天狗の盃

大林 朔也

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楓 6

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『黒は不幸をもたらす色ではない。何者にも染まらない、自らを貫き通すことが出来る強く美しい色だ。
 黒い色を愛しておられる。山の神様の御髪と同じ色だ。
 黒い色を愛していないのは、その者の力を恐れ、理解しようとしない一部の人間だ。
 人間とはな、自らが理解できない力を持つ存在を恐れる。自らの力が脅かされることを恐れて、時には迫害する。神々が望まれた道とは逆の道だ…だから、失望された。
 そんな言葉など、信じるな。
 俺の山に来るのならば、真実の黒がどういう色であるのか教えてやろう。どれほど気高い者達が纏う色であるのかを教えてやろう。
 天狗がすまう山の鴉、神聖なる黒を纏う者達がすまう最高の山でな。
 どうだ?来るか?』

 主人様の瞳はどこまでも強くて優しい色をしていました。
 けれどワタシは「はい」と言うことが出来ませんでした。
 主人様の言葉に甘えて、その力にすがりつきたいという思いで胸はいっぱいでしたが、それでも脳裏に焼きついた残酷な光景がワタシを引き止めたのです。 
 主人様の力に敵うものなどないというのに、ワタシの心に重くのしかかった影はあまりにも色濃かったのです。

 誰かと関わって…もう誰も不幸にしたくないと思いました。最期に希望を見たという幸せな感じながら…このまま死んでしまった方がいいとも思ったのです。

 ワタシが黙ったままでいると、主人様は懐から袋を取り出しました。その袋の中からは木の実と赤い紅葉が出てきました。

『そうだ。じっくり考えろ。
 お前が歩む道なんだから。
 決定を強いることは誰にも出来ない。
 俺は俺であって、お前ではないのだから。
 自らと向き合って答えを導いて、後悔のない決断をするんだ。
 檻に施されていた低俗な呪いは解いた。捕らえた者の心を食らい、苦しむ姿を見て喜ぶクソみたいな呪いだ。
 全ては偽であり、真実はない。
 怖かったな。もう、大丈夫だ。
 この木の実を食っておけ。少し眠れば傷が癒え、空を飛べるほどに体力が回復しているだろう。夕闇が迫る頃に紅葉と共に飛び立つんだ。紅葉が案内してくれる。俺の山に来るのなら「紅天狗のもとに」と願い、そうでなければ「安全な場所へ」と願うんだ。
 どちらにせよ、夜明けと共に、出発だ』
 と、主人様は仰いました。

 ワタシは地面につくほどに頭を低く下げて『すみません』と何度も言いましたが、主人様は咳払いをしてから『もう、やめてくれ』と仰いました。

 顔を上げて主人様を見ると、とても困った顔をされていました。

『すみませんと言われたら、何か悪いことをしたような気になってくる。そうだな…すみませんと言われるよりも「ありがとう」と言われた方が嬉しい。俺は「ありがとう」という言葉が、好きなんだ。
 俺自身を誇りに思えるようにしてくれる。
 そして笑ってくれた方が、さらに嬉しい』
 主人様は優しい瞳で微笑みました。その表情は柔らかくて、ワタシもつられるように微笑んでいました。

『そうそう、その顔だよ。
 雨が降りそうだな。まぁ、すぐに上がるだろうが。
 そうだ…雨の後はな、美しい虹がかかるんだ。
 俺は用があるから、そろそろ行くわ』
 主人様はワタシに背を向けて、何処かに行ってしまいました。

 やがて、雨がポツポツと降り出しました。
 ワタシは赤い紅葉と木の実を長い間見つめていました。
 夢とも思いましたが、紅葉と木の実は確かにそこにあり続け、目に焼きついた光は強烈でさめようもなかったのです。

 絶望の中にあっても、光は希望をつくり出すものなのですね。
 死にたくなるような日々の中で、ワタシは一条の光を見てしまったのです。

 雨が止んで、木々の隙間から陽の光が射し込んでくると、風の音も聞こえてきました。その風の音が『生きろ』という…仲間の声に聞こえたのです。
 ワタシを生かせてくれた仲間の声です。
 大切な仲間を思い出すと、ワタシは立ち上がりました。

 ワタシだけが生き残ったのには、何らかの意味があったのでしょう。ワタシは生き残った責任を果たさなければならないとも思いました。ワタシは自ら命を絶ってはならない。

 ワタシは生きているのだから、山に酷いことをした奴等が望むような全滅の道を辿ってはならない。死を望むのなら生きなければならないと思い、檻から出たのです。湿った羽を生き返らせるような、美しい陽の光を浴びにいきました。
 体中で光を感じていると、キラキラとした光の中を踊るように艶々とした黒い羽が舞い落ちてきました。ワタシが顔を上げると、木々の隙間から美しい虹が見えたのです。空に架かる7色の美しい色を見ていると、特別美しい黒い鳥が優雅に橋を渡っていきました。

 真実に美しかった。その姿に釘付けとなりました。
 諦めることなく怯えることなく、自らの黒に誇りを持ちながら堂々と羽を広げる姿は真実に美しかったのです。
 自らの土まみれの姿を見ると、ワタシはワタシをこのまま終わらせてはならないと思いました。
 その黒い鳥は、ワタシと同じ黒い鴉だったのですから。 
 ワタシは生きているのに死んでいたのだと、その時ようやく気付いたのです。ワタシは誇りをなくしてはいけなかったのです。

 急いで檻に戻り、木の実を口に入れると、すぐに心地よい眠気に襲われました。目が覚めると体には力が戻り、空には夕闇が迫っていました。
 ワタシは赤い紅葉を咥えると「紅天狗様のもとに」と願い、後ろを振り返ることなく羽ばたきました。

 けれど静寂の中では、ワタシの羽音すらも大きな音だったのでしょう。ガサガサと草が音を立てると、色を持たぬ生き物が次から次へと現れたのです。

『おおっ、おおっ、檻を開けたのか!?逃げよるぞ!』
『おおっ、おおっ、逃すぐらいならば殺してしまおうぞ!』
『おおっ、おおっ、そうじゃ!もう一度、捕らえてしまえ!』
『おおっ、おおっ、そうじゃ!御怒りは降り注がなかった!』
『おおっ、おおっ、奴は偽の黒じゃ!偽じゃ!偽じゃ!』
 色を持たぬ生き物は『おおっ、おおっ!』と荒々しい叫び声を上げながら、木々を投げ倒す勢いで追いかけてきました。
 吐き出した糸に石や木の枝が沢山飛んできましたが、ワタシに当たることはありませんでした。
 幾度となく恐怖によって羽が重たくなりましたが、赤い紅葉…そう燃える炎を見ながら、ワタシは飛び続けました。
 炎という名の光は、ワタシに飛び続ける勇気をくれたのです」
 袴の人は顔を上げて、咲き誇る紅葉を見つめた。
 その時の事を思い少し苦しい表情をしていたが、光を見出した瞳はどこまでも美しかった。

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