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第二章
二十六話 夢の中の人 前編
しおりを挟むどこを見渡しても真っ暗闇の世界――ここがあの夢の中だと理解するのにそう時間はかからなかった。
この夢を見るのもこれで何度目だろうか。前回と同じように俺の手の中には既にあの金色の鈴があった。それ以外も特に変わったところはなさそうに見える。まあどこを見ても真っ暗闇なんだから見回したところで何もわからないんだけど。
俺は人差し指に紐を引っ掛けた状態で鈴を顔の高さまで持ち上げて鳴らしてみた。するとチリリンとか細くも透明感のある綺麗な音が響き渡る。どこにも光源がないというのにきらりと光るその鈴を反対の指で触れようとして、やめた。この夢の中でこの鈴に触れて良かったことが一度もない。それどころか脳裏に浮かんだ黒く塗りつぶされたような人影は軽くトラウマになっている。もうあんな恐怖体験はしたくないなぁと思いながら、俺はそっと両手を体の横に戻した。
前にこの夢を見た時、俺はどんな行動をしたんだったか。そうだ、確かずっとあてもなく歩き続けたんだと思い出した俺は、無意識のうちに動かしていた足をぴたりと止めた。ずっとずっと歩き続け、最終的にこの鈴に触れることになってあの恐怖体験をするという流れを思い出した瞬間、足がその場で凍りついたように動かなくなる。
このまま歩いていけばいずれはこの鈴に触れなければならなくなる事情が発生するはずだ。そしてきっと脳裏にはあのぐちゃぐちゃに塗りつぶされた人物の姿が浮かんだ後、この夢から出られるのだろう。それがわかっていても、俺の足はもう一歩も動けそうになかった。
(目が覚めるまでここで待ってようかな……)
このままここに止まっていたとして、本当にこの夢から出られる保証なんてない。今までの流れからいえば恐らくは歩くこととこの鈴に触れることで何かきっかけが生まれるに違いない、そう頭では理解しているのに心と体はそれを全力で拒否している。
(……俺ってこんなにも弱かったんだなぁ……)
律樹さんがあの家から連れ出してくれた時から、きっと俺は弱くなった。あの家にいた時はあいつの無理矢理なコマンドでサブドロップをして死にかけることは何度もあったが、恐怖は感じていなかったような気がする。ただ嫌だなとか気持ち悪いなとか、いつになったら俺は死ねるんだろうとかそんなことばかり考えていた。あの頃はまた外に出られるなんて思っていなかったから何の希望もなかったし、ただ耐えることだけが日常で俺の普通になっていたから弱いことに気が付かなかっただけなのかもしれない。
こんなに怖がりで意気地なしだと、もしかすると一生声なんて出せないかもしれない。心の持ちようで何とかなる可能性もあるよと担当医の竹中先生は言っていたが、ここまで心が弱いと声なんて夢のまた夢のように思えてくる。
(俺だって……いや、俺はもう……)
ネガティブ感情が凍りついた足元からぶわりと広がっていくようだった。いつもならここまで気分が落ち込むこともネガティブな感情に埋め尽くされることもないのに、今はその暗い感情に溺れてしまいそうになる。息ができなくて苦しくて、自分一人ではどうしようもなくて誰かに助けてもらいたいなんて思っているのに、今ここにいるのは俺だけだった。
早くここから出たい、でも出るには歩き続けてこの鈴を触らなけらばならない。
心の中で葛藤が続くが、俺がどんな結論を出そうともこの凍った足は動きそうにないなと思った。
そういえば俺はいつ眠ったのだろう。ここにいるということは俺は多分眠ったということだ。けれども眠った記憶がない。律樹さんと一緒に学校を訪れたことは覚えているが、その後のことがさっぱりだった。門から入って校舎を眺めて、それから――がよくわからない。もしただの居眠りだったとすればすぐに律樹さんが起こしてくれる可能性があるが、何となくそれは低そうに思えた。
動かない足はどうこう出来そうになく、俺は仕方なくその場にしゃがみ込んだ。このままここにいていつか目が覚めることをひたすらに祈るしかないのだろうか。俺はそう思いながらその場に膝を抱えて座り込み、目を閉じた。
――チリリン。
どれくらいそうしていただろうか。
あの鈴の音が耳のすぐ側から聞こえ、俺は閉じていた目を開けた。開けたばかりの視界に一瞬光が差し込み、もしかして現実世界に戻れたのかななんて考えながら顔を上げるが、そこはやはり真っ暗闇の夢の中のままだった。
頭の中が寝起きのようにぼんやりと霞が掛かっている。もしかして知らないうちに眠ってしまったのだろうか。もし本当にそうだとしたら俺は一体どれくらい眠っていたのだろう。
疑問が次々に湧き出てくるが、残念ながら答えは得られない。この夢の世界では時間の感覚もなく、俺の感覚だけでは何も判断ができそうになかった。
――チリリン。
また近くで鈴の音がした。人差し指に引っ掛けたままの鈴が一人でに音を鳴らしているようだ。何か俺に伝えたいことでもあるのか、それともただ鳴っているだけなのか。その判別がつかないまま、俺は吸い寄せられるようにその鈴に触れた。
途端に脳裏に浮かんだのはやはり人影。しかし前回までと明らかに違うことがあった。
(あれ……?顔が、見える……?)
いつもなら顔の部分が黒色のクレヨンやペンで乱暴に塗りつぶしたようになっていたが、今回はそれがない。すっきりとした目鼻立ちにまるでモデルのような整った顔面、そして耳で光る幾つかのピアスがはっきりと見えている。
「……こんなところにいたんだな」
最近どこかで見たような気がする顔だなぁ、なんてぼんやりと思っていると、不意にどこか懐かしさを感じる声が耳を打った。はっとして声のした方を振り返ると、そこにいたのは今まさに脳裏に浮かんだ人物だった。名前もわからないその人が俺を見てほっとしたような表情をしている。声が出ないのを承知で君は誰と口を動かすと、目の前の青年は軽く目を見開いた後すぐに眉尻を下げながら笑った。
「ずっと探してた。やっと見つけた、俺の――」
うっとりしたような表情と声色に、俺の中の何かが警鐘を鳴らす。まるでこれ以上この人の言葉を聞いてはいけないとでもいうように、早くここから逃げろと警鐘が鳴り響く。しかし体は凍りついてぴくりとも動かない。視線の先、伸ばされた手が迫ってくる。律樹さんの手と同じくらいか少し小さいくらいのすらりとした手、それから視線が外せない。
待って、来ないでと心の中で必死に叫んでいるのに俺の喉は震えてくれない。なんで、なんで声が出ないの、どうして、これは夢なんだから少しは俺のお願いも聞いてくれよ。いくらそう願っても、夢の中でも俺の声は微かな音さえも発さない。
指先が俺の腕に触れる。見上げた顔が不気味に笑みを浮かべた瞬間、頭の先からまるで溶けた氷のようにどろりと溶けていった。最後に残った口元が三日月型に大きく歪んで消えていく。
息を震わせながら指先が触れた箇所が痛んで視線を落とすと、そこには覚えのない黒子のような黒いシミが出来ていた。恐怖に震える体を叱咤しつつ恐る恐るその黒に触れてみると、初めは小さな点だったそれが侵食するように徐々に広がっていった。その様子に息を呑んだ瞬間、俺の中の何かがまたカチリという音を立てた。
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