天狗の盃

大林 朔也

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鎌鼬 1

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 目を開けると、雪がしんしんと降っていた。吐く息は真っ白で、指先から凍えてしまいそうだった。

 僕は洞穴の入り口のようなところで横になっていた。視線の先に広がる世界は背の高い木がまばらに立っていて、枝には雪が積もっていた。地面には雪の山がいくつかできていて、僕の背丈よりも大きかった。
 走り回る動物と飛んでいる鳥の姿もなく、生きているものの気配は感じない。木の枝から落ちてくる雪の音が聞こえるほどに、静かだった。
 目の前に広がる世界はただただ静かで美しく、一点の汚れもない白い世界に思えた。

「ここが、鎌鼬の領域だ。
 どうだ?立てるか?」
 紅天狗の声が聞こえてきたので、横に向けていた顔を声のする方へと向けた。紅天狗は大きな石の上に座りながら、降り続く雪を見つめていた。

「大丈夫、ありがとう」
 僕はそう言うと、ゆっくりと起き上がった。立った瞬間フラッとしたが、動かないと凍え死んでしまいそうだった。

「そうか、良かった。
 なら、こっから出るか」
 と、紅天狗は言った。
 
 外の世界は、安全な洞穴とは違った。
 領域に住まぬ侵入者を出迎える冷たい風が勢いよく吹き出した。風はビュービューと音を立て、その冷たさで耳が痛くなり、あまりの寒さに体がブルブルと震えた。少しでも温かくなるようにと思い、体を両腕で抱き締めて背中を丸めて歩き出した。
 踏みしめる雪の感触は柔らかく、時折、ズボッという音を上げて足が地面に入っていった。

 紅天狗は雪がどれほど降ろうとも、その歩みが変わることはない。
 徐々に風が静かになり男の翼を雪がまばらに白く染める頃、紅天狗は僕を振り返った。赤い髪は少し濡れて、キラキラと光っていた。

「いいぞ、昌景。ここも、いけそうだな。
 ところで、今回の目標は決めたのか?」
 と、紅天狗は言った。

 慣れない寒さで歯がカチカチと鳴り、口が上手く動かない僕は首を横に振った。黒天狗のことで頭がいっぱいになっていたので、何も考えてはいなかった。

「そうか。
 なら、鵺の領域ではどうしたんだ?」
 紅天狗はそう言うと、口を小さく動かしながら僕の頭をクシャクシャと撫でた。すると頭の先から体がどんどん温かくなってきて寒さを感じなくなり、体の震えもおさまっていった。

「あれ…どうしたんだろう…」
 僕が呟くように言うと、紅天狗はニヤリと笑った。

「で、どうなんだ?」

「えっと…自分の足で歩いて帰ることだった。
 行くだけでなく、歩いてお堂に帰ることが出来たのなら…自分に自信を持てるような気がして。上手く言葉には出来ないけれど」
 僕がそう言うと、紅天狗は嬉しそうに頷いた。
 
「あぁ、そうだな。帰ることに意味がある。終わらせることにな。
 よくやったよ、昌景は。
 なら今回の目標は、俺が決めてやろう。
 この先にな、青い花が咲き乱れている場所がある。真ん中だけがぽっかり空いてるから、そこで会おう。
 真っ直ぐ歩け。道を逸れんなよ。
 逸れなければ、辿り着く。足が勝手に動いてくれる」
 紅天狗はそう言うと、僕を励ますように肩をポンっと軽く叩いた。
 
「それだと、いつもと変わらないよ」

「そうだな。
 しかし今回は、それでいいんだよ。
 茶褐色の獣の姿が見えたら、それが鎌鼬だ。両腕は鎌だから、すぐに分かるだろう。
 鎌鼬は攻撃的な性格で血を好む。鎌を乱暴に振り回し、昌景の体に切りかかってくるかもしれん。
 切られんなよ、昌景。
 お前の正体がばれるかもしれんぞ。
 鎌鼬に何か言われても、答えに困れば黙っておけ。この領域では、沈黙が味方になってくれる。奴等はおしゃべりだ。黙っていれば自分のイイヨウにベラベラ喋ってくれるぞ。
 嬉しそうに、醜い面でな」
 と、紅天狗は言った。

 そうしている間にも雪は絶え間なく降ってきて、紅天狗のがっしりとした肩にも積もっていった。
 両腕が鎌をした生き物だなんて想像すらもしたくなかった。僕が黙りこくっていると、紅天狗は肩の雪を払いのけてから思い出したかのように口を開いた。

