室に連れていくから、安心して」

 栗色の髪が風にさらさらと揺れている。嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を擽り、俺は全身から力を抜いた。
 
 ――ああ、思い出した。
 この感覚は、あの部屋から連れ出してくれた日と同じだ。

 そう思った瞬間、どっと安堵が押し寄せてくる。全身に伝わる熱にほっと息を吐き出し、そっと目を閉じた。

 
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