天狗の盃

大林 朔也

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楓 8

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「主人様は雨に濡れていく赤い髪をかき上げると、ワタシの目線に合わせるようにしゃがみ込みました。

『いつまでも、こんな所にいるもんじゃない。
 降り注ぐ雨が奴等によって穢された大地を清め、漂う空気を綺麗にし元通りにしているが、嘆きの涙はそうすぐには乾かん。
 そろそろ出発するか。
 あっ…そうだ…お前、えらくボロボロだな。
 だが、よく頑張った。偉かったな。
 その勇気を讃えて、何か特別な贈り物をしてやろう。
 何がいい?』
 主人様の言葉に、ワタシはただ驚くばかりでした。自由の身となれたのに、何かをいただけるなんて思ってもいませんでしたから。

『まぁ、急に言われても分からんわな。
 俺の山に着くまでに考えておけ。
 さぁ、出発だ』
 主人様はそう仰ると、ワタシに微笑みかけてくれました。

 主人様はワタシに合わせるようにゆっくりと飛んでくださり、紅葉が美しいこの山に着きました。
 このお堂の前でワタシを皆んなに紹介してくださると、皆んなは快く受け入れてくれました。とても嬉しかったです。
 皆んながワタシに優しく話しかけてくれると、主人様はお堂の中に入っていきました。
 ひとしきり皆んなと遊んでからワタシは縁側にとまり、夕焼けが紅葉を照らすのを眺めていました。時は穏やかに流れていき、ワタシは幸せな気持ちになりました。

『綺麗な紅葉だろう。俺の自慢の紅葉だ。
 本当に、美しい。
 で、何がいい?決まったか?』
 主人様はいつの間にか戻って来られていました。ワタシに水と食べ物を用意して下さり、主人様もご自身の食事を用意されていました。

 白い器に注がれた透明な水を覗き込むと、すっかり痩せこけた艶のない黒い鴉が映っていました。
 ワタシは悲しくなって目を逸らしましたが、もう一度恐る恐る覗き込みました。そこにはやはり疲れ果てた黒い鴉が映っていたのですが、ずっと見ていると舞い散る色鮮やかな紅葉も見えました。
 赤と黄と橙色という美しい色を見ていると、ここまで辿り着く間に雨が止んでその後に架かった虹を思い出したのです。
 そしてワタシに勇気をくれた…虹を渡る美しい黒い鴉の姿も思い出しました。
 ワタシは器に映し出された自身の姿をしっかりと見つめました。

『ワタシを…大きくして欲しいです。
 美しい空に、自らの誇りである黒を掲げたいのです』
 ワタシは主人様にそうお願いしました。

 ワタシはコソコソと隠れるように生きてきました。
 いつの間にか言われるがままに自らの黒を恥じ、見つけられたくないと思い、体を小さく小さくしながら生きてきたのです。
 どうしてワタシは、ワタシを愛することを止めてしまったのでしょうか。
 どうしてワタシは、投げつけられた恐ろしい言葉を受け入れてしまったのでしょうか。
 堂々とした姿で否定して、ワタシがワタシを守り、愛さねばならないというのに。諦めの道に進み、黒を恥じたワタシにはそれが出来なかった。

 その日々を、後悔しています。
 ワタシが望んだ日々ではなかったのですから。今までの分を取り戻すように、青い空に堂々と黒を掲げたいと思いました。
 主人様はワタシをじっと見つめてから、頷かれました。

『分かった。
 他には…なんか、あるか?
 こう…欲はないんだな、お前は。
 まぁ…人間とは違うか』
 主人様はそう仰ると、良い香りのするお茶が注がれた美しい湯呑みを手に取りました。お茶を飲む主人様を見つめていると、助けてくださった主人様に御礼がしたい思いました。

 ワタシに何か出来ることはないかと考えていると『人間の姿にして欲しいです』と口が勝手にパクパクと動いたのです。

『人間の姿!?なんでた?』
 主人様はびっくりされたのか大きな声を出しました。

『助けていただいた御礼がしたいのです。
 何か出来ないかと考えました。
 ワタシに出来ること…主人様の食事を作ったり…という身の回りのお世話をしたいと思ったからです』

『俺の世話!?
 やめてくれよ。俺は何でも出来るからさ。
 礼ならば「ありがとう」の言葉だけで十分だ。何かしてくれることを期待して助けたんじゃない。俺が助けたいと思ったから、助けたんだ。
 今までの分も幸せになってくれたら、それでいい。
 もっと自分の為に、何か願えよ』

『それが、ワタシの願いです。きっと…出来るようになります』

『困ったな。本当にいいからさ』

『いいえ。それがワタシの願いなのです』
 そういった押し問答が続きましたが、ワタシが一歩も引かないでいると主人様が小さく頷かれました。

『まぁ…言い出したのは俺だしな。
 じゃあ、適当でいいからな。
 お前が納得のいく範囲で、俺の身の回りの世話をするということで、人間の姿にするか。
 なんだかな…』
 主人様は苦笑いをされましたが、すぐに真剣な表情になりました。

