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第一章

十八話 筋肉

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 帰宅してすぐ、俺たちは風呂場に向かった。
 それというのもコンビニから家までの間に天気が急変し、突然の暴風雨に見舞われたからである。お陰で外に出ていたのが駐車場から家の玄関までという数メートルの距離だけだったにも関わらず、一瞬にして二人揃って濡れ鼠となってしまったのだ。
 
 夏とはいえ雨に濡れれば寒い。特に昨日からの雨のせいで気温もぐっと下がっている。たった数分とはいえ、冷たい雨に晒されたまだまだ栄養不足な俺の薄い身体は奪われた熱を取り戻そうとしているのか、先程からカタカタと小刻みに震えていた。
 こんなことなら、たとえ駐車場から家の玄関という短い距離であったとしても、変に意地を張らずに律樹さんに抱えてもらえばよかった。そうすれば二人揃って濡れ鼠になることも、今こうして寒さに震えることもなかったのに。

 寒くて足が動かない。玄関の土間部分から震えて動けなくなってしまった俺を見兼ね、律樹さんが俺を抱えて脱衣所まで走ってくれた。脱衣所で下ろしてもらい、お互い絞れるくらいに濡れてしまった服を急いで脱いでいく。

(ううっ……脱げ、ない……っ)

 手や身体の震えのせいもあるが、そもそも服が濡れているためどうも脱ぎにくい。薄着だからまだマシだが、それでも濡れて肌に張り付いた服は上手く脱げてくれなかった。その間にも濡れた服は俺のなけなしの体温を奪っていく。俺はどうしようもなくて、あまりの情けなさに涙が出そうだった。

「今、脱がしてあげるからね」
 
 そんな俺を助けてくれたのはやはり律樹さんだった。
 俺よりも早く脱ぎ終わっていた彼はそう言って素早く俺から服を剥ぎ取った。

 律樹さんが俺を抱えて風呂場に入る。律樹さんは自分の足の間に俺を座らせると、手早く髪も身体も洗ってくれた。
 本当であれば全身綺麗になったのだからすぐにでも湯船に浸かればいいんだけど、残念ながら足がまともに動かない俺は自力で入ることができなかった。下手に足を滑らせでもして湯船に頭から浸かって終えば、多分俺は溺れて死ぬ。律樹さんもそれを危惧しているのか、ちょっと待ってねと言って手早く自分自身を洗い始めた。

「弓月、おいで」

 洗い終わった律樹さんが俺を呼ぶ。振り返るとそこには手を広げた律樹さんがいて、俺はその手に捕まるように両手を伸ばした。手を引かれ、脇に手が差し込まれる。

「よっ……と」

 律樹さんがぐっと力を入れて立ち上がると同時に全身を浮遊感が襲う。驚いて咄嗟に律樹さんの首に腕を回してしがみつくと、彼はくすくすと笑いながら俺を抱く手に力を込めた。
 そんなこんなでなんとか湯船に入ることができた俺たちは、首の辺りまでお湯に浸かると同時に二人揃って深い溜息を吐き出した。
 
「はあぁぁ……きもちいぃ……」

 気の抜けるような声にこくりと頷いた。
 全身が冷え切っていたのか、いつもと同じ温度のはずのお湯が熱く感じる。冷たかった指先や足先が、まるでお湯の熱に溶けていくかのようにじんじんと痺れている。ついさっきまであった身体の震えはもうない。全身がほわほわとした温かさに包まれ、とても気持ちが良かった。

 正直、夏なのにと思わなくもない。夏は暑いもので、冬は寒いもの。夏の雨は気温を下げてくれると聞いたことがあるけれど、それでもまさかここまでだとは思わなかった。
 
 そういえば俺に付き合ってくれた律樹さんも全身ずぶ濡れになったはずなのに、ずっと震えていた俺とは違って全く震えていなかったななんて思う。何が違うのだろうと身体を見比べて、納得した。
 俺になくて律樹さんにはあるもの、それは筋肉だ。皮と骨しかないのでは?と言いたくなるくらい薄い身体の俺とは違って、彼の身体は程良い筋肉に包まれている。決してゴリゴリの筋肉というわけではないが、それでも均整の取れたバランスの良い体つきだった。……まあ、もしかしたら筋肉以前の話かもしれないんだけど。

「どうしたの?まだ寒い?」

 考え込むような仕草をしていたからか、律樹さんがそう言った。なんでもないと首を横に振ると、彼はそっかと笑った。

 俺たちが二人揃って湯船に浸かる時は大抵同じ方向を見て座る。律樹さんの足の間に俺が背中を向ける形で座るのだ。
 だが今日は違う。珍しく律樹さんと向かい合わせになるような形で座っているのだ。最初は首までお湯に浸かるために凭れ掛かるような形になっていたのだが、ほんの少し温まったあとから膝の上に座らせてもらっている。だから今、俺の目の前には普段見ることのない景色が広がっていた。

 俺のような栄養失調気味で筋肉どころか肉もなくガリガリに痩せ細った貧相な身体とは違い、律樹さんの体はとても綺麗だ。目の前にある胸板には適度に筋肉がついている。服を着ている姿からは想像つかないくらい均整の取れた綺麗な体つきに、見慣れなさからか少しドキドキした。

「弓月?」
「……」
「えっ……なに……?」

 律樹さんの困惑した声が聞こえる。でも俺はそれに何も反応せず、彼の胸に当てた手を、肌を撫でるように滑らせた。その感触はやはり俺のものとは大分違っていた。硬さも柔らかさも張りも、何もかもが全然違う。試しに反対の手で自分の胸に触れてみるが、そこにはいつも通り柔らかさのまるでないほとんど骨と皮だろうというような固い感触しかなかった。

(俺もいつかはこうなれるのかな……?)

