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第三章

六十一話 幸せな時間

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 律樹さんとの幸せな時間はあっという間だった。
 教室に設置されている時計は十二時二十分を指している。律樹さんの休憩時間は十二時半までなので、この幸せな時間もあと少しで終わってしまう。この時間が続けばいいのになんて思いながら机の上に視線を落とすと、彼の手が頭の上に乗った。ぽんぽんと優しく撫でられ、胸がきゅうっとなる。

 たった一時間だったけれど、本当に楽しかった。
 一緒に居られるだけでももちろん幸せだけれども、それ以上にこうして文化祭というイベントを一緒に楽しめたことが嬉しかった。
 欲を言えばもっと一緒にいたかったなぁ……なんて思うが、遊びで来ている俺とは違って彼の方は仕事なのだから仕方がない。たとえほんの少しの時間だったとしても律樹さんと過ごす時間はいつも宝物のように輝いていて、手放すのが惜しくなってしまう。だからといってこれ以上我儘を言うことは出来ない。

「そろそろ行こうか」
 
 そう言って立ち上がった律樹さんに続いて席を立ち、俺たちは飲食スペースになっている空き教室を後にした。

 律樹さんは俺の手に自分の手を重ねながら歩いていく。人気の少ない静かな廊下に俺と律樹さん二人分の足音が響いていた。

「ねぇ、弓月」

 律樹さんが前を向いたまま俺を呼ぶ。
 俺は返事の代わりに隣を歩く彼の横顔を見上げた。

「弓月はもう一度この学校に通いたい……って思う?」

 真っ直ぐに前を向く律樹さんとは視線が合わなかったが、静かに発せられたその言葉に俺は思わず歩みを止めた。沈黙が降りたこの空間に窓の外からの喧騒が虚しく響く。

 正直、なんて答えたらいいのかわからなかった。
 少し前であればすぐに頷いていただろうに、どうしてか俺の首は全く動かない。中途半端に開いた唇は役目を忘れたかのようにその動きを止めていた。

 最近始めたことではあるけれど、俺は律樹さんの家で日々勉強をしている。それは一から高校に通うか、それともこのまま通信で勉強を続けて高校卒業認定試験を受けるかを決めるためだ。一から高校に通うと言う選択肢の中にこの高校がなかったわけではない。寧ろもう一度高校生活をしてみたいとも思っていたはずなのに、俺は今、すごく迷っている。

「……まあ、まだわからないか。でももし選択肢にあるんだとしたら、姉さんたちといっぱい見ておいで」

 ふっと笑った律樹さんがこっちを向いた。視線がぱちりとあった瞬間、まるで金縛りが解けたかのように体が動き出す。歩き出した律樹さんの手に引かれ、俺の足は覚束ないながらも一歩一歩歩みを進めていった。

 律樹さんの言葉が耳に反響している。全く冷たい言葉ではなかったはずなのに、どうしてか俺自身が突き放されたような気がして胸が苦しくなる。ただ善意で校内を見ておいでってそう声をかけられただけなのに、なんでこんなにも苦しくなるのかがわからなかった。

 ――本当、俺はなんでこんなにもわからないことだらけなんだろうな。周りのことも将来のことも律樹さんのことも、俺のことさえも全部。
 
 つきりと刺さるような痛みに、胸を鷲掴む。さっきまで温かかった胸の辺りが、今はほんの少し冷たくなっていた。



 時間になり、律樹さんと別れた俺は、律樹さんから連絡を受けてやって来た六花さんと合流した。本当なら今日は後夜祭までいるつもりだったのだが、こんな気持ちでずっといてもいいものなのかと悩んでしまう。
 楽しかったはずの律樹さんとの時間、それなのに今俺は多分陰鬱な顔をしている。六花さんもそれに気づいているだろうに、何かを言いたげな表情でちらちらと俺の方を見るだけで実際には気遣ってくれたのか、何も発してはこなかった。

「弓月!……と、六花さん?」
「こんにちは、刈谷くん。今日は私も一緒に回ってもいいかしら?」
「あ、はい!」

 校舎の壁に寄りかかりながらぼんやりと行き交う人を眺めていると、不意に俺たちを呼ぶ声が聞こえて来た。ぱたぱたと近づいてくる足音に、そう言えばもうそんな時間かと首から下げたスマホを確認する。するとそこには確かに約束の時間が表示されていた。
 
 歩き出した二人の後ろをゆっくりと歩いていく。六花さんと壱弦が和やかな会話を進めていく傍ら、俺は少し視線を落として自分の足元を見つめていた。今日履いているスニーカーは、この前律樹さんと一緒に買い物をした時に買ったもので、最近の俺のお気に入りだ。さっきまではこのスニーカーも服もスマホも、視界に入るだけで律樹さんを思い出して温かな心地になっていたというのに、今は少し寂しい。

「……あれ、どうしたんですか?」
「それが……私にもわからなくて」
「え?でもずっと一緒にいたんじゃ……」
「ああ、さっきまでは私じゃなくて律樹が一緒にいたのよ」
「……瀬名先生が?」

 前で二人が俺の方をちらちらと振り返りながら何かを話している。ひそひそと小さな声で繰り広げられる会話は、俺の耳にはほとんど入ってはいなかったが、多分俺のことを言っているんだろうなと言うことだけはわかった。

 こんな時でも俺の頭や心を占めるのは律樹さんのことだった。彼が俺のためを思って言ってくれているのはわかっているつもりだ。なのにどうしてこんな気持ちになっているのかがわからない、それが苦しい。

「――弓月」
「……」

 落とした視界に別の靴先が入る。ゆっくりと顔を上げていくと、眉尻を下げながらこちらを窺う壱弦の顔があった。差し出された手を見下ろし、おずおずとそこに自分のものを重ねる。これだけの人混みだ、逸れたら困るだろうからと繋がれた壱弦の手は律樹さんの手よりも少し小さかった。

 
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