『本当に、いいんだな?』
 主人様の瞳には鋭いものがありましたが、ワタシは頷きました。

 そう…ワタシが恐れている人間の姿でもあります。
 その姿に、ワタシはなるのですから。
 けれどそうすることで…ワタシも人間の目線に立ち、何かを学べるかもしれないとも思いました。こういう事をしたら人間ならどう思うのか、人間にならないと分からないからです。それに恐れのままで終わらせるよりも…もっと違う感情を抱けるようにもなるかもしれないとも思いました。

 そうしてワタシは鴉の姿と人間の姿の両方をもつことになったのです。ワタシが人間の姿となった時、主人様は頭を抱えられましたけれど。
 あれから時は経ちましたが、なかなか上手くはいかないものです。主人様は何でも出来ますので、かえって迷惑をかけているだけかもしれません。
 それに…ふとした瞬間に何度も恐ろしい記憶が迫ってきて、ワタシの心は滅入ってしまい…決意は無となり、嫌な言葉ばかりを思い出してしまう。絶望の中を彷徨ってしまうのです。
 結局のところ…ワタシは…カラスにも人間にもなれない…どちらにもなれないのかもしれません。
 それに何か…大切な事を思い出せずにいる気がするのです。
 けれど、ソレが何なのかも分からない。分からないことばかりです」
 袴の人は空を仰ぎ見ながら、少し悲しそうに笑った。


「そうして山で暮らすことになったのです。
 皆んな優しくて…本当に幸せでした。
 けれど主人様の真っ白だった翼は、徐々に灰色を帯びていくようになりました。
 また…突然…この日々が終わるのではないかと思うと、ワタシは怖くなりました。
 ある日、主人様は大きな弓をもち、夕焼けの光に照らされながら黒羽の矢を放たれました。

『人間の男がやって来る。
 俺が選んだ男だから大丈夫だ、安心しろ』
 主人様はそう仰ると、ワタシを安心させるように優しく微笑んでくれました。

 そんなある日、主人様が山を留守にされている時に『選ばれし者と思われる男が、列車に乗ってやって来た』と皆んなが騒ぎ始めました。
 赤い鳥居を通過し入り口の高く伸びた草も道を開けると、皆んなは上空から男の真偽を確認する為にバタバタと飛び立っていきました。

『間違いない、選ばれし者の色だ』
 皆んなは自らの目で見定めてから、先にいる者に伝えました。
 そして主人様の妖術が施された棍棒を持つ天狗の像も、男に道を開けました。
 その男は「選ばれし者」に間違いないのでしょう。様々な試練を通過されたのですから。
 主人様の翼を白く変えてくださる、たった1人の方です。 
 主人様の大切な方です。
 何としても無事に主人様のもとにお連れせねばなりません。

 それでも…それでも…松の木にとまって見ていたワタシには…山を滅茶苦茶にしようとやって来た人間の男に見えたのです。
 ワタシの耳には聞こえるはずのない山の悲鳴が聞こえました。
 木々がそよぐ音と水の流れる音もしなくなり、泡を吹きながら横たわっていた動物達の死に顔、鳴り止まない銃声と恐ろしい人間の声が蘇ったのです。
 あの時こうしていれば…あの時もっともっと…と思うと、こちらに向かってやって来る人間の男が死を運んでくるように見えたのです。
 沢山の荷物を抱える昌景様が…あの時の人間の男に見えたのです。

 その瞬間、目の前が真っ暗になりました。
 この男が…真実に選ばれし者なのか分からない。
 もしかしたら…凄まじい妖術をかけられた…偽物なのかもしれない…皆んなの目を欺こうとしているのかもしれない。
 ならばワタシが…山を守らなければならないと思ったのです。

 ワタシよりも生まれ出づる皆んなの力の方が遥かに優れているというのに、なんと愚かなのでしょう。
 憎しみの感情は、目に見えるものを歪ませました。
 真実とは違う、幻影を作り出したのです。
「選ばれし者」と「恐ろしい人間」という2つの間で、ワタシは揺れ動き、ついには憎しみに屈したのです。

 本当に…お恥ずかしいです。
 空から聞こえてきた主人様の声で、はっと我に返り愚かな幻影は消えていきました。
 その瞬間、ワタシは自分が恐ろしくなりました。
 ワタシも…何もしていない方に…同じ人間というだけで…恐ろしいことをしようとしたのです。黒い鴉だからといって、ソコにいただけのワタシ達に酷いことをした人間と…これでは同じではありませんか。

 自らの愚かさを思い知りました。
 選ばれし者を安全にお連れし、主人様が戻って来られるまで守らねばならないのに、ワタシ自身が傷つけようとしたのです。ワタシはワタシの立ち場すらも理解していない、本当に愚か者なのです。その場ですぐに謝罪しなければならないのに、ワタシはそれもしませんでした。我に返ってからも自分が恥ずかしくなって…嫌な態度をとり続けましたし。
 ワタシは…ワタシは…本当に…すみません。
 昌景様、ごめんなさい」
 袴の人は僕の方に向きなおり、真っ直ぐに僕を見つめながら深々と頭を下げた。握られた小さな手には力が入り、全身から深い後悔と心からの懺悔が伝わってきた。包み隠さずに自らの苦しみを語ってくれた彼女に、僕も深く頭を下げた。

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