天狗の盃

大林 朔也

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鵺 2

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 僕は口をポカンと開けて、自分の耳を疑った。紅天狗から発せられた言葉とは到底思えなかった。
 僕が何も言わずにいると、手の中にある鈴がずしりと重たくなった。その存在を、僕の心に強く焼き付けようとするかのようだった。

「そんな事をしたら…百鬼夜行が起こってしまう。
 盃を取り戻さないといけないのに」

「あぁ。
 盃を取り戻さなければ、百鬼夜行は起こる。
 だが、これは贈り物だ。
 受け取れ」
 紅天狗の銀色の瞳はじっと僕に注がれた。覚悟と勇気を問いかけているかのようだった。

「鈴を振るのならば、鈴を持ったまま山を降りろ。
 俺に伝える必要はない。何処にいても、俺にはその鈴の音が聞こえる。
 この鈴を鳴らせば昌景に寄ってくる妖怪は祓われ、災厄からも守られる。
 刈谷昌景は、妖怪に食われることはない。
 その御力は、俺を遥かに超える。
 俺が巻き起こす扇の力も及ばない。
 妖怪の恐怖を味わうことはない」
 と、紅天狗は言った。
 僕は何も言わずに紅天狗の手を掴むと、今や鉛のように重たくなった鈴を返した。この時、僕は言葉が出なかった。
 紅天狗は不思議な瞳で僕を見た。
 その大きな手で僕の頭をクシャクシャと撫で回してから鈴を木箱にしまい蓋をすると、木箱を両手で恭しく持ちながら床の間へと向かった。
 紅天狗は正座をすると、黙ったまま掛け軸を見つめた。
 すると絵の中の逞しい右腕が動き出した。驚くことに本紙の外から沢山の鴉が舞い降りてきて男を包み込むと、墨で描かれた掛け軸は黒い霧のようになった。

 紅天狗は美しい布を広げてから木箱を静かに置くと、深々と頭を下げた。外で鳴いていた鴉の声がしなくなると、何一つ聞こえるものもなくなり静まり返った。
 部屋に射し込んでいた光も薄くなり紅天狗も全く動かなくなると、時が止まっているかのように感じた。

 僕も黙ったまま、紅天狗の広くて逞しい背中を見つめていた。

 紅天狗はゆっくりと顔を上げると、桔梗と松の枝葉が飾られている花瓶に目をやった。その表情は遠い日々に思いを馳せているかのようだった。男は逞しい腕を伸ばして桔梗に優しく触れてから静かに立ち上がると、襖の方へと歩いて行った。

「飯にするか。 
 昌景、さっきの所で座って待ってろ。
 カラスには用を頼んでいるから、今日は俺が作るわ。
 飯を食べたら、準備をして出発だ」
 紅天狗はそう言うと、襖を開けた。
 体についたニオイは落とさずに異界に行くのだろう。つまり、今日は、そういうことなのだろう。
 
 返事をして鴉のお面を取りに行っている間に、紅天狗は姿を消していた。僕は襖をそっと閉めながら、床の間をチラリと見た。
 すると松の枝葉が桔梗を守るように掛け軸に向かって一歩踏み出した。何者にも折れるはずのない松の枝葉が、鈴を前にして深く垂れ下がっていった。
 それは、まるで頭を垂れているようだった。


 僕は軒下に腰を下ろすと、元気のない紅葉と青い空を眺めながら待っていた。時折ひんやりとした風が吹いたが、鴉達が水たまりの周りで遊んでいるおかげなのか、黒い穴は一つもなかった。
 しばらくすると紅天狗は沢山の食材で作られた食事を持って戻ってきた。色鮮やかな野菜に美味しそうなお肉、味噌のいい香りがする汁物に温かい御飯だった。短時間で作られたとは到底思えない食事だった。紅天狗は本当に何でも出来るのだろう。僕が驚いていると「ほら、食えよ」といって箸を渡してくれた。どれも本当に美味しくて、掃き掃除をしてお腹が空いている僕は黙々と食べ続けた。

