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月夜 名乗らぬ女 4
しおりを挟む「待ってたのか…俺が来るのを」
紅天狗がそう言うと、女はコクリと頷いた。
女は男の視線を感じると、自らの言葉の意味を今になって理解したのか、袖で顔を隠した。
紅天狗はそんな女を黙ったまま見つめていた。風が静かに袖を揺らし、陶器のような白い肌が見え隠れした。
ただ静かに時が流れ、空にはいつの間にか月が見えるようになった。
「困ったな…。
だから…近づかぬようにしていたのに…」
と、紅天狗が小さな声で呟いた。女が袖を下ろし顔を出すと、紅天狗は頬についた血を袖で拭った。
「見ろ。月が輝き出したぞ」
紅天狗がそう言うと、女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、輝く月の光が映った。
「本当に…美しい月でございます。
月の光は穏やかで…優しい。
また…こうして…ここで…月を見とうございます」
「この山は、異界と繋がっている。
結界門の僅かな隙間をすり抜けた呪詛が、夜になれば色濃くなる。あの時にはいった亀裂だ。俺には、なおせん。
漂うニオイが濃くなれば、呪詛もまた強力となる。
俺が側にいなければ、お前はすぐに捕らえられる。あの夜のようにな。
だから、部屋の窓から月を見ろ。窓から見える月も、十分に美しい」
紅天狗は空に輝く月を見上げながら言った。
「部屋ならば…安全ということですか?」
「そうだ。生い茂る木々の葉が、そこにいる者を妖怪の目から隠し、建物自体にも俺の力が働いている。
部屋の窓からでも、月が見れる。はめ殺しの窓だ。奴等には決して開けることが出来ん。
そこから月を眺めておけ。
さぁ、部屋に戻れ」
紅天狗がそう言うと、女の口が微かに動いた。女は慌てて口元をしなやかな手で隠したが、男は見逃さなかった。
「なんだ?
気持ちを汲んでくれとか、そんな面倒くさいことは俺には出来んぞ」
「あの…では…紅天狗様も…ご一緒に…」
「俺と?」
紅天狗はびっくりして、女を見つめた。
「その…部屋の窓から1人で見るのではなく…今宵のように…こうして…紅天狗様と…月が見たいのでございます」
女が真っ赤な顔をしながら小さな小さな声で言うと、男は笑い声を上げた。
「血にまみれた俺が怖いと震えていながら、俺と共に月を見たいということか?」
紅天狗がそう言うと、女の顔はさらに真っ赤になった。
「人間の女が天狗を誘うとはな…これは面白い。ならば付き合ってやろう。毎夜は出来ぬが、異界に行かぬ時ならいいだろう。だが、ここで俺を待つな。
俺がお前を迎えに行く。20時までに俺が姿を見せなければ、もう寝てろ。
それに…そう緊張するな。もっと楽にしてろ。
いいな?」
紅天狗がそう言うと、真っ赤な顔をしたまま女はコクリと頷いた。それから言葉を交わすことはなかったが、女が夜風で体を震わせるまで共に月を眺めていたのだった。
その言葉通り、紅天狗は異界に行かない夜は、女が待つ部屋に度々迎えに行くようになった。迎えに行くとはいっても襖の向こうから声をかけて女を待ち、部屋の中までは入ろうとはしなかった。
男は女の歩幅に合わせながら月を見る為に軒下へと向かい、共に月を見ながら語り合い、笛の音に耳を傾けるのであった。
そんなある夜のことであった。軒下で、共に半月を見ていた女が口を開いた。
「紅天狗様、今宵の半月も…本当に綺麗です。
ただ…半月を見ていると…いろんな事を考えてしまいます。見えなくなった半分の月を思うと…悲しい気持ちにもなるのです」
「何を考えるんだ?」
と、紅天狗は言った。
「ここから見ることができない月は、今、何を思っているのだろう…何を見ているのだろうか…と。
新月ともなれば、もうその目にも映ることはない。もうわたくしを見ようともなさらずに…手の届かないところにいってしまったのだろうと…怖くなります。
その光が…いつか…わたくしに向けられなくなると思うと悲しくて堪らない。
そんな風に考えてしまうほどに…この場所から見る月は…あまりにも綺麗なのです」
女の瞳には銀色に輝く半月が映り、紅天狗は黙ったまま女の横顔を見つめていた。月の光に照らされながら物憂げな表情を浮かべる女もまた美しかった。
女は恥ずかしそうに笑うと、紅天狗の方を向いて微笑んだ。
「あぁ…たしかに…綺麗だな」
紅天狗もまた女を見つめながら言った。
「紅天狗様?」
「いや…何でもない。
今宵も…綺麗な月だな」
紅天狗は言葉を濁すと、女の手元にある笛を指差した。
「笛を吹いてくれないか?
