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神の領域 2
しおりを挟む「勇者は、必ず立ち上がる!
俺が、勇者を守る!」
アンセルはそう叫ぶと、剣の柄を握った。
共に戦い続けた友を感じ、自らは戦えるのだと信じたい。剣の感触から積み重ねてきた日々を思い起こした。
ユリウスはアンセルを見つめた。
「立派な言葉だが、キサマの手は惨めに震えているぞ。
そのように震えた手では、剣を握るどころか鞘から抜くことすら出来ぬぞ」
と、ユリウスは低い声で言った。
アンセルはゆっくりと自らの手を見た。その言葉が真実だと思いたくなかった。
勇猛果敢にユリウスに挑んでいると思いたかったが、アンセルの右手はガタガタと震えていた。
手だけでなく、立っていられるのが不思議なほどに足もガタガタと震えていた。体は正直だった。
ユリウスの恐怖がしっかりと体に刻み込まれていた。
目の前の巨大な絶望に立ち向かうことに怯え、すっかり恐れをなしていた。
ユリウスは、アンセルの目前に槍の穂先を突き立てた。
槍の穂先は鋭利に輝き、その覚悟を問うた。
アンセルが目を伏せ、その覚悟が偽りであると判断されれば、頭を掴まれて刺突され瞳を抉り取られてしまうだろう。
こうも簡単に、ユリウスに全てを握られてしまうとは。
槍を向けるユリウスは無表情であり、それがなんとも不気味だった。
まだ何も始まっていないというのに、もう既に勝敗が決したようにも見えた。
アンセルは素直に己の無力さを認めるだろう。圧倒的な力の前に跪き、謝罪し、その体を差し出すだろう。
余計な苦しみを味わう前に、プライドは捨てて、絶望に逆らわない道を選ぶだろう。
その方が賢明である。
いつの日か、この体がのみこまれることは決まっている。
今、抗ったとして、一体何になる?
今、抗えば、また苦しむ日が来るだけだ。
それならば、いっそ…楽になってしまった方がいい。
その男を前にすると、全ての希望は砕かれ、絶望に染まる。
そう思わせる空気が漂った。
少し前のアンセルなら、その道を選んだことだろう。
しかし、アンセルは最後まで抗い続ける道を選んだ。
今を、全力で生き続ける道を選んだ。
戦い抜いて、己の覚悟を、目の前の男に見せつける道を選んだのだった。恐怖に負けずに、己が信じる正しい道を選んだのだった。
アンセルは瞳を逸らすことなく、輝く槍の穂先を睨みつけ、雄叫びを上げた。
この広場を飲み込もうとしていた闇の空気を引き裂くように腹の底から声を出した。
そして体の震えを止めて、勢いよく剣を鞘から抜いた。
自らに覆い被さっていた恐怖を切り裂くように、その剣身が煌めいた。
槍と剣が交わる金属音が響いた。
その音は騎士の心にも微かに響き、腰に下げた剣と短剣の重みを気付かせた。
アンセルの瞳には強い力が宿っていて、ユリウスもその表情の変化を感じ取った。
「この光景は、前回と…全く同じだ。
私の前に立ちはだかるドラゴン、そして立ち上がろうともしない勇者。
選ばれたる勇者ですら、何度も何度も同じ事を繰り返すだけの愚かな人間にすぎぬのか。
それをまた私に証明する為だけに、ここに来たとはな…。
なんと…愚かな者よな…。
人間とは実に救い難い…やはり辿り着く先は決まっている」
と、ユリウスは言った。
ユリウスは、それが真実であるかのように、槍の穂先を今度は苦悶の表情を浮かべている騎士に向けた。
「アンセル、見てみるがよい。
キサマが守ろうとしている者の蒼白な顔を。
光が消え失せた瞳を。
何を為そうとしてここまでやって来たのか…それすらも忘れている。
真実に耐えきれぬようでは、これから先立ちはだかる困難を乗り越えることは出来ない。
人間の闇の深さは、この程度ではない。
ならば思い違いをしている愚か者を、このダンジョンで殺してやる方が慈悲だとは思わぬか?