「昨日は、ゆっくりできたか?」
 紅天狗は僕が食べ終わると口を開いた。

「うん。ゆっくりできたよ。ありがとう。
 それに、昨日から運動を始めたんだよ。
 良い天気だったし、体を動かしたら心も体も軽くなったような気がしたよ」

「そうか。良かった。
 何かを、始めたか」
 紅天狗はそう言うと、空っぽの僕の湯呑みにとくとくと温かいお茶を注いでくれた。茶柱がたち、いい香りが漂った。一口飲むと、そのかりがね茶の味は過去を思い起こさせた。

「ありがとう。このお茶、やっぱり美味しいね。
 そうだ…以前も…茶柱が立ったんだ。あの日はいい事なんてなかったと思ったけど、分かるようになった事がいい事だったのかもしれない。
 たしか…あの時は…彼女がいれてくれたんだった。
 そうだ…昨日、彼女といろいろ話をしたんだ。
 紅天狗が言ってたように、いい子だったよ。
 もっと仲良くなれたらいいなと思う」
 僕がそう言うと、紅天狗は目を細めて頷いた。
 風が吹いて水たまりの水が小波のように揺れ動くと、遊んでいた一羽の鴉が顔を上げて僕を見た。
 鴉の違いなど分からないが、昨日僕に紅葉をくれた鴉のように思えた。
 紅天狗に彼女の名前の話をするのは今だと思った。
 異界から戻ってきた時、僕がどのようになっているのか僕自身にも分からないのだから。

「そうだ…あの…彼女の名前についても話をしたんだ。
 楓は、どうかな?
 彼女は気に入ってくれたみたいだけど」
 僕がそう言うと、自身の湯呑みにお茶を注いでいた紅天狗の手の動きが止まった。

「楓か。
 いい名だな」
 紅天狗はそう言うと、お茶を半分しか注いでいないのに急須を置いた。コトンという音と共に、一枚の美しい紅葉がひらひらと散っていった。鴉達も顔を上げ、舞い散る美しい紅葉を見たが動き出そうとはしなかった。
 美しい紅葉は、地面に舞い落ちることはなかった。
 山の奥深くから冷たい風が吹き、見えざる手に掴み取られたかのように連れ去られていった。


「で、なんで楓にしたんだ?」
 紅天狗はそう言ったが、その目は僕を見ることはなく美しい紅葉の行方を追っていた。

「たまたま手に持っていた赤い紅葉が輝きを放って、自らの名前を告げてくれたんだ。
 その美しい赤の名前を彼女に…と考えたんだ」
 僕がそう言うと、紅天狗は横目でジロリと僕を見た。
 その鋭い瞳に見つめられると、包み隠さずに全てを話さなければならないと思った。

「それに…紅天狗は紅葉を大切に思っている。
 彼女も大切な存在だろうから…その…そう思ったのは、彼女を黒龍で守ろうとするぐらいだからさ。
 彼女は大切で特別な存在なんだろうと思った。
 同じ大切なものの名前を彼女に…」
 僕はしどろもどろに言った。
 とても気まり悪く感じて、自分がひどく軽はずみな発言をしたように思えてきた。

「特別な存在…か」
 紅天狗はその言葉を繰り返した。

「カラス…いや、楓は大切だ。
 楓だけでなく、この山の全ての者が俺にとっては大切な存在だ。
 もちろん、昌景もな」
 紅天狗は湯呑みを手に取り、お茶を飲み干した。
 空になった湯呑みを大きな手の上でクルクルと回すと、描かれた名前も分からない花がクルクルと回った。
 勢いはだんだん早くなり、ついに男の手の動きに翻弄されて転がり落ちた。
 
「あっ…」
 僕は思わず声を上げたが、紅天狗は地面スレスレのところで掴んだ。

「この山に楓を連れてきたことが正しかったのか、俺には分からない。
 だが俺は、これから先は守ってやると言ったんだ。
 その言葉は守らねばならない。
 楓が笑ってくれるように…な。
 嫌いなんだよ。頑張れ頑張れというだけの奴は。そういうのは何もせずに相手を苦しめているのと同じだ」
 紅天狗はそう言うと、湯呑みを置いた。
 僕を見ていた鴉が飛び立っていくと、紅天狗は青く澄んだ空を見上げた。