「そうそう…鎌鼬には同族殺しは許されない。
 歪んだ思想を持ち、女神の怒りに触れたのだ。
 禁を犯せば、罰を受けねばならない」
 紅天狗はそう言うと、真っ直ぐな瞳で僕を見つめた。

 その瞳は何か言いたげだったが、僕が何も言わないでいると肩に積もった雪を手で払いのけてくれた。雪はハラハラと散っていき、男の手が僕の肩に置かれた。 

「鎌鼬は、俺がまだ出来ぬ話を昌景にするだろう。
 その答えは、ヤツに言わなくていい。
 俺に、聞かせてくれ」

「え?どういうこと?」

「そうだ。
 刈谷昌景の答えだ」
 紅天狗はそう言うと、急に息を荒げて胸に手をあてた。
 逞しい首筋には透明な汗が滲み、襟の隙間から紫色の光が明滅しているのが見えた。何かを呟いてから深く息を吸い込んで胸から手を離すと、汗は蒸発するように消えていった。
 紅天狗は呼吸を落ち着かせると、太陽が遠く見える灰色の空を見上げた。

「歩いて帰ろう、昌景」
 紅天狗はそう言うと、翼を広げた。
 翼に降り積もっていた白い雪は落ちていき、真っ白な雪の世界では紅天狗の翼の色が、より一層黒に近く見えたのだった。





 紅天狗が空高く飛び立っていくと、僕は不安を抱えながらも歩き始めた。

 すぐに風が出てきて、その勢いを増した。
 ヒューヒューと音を上げながら吹き、僕の顔に雪が吹き付けてきた。また背中を丸めるようにして進んだが、風がおさまってきた頃に地面に伸びる2つの青い影を見た。
 顔を上げると、影は2つの雪の山だった。
 山と山の間には人1人が歩けるぐらいの細い隙間があり、その道の地面は黒く、足を踏み入れたら奈落の底に落ちていくような嫌な感じがした。
 僕は少し怖くなり、しゃがみ込んでから手を伸ばし、地面の感触を確かめた。もちろん奈落の底ではなかったが、伸ばした手には血を凍らせるような冷気を感じた。
 雪の山をよけて遠回りをすることも出来たのだが、紅天狗の「真っ直ぐ歩け」という言葉が頭の中で響いていた。
 立ち上がり足を踏み出すと、もう寒さは感じないはずなのに体がブルブルと震えた。背中には嫌な汗が流れ、誰もいないはずなのに低い呻き声を聞いたような気がした。
 上を見上げ後ろも振り返ったが、誰もいなかった。
 奇妙に思ったが、雪の山に手をつきながら細い隙間の道をなんとか通り抜けると、今度は前方に恐ろしい旋風が発生しているのが見えた。
 旋風は轟々と音を上げ、前方にいくつか見える小さな雪の山を滅茶苦茶にしながら迫ってきた。

 鴉のお面が、痛いくらいに締まった。
 鵺の時のように、あの旋風は鎌鼬によるものなのかもしれない。短刀の柄に手を伸ばして身を守ろうとしたが、手がかじかんでいて上手く動かなかった。
 その間に、旋風は目の前まで迫ってきた。
 急いで逃げようとしたが雪に足を取られ、次の瞬間には風に巻かれて空高く巻い上がっていた。空中でグルグルと回ってから通り抜けた小さな雪の山に乱暴に叩きつけられると、そのままコロコロと転がっていった。薄れゆく意識の中で、ギラギラと光る2つの灯りを見たのだった。



 嫌な夢を見ていた。
 真っ白な雪の上を歩いていたはずなのに、後ろを振り返ると僕が歩んだ地面は茶色に色を変えてドロドロになり、前を歩く僕に背後から迫ってきた。
 雪に足を取られたように、今度は茶色の泥水に足を取られた。
「やめろ!はなせ!」と大きな声で叫んだが、それはだだっ広い空間の中で虚しくこだましていった。
 泥はどんどん僕の体をよじのぼりだすと、短刀を握ろうとした右腕にからみつき「逃げられると思うなよ」と身の毛のよだつような恐ろしく冷たい声で囁いたのだった。
 
 ハッとして目を開けると、寂しい灰色の空と木の枝が見えた。背中からは雪の感触がして、胸や太腿にも雪が少し積もっていた。
 僕は起き上がろうとしたが、両手と両足は茶色の紐のようなもので縛られていて動くことが出来なかった。なんとか紐を切ろうとして体をくねらせていると木の枝から雪が降ってきて、僕の顔にポトリと落ちた。
 あまりの冷たさに声を上げ、顔を左右に振って払い落としていると、聞き慣れない足音が聞こえてきた。

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