今宵はまだ…お前が奏でる笛を聞いていない。
月の形は変えることは出来ぬが、空にあり続け、お前のことを見続けている。夜を重ねれば、また満月になるだろう。
そう…次の満月の夜も…こうして…お前の笛を聞きながら共に眺められるように」
紅天狗がそう言うと、女は微笑みを浮かべた。
女は笛を口元に寄せ、目を閉じると、笛を吹き始めた。今宵の笛の音は、全てを包み込む優しい風のようだった。荒々しい男をも優しく包み込むと、男は心地よい気持ちになり、目を閉じて笛の音が止まるまで耳を傾け続けた。
「あぁ…いい音色だ。その笛をとても大事にしているようだが、誰かの贈り物か?」
紅天狗がそう言うと、女は優しく笛を撫でた。
「ありがとうございます。
この笛は貰ったものではなく…外を歩いていた時に井戸の側で偶然見つけました。何日も放置されていたことと、その井戸は、わたくししか使いませんので…持ち帰ることにしました。
笛など吹いたこともなかったのに、笛の名手のように美しい音色を奏でることが出来ました。
本当に嬉しくて…いつも笛を吹くようになりました。
そうしているうちに…いつも一緒にいてくれる…わたくしの友達のような存在となりました。
それに嬉しいことに、友達が、あらたな友達を連れてきてくれました。笛の音が、沢山の鴉達を連れてきてくれたのです。鴉達はとても嬉しそうに笛を聞いてくれるので、わたくしも嬉しくなります」
女はそう言うと、木々の枝にとまっている鴉達を見渡した。
「鴉でも、かまわんか?」
紅天狗がそう言うと、女はキョトンとした顔をした。
「はい。もちろんです。
それに時折、わたくしの笛の音に合わせるように踊ったり声を出したりもしてくれます」
女が嬉しそうに答えると、紅天狗はその笑顔をしばらく見つめてから美しい布をそっと手渡した。
女が布を受け取ると、何か固いものが包まれているような感触がした。布を広げると、女は驚いた目で男を見つめた。布の中には、赤い花の美しい髪飾りが入っていたのだった。
「まぁ、きれい。
これを…わたくしに?」
「そうだ。お前にだ。
あの夜、お前がつけていた髪飾りを壊してしまったからな。
つけてみろ」
と、紅天狗は言った。
壊れた豪華な髪飾りとは違い、一輪の花であったが、椿を思わせる上品さがあった。女は流れるような美しい髪を束ねて刺すと、心から嬉しそうに笑ったのだった。
「紅天狗様、ありがとうございます」
その女の表情を見た男は思わず手を伸ばしそうになったが、ぐっと堪えると女の髪を飾る赤い花に優しく触れた。
「思った通りだ。お前に、似合うよ。
綺麗だ。
新しい着物と帯も用意した。それを着ている姿も…俺に見せてくれないか?」
男は女をまっすぐに見ながらそう言った。
女はその言葉を聞くと、その髪飾りのように頬を赤らめながらコクリと頷いたのだった。
それから紅天狗は月が昇る前にも姿を見せるようになり、2人で過ごす時間はますます増えていった。軒下で女が笛を吹いている時に現れて隣に座ると、そのまま月が昇っていくのを2人で眺めることもあった。
女は男に笑顔を見せ、男もまたぎこちない微笑みを浮かべるようになった。
やがて女の目に映る男が「天狗」ではなくなると、女は声を上げて笑うようになった。
男もまた口には出さずとも、そんな女の嬉しそうな顔を見るのが楽しみになっていた。女の笑顔と笛の音が、男に穏やかさをもたらしていき、妖怪を斬り殺すだけの荒々しい日々を送ってきた男の心に変化をもたらしていくのだった。
ある日、女は笛を吹き終わると膝の上に笛を吹いて、風に吹かれている男の横顔を見つめた。男は女の方を向くと、自分が選んだ着物と簪をつけている女を見て嬉しそうに微笑んだ。
「綺麗だ。よく似合っている」
紅天狗がそう言うと、簪の藤の花がサラサラと揺れ動いた。
共に時を過ごし、軒下に座って微笑み合う男女の姿を、夜空に浮かぶ月は優しく照らし続けたのだった。
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