己が勇者であるという幻想を抱いたまま、幸せに朽ち果てるがいい」
と、ユリウスは言った。
アンセルは勇者が立ち上がることを切に願いながら彼等を見た。ユリウスの槍が振り下ろされる前に、なんとしても彼等を立ち上がらせなければならなかった。
彼等の顔は蒼白だが、アンセルはまだ希望を捨ててはいなかった。水晶玉で見てきた彼等の言動から、彼等を立ち上がらせることができる言葉を探し出した。
「勇者は、愚か者ではない」
と、アンセルは言った。
「ほぅ…愚か者でなければ、これは一体どういうことなのだ?
何故立ち上がらぬ?臆病者だからか?」
ユリウスは呆れ果てたように言った。
「戦わぬ者を守らねばならないとは、キサマも悲しい男だな。
友と望み、それを一瞬にして見失ったか」
と、ユリウスは言った。
「いや、勇者は必ず立ち上がる。
必ず自らの望みを思い出し、為さねばならない事を為し遂げる為に、勇者の武器を掲げる。
俺は、彼等の中に希望を見たんだ。
愚か者でも臆病者でもなく、勇者であると!
槍の勇者は今も戦っている!
左目の色が茶色い限り、槍の勇者は鉄格子の中で戦い続けている。
俺が、そうだったように!
俺も、大切な者に支えられて、脱出できた。
必ず、槍の勇者を連れ戻す!」
と、アンセルは大きな声で言った。
その叫び声が、アーロンとエマの耳にようやく入った。
人間の罪深さを知り友も失ってしまったと打ちひしがれていた心に光が射した。
望みはまだ潰えていないと勇気づけられた。
フィオンはまだ死んではいない。のみこまれただけで、死んではいないのだ。
消え去ってしまったと思った友は、今も生きて戦っているのだ。
それなのに、自らは何をしている?
数多の戦場を駆け抜け、苦難を乗り越えてきた日々は一体何だったのだろうか?
どのような真実が待ち受けていようとも、恐れることなく戦い続けるのではなかったのか?
友は戦っているのに、どうして立ちあがろうとしないのか?
「お前と共に戦い抜くと約束しよう」
そう約束した友を見捨てて戦わずして膝を屈するとは、騎士として恥ずべき行為である。
誓いを交わした友に対する裏切りでもあり、騎士の風上にも置けない奴だ。
その不名誉こそ、騎士は恐れなければならない。
今こそ素早く立ち上がり、名誉を守る為に、揺るがぬ勇気を持って、絶望に挑まねばならない。
変えられぬ真実に打ちひしがれるよりも、もう二度と繰り返さないように猛省し、国民を導き歩み続けることが、勇者であり英雄となる者の責務ではないのだろうか?
そう己に誓い、勇者という称号を背負ったのではなかったのか?
ならば、今こそ、友と共に、戦い抜かねばならない。
この瞬間こそ、卓絶した勇気をみせねばならない。
己が勇者として選ばれた理由を示さねばならない。
誇り高い顔を上げ、雄々しい声を上げて、煌めく勇者の武器を掲げて挑まねばならない。
心身共に鍛え上げられた騎士本来の戦意がふつふつと沸き起こってきた。望みを抱く勇者を、もう一度奮い立たせるには、その言葉は十分だった。
「戦わなければならない相手を前にして、恐れをなして退くことなかれ」という戒律を思い出した。
騎士の隊長が戒律を破り、臆病者と罵られるぐらいならば、戦い抜いて討ち死にをした方がましである。
アーロンとエマの覚悟が決まると、弱りきっていた体が動き、力強い足で立ち上がった。
その姿は先程まで絶望した顔で膝をついていたとは思えないほどに、真っ直ぐで堂々としていた。
自らが「何者である」のかを、ようやく思い出した。
そして「勇者として為さねばならないこと」が、はっきりと分かったようだった。
勇者となりえるかもしれない騎士が、ここにいた。
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