「しかし、特別な存在ではない」
 と、男は言った。
 銀色の瞳には青い色だけが映っていて、他のどの色も男の瞳には映らなかった。

「俺にとって、特別な存在とは、たった一つだけに向ける言葉だ。
 二つあるというのならば、それは、どちらも特別な存在ではない。
 特別な存在とは、俺の全てを捧げる唯一の存在だ」
 男の声には燃えたぎる情熱が宿っていた。
 その炎はあまりにも烈しく、その身を狂おしく焦がし、捧げる者をも燃やしつくしてしまうかもしれない。

「すべ…て…」 
 その瞳を見ていると僕の体も熱くなっていった。

「そうだ。全てだ。
 俺の何もかもを捧げるんだ。
 永遠にな」
 と、紅天狗は言った。

 すると鴉達が鳴き声を上げて、空へと飛び立っていった。いまや鏡のような輝きを放つ水たまりには、逆さ紅葉が映り込んだ。映り込む紅葉をしばらく見ていると、波紋が立ち一枚の紅葉が船のように漂い始めた。紅葉はクシャクシャになって色褪せ、しばらく漂ってから岸へと辿り着いた。

「今日は、紅葉に元気がないんだよ。
 強い風が吹けば、全部散り落ちてしまいそうだ」
 僕は立ち上がって岸に辿り着いた紅葉を拾い上げ、縁側にそっと置いた。

「あぁ。そうだな。
 さっき戻ってきたから笛を吹く時間がなかったからな」
 と、紅天狗は言った。

「笛?」

「そうだ。
 笛の音は風に乗って山の端から端まで駆け抜ける。
 時の流れによって色褪せる葉の色を、俺の思いのとおりに色付かせている。
 自然の色をな、操ってるんだ。
 いつ見ても、美しいように」
 紅天狗はそう言うと、色褪せた紅葉を男の手の上でねかせた。このままでは枯れ果ててしまうだろう。
 紅葉は一瞬びくりと震えたが、男が優しく指で触れ始めると静かに身を委ねた。男の指は濡れて柔らかくなった葉脈をなぞり、徐々におりていくと水音が上がった。
 男は儚げな紅葉を切なげな眼差しで見つめながら「綺麗だ」と囁くように言うと、命を取り戻したかのように美しく色づいていった。

「俺は、神ではない。
 人間にも…こう…出来ればいいのだがな」
 紅天狗は沈んだ顔でそう言うと、目をぱちぱちさせている僕にその紅葉を手渡した。

「今日は、鵺の領域に行くぞ」
 と、紅天狗は言った。

「え?ぬ…え…?」

「そうだ。鵺だ。
 昌景は知らんか?」
 紅天狗がそう言うと、僕はコクリと頷いた。

「猿の顔、鶏の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇だ。
 だが個体によって様々だ。どの獣とセックスしたかで、生まれてくる子の顔や胴体、手足が変わる。
 不思議な声で鳴き、黒煙で姿を隠している。
 弓矢を怖がる得体の知れない妖怪だ」
 と、紅天狗は言った。
 その言葉通りに動物の体を繋ぎ合わせようとしたが、頭に浮かぶのは猿の顔だけだった。猿の顔と鶏の胴体とをかけ合わせることは難しかった。

「弓矢を怖がるっていうのは…どうして?」

「あ?あぁ…そうか。
 まだ人間の世界を闊歩していた頃のな、とある鵺が味わった恐怖だ。弓矢の名手に射抜かれたんだよ。
 矢で射抜かれた痛みは凄まじく、その声は同胞の耳に焼き付き、語り継がれて恐怖だけが残った。
 奴等は記憶がいいからな。
 それを、今も覚えている」
 と、紅天狗は言った。

「記憶がいいなら…恐怖を忘れずに…静かに暮らしていてくれたらいいのにな」
 僕は思わずそう呟いていた。

「記憶がいい。だから、人間の味も忘れない。
 俺が炎の舞を舞えば、弓矢が飛んでくる心配はないからな」
 紅天狗は真っ青になっている僕の顔をチラリと見てから立ち上がった。転がっている木の枝を掴み地面に向かって投げると、弓矢のように突き刺さったのだった。

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