 たくさん食べて、たくさん動いて、いっぱい寝て――そんな当たり前の生活を続けていたらいずれはこうななれるだろうか?
 勿論胸板だけじゃない。俺の薄い腹とは違い、彼の腹部は厚みがあり、適度な硬さと柔らかさを兼ね備えていた。いかにも大人の男性という体つきが羨ましい。

 俺は目の前にある律樹さんの腹筋を見つめる。腹部の中心、お腹を二等分するかのように入った縦線が綺麗だ。それがあまりに綺麗で、俺は吸い込まれるようにその縦線に指を滑らせていた。

「えっ……ちょ、弓月?」

 戸惑う声が聞こえる。けれど俺は何も答えない。
 夢中で目の前の胸や腹部を指で優しく撫でていると、突然律樹さんに腕を掴まれた。

「ちょっ……なにしてるのっ!?」

 どこか慌てた様子の律樹さんが俺の腕を取り、若干声を荒げながらそう言った。俺はといえば、突然大声を出されたことに驚いて目をぱちぱちと瞬かせて固まっていた。

「あ、ごめ……じゃなくて!」

 どうしたのだろうと首を傾げる。
 律樹さんの顔が赤い気がするが、もしかしてのぼせてしまったのだろうか?
 律樹さんは一瞬ぐっと息を詰まらせたあと、ふうと溜息をついた。

「あのね、急に触られたらびっくりするから。……ほら、弓月もびっくりするでしょ?」
「……っ……?」

 そう言って俺の腹部に指先を滑らせる。瞬間、ぞくぞくとした感覚が背筋を這い、身体がびくんっと跳ねた。

「……?」
「…………え?」

 予想外の反応に、俺も律樹さんも固まる。
 心臓がドッドッと音を立てて煩いし、どうしてか顔が熱い。何が起こったのかわからなくて呆然と律樹さんを見つめていると、彼が慌てたように俺から視線を逸らした。

「ちょ、ちょっと今、待って!」
「……!」

 律樹さんが慌てた様子で、大きな声を出しながら俺の両肩を掴んでぐっと押した。急に拒絶をされたような反応に、ぶるりと身体が震える。それは彼にも伝わったようで、焦ったように「違う!」と言った。

「今のは弓月が嫌になったとか、そういうのじゃないから!あと、怒ってもないからね!」
「……」
 
 律樹さんが怒っていないことくらいわかる。
 病院での入院中、兄が俺の前に現れて無理矢理コマンド使ったあの日、俺は多分律樹さんが本気で怒っているところを見た。あの時のビリビリとした感覚は未だに忘れられない。恐怖とかそういうのではなく、なんて言えばいいのかわからないけれど、兎に角あの時と今では律樹さんの雰囲気も感覚も何もかもが違うのだけは俺でもわかった。
 それに、さっきコンビニの駐車場に停めて車内で話し合ったお陰で、ほんの少しだけど彼に対する理解は深まったと思う。一瞬拒絶されたと思いはしたが、律樹さんの表情を見ればそうじゃないことくらいすぐにわかった。
 
 けれどそんな俺とは反対に、律樹さんの方は俺の意図を汲みかねているようだった。俺は声が出ない、つまり話せないのだ。紙やペン、それにスマホなどの端末がなければ意思の疎通が殆ど出来ないのに、今この場にそれら全てが存在していないのだからそれも仕方のないことなのかもしれない。

 肩を掴んでいた手から力が抜け、離れていく。それが少し寂しいと感じ、追いかけるように身体を僅かに動かしたその時だった。

「……?」
「あっ……!」

 股間に違和感を感じたと同時に、律樹さんから引き攣ったような声が上がる。違和感の正体を確認するために視線を下へとずらそうとした時、再び腕を掴まれて勢いよく引かれた。
 足が滑り、俺の身体は律樹さんの胸に飛び込むような形のまま止まる。咄嗟に律樹さんが支えてくれたお陰で俺の身体はどこにもぶつけることなく、すっぽりと彼の腕に収まった。

「……動かないで」
「……っ」

 耳に掛かる熱を持った吐息。
 頭を抑えられ、身動きが取れない。

 さっきまで股間にあった違和感は消えていた。その代わり今度は腹部に何かが当たっているような違和感がある。
 しっかりとした胸板にぴったりとくっついた俺の耳が、彼の忙しない鼓動の音を捉えた。ドッドッと跳ねるような速い鼓動は彼が緊張していることを伝えてくる。

「少しだけ、待って」

 律樹さんがゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 その度に耳に吐息が当たって、ぞくぞくとした。

 どのくらいそうしていただろうか、ゆっくりと律樹さんの腕から力が緩んでいく。

「下は、見ないで」

 どうして?と思いながらも素直に頷いて顔を上げると、窓から注ぐ光にきらりと煌めく琥珀と視線がかち合った。きらきらと光る透き通った琥珀色の瞳に胸が高鳴る。あっ、と思った時には既に俺の下腹部は熱を持ち始めていた。

「……っ!」
「…………え?」

 俺の身体がぶるりと僅かに震えた瞬間、律樹さんが視線を下に落とした。そして気の抜けたような声を溢したと同時に、俺は両手で顔を覆った。

 
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