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約束 2
しおりを挟むそれから黙ったまま夜空を眺めていたが、松の枝葉をそよがす音と共に遠く離れた場所から鴉達の鳴き声が上がった。
「カラスは、もう少し時間がかかるか」
紅天狗は独り言のように呟いた。
「袴の人に会うのは久しぶりだな。
一反木綿の領域に行く前に会ったきりだよ」
僕はそう言いながら、袴の人の顔を思い浮かべた。
彼女と話をしていなければ感情の整理がつかなかっただろう。一反木綿の領域で戦うことも出来ずに死んでいたかもしれないと思うと深く彼女に感謝した。
すると、紅天狗は目をキョトンとさせた。
「なんだ?気付いてなかったのか?
カラスなら、何度か昌景の部屋に行ってるぞ。
一反木綿の領域から帰ってきた日はうなされていたから、カラスが側にいたんだ。俺が異界に行っている間、俺の代わりに昌景に薬を飲ませてくれていた」
と、紅天狗は言った。
「えっ…そんな…」
僕は寝顔を見られていたのだと思うと、少し恥ずかしくなった。
「心配してたよ。
自分が余計な事を言ったのかもしれない。無理をさせたんじゃないのかと悩んでいた。昌景に謝らないといけないと言ってた…な」
紅天狗はそう言うと、僕の顔をチラリと見た。
「そんな!ちがうよ!
僕は自分の為に戦ったんだ。ボロボロになったけれど、それ以上のものを得られた。
袴の人の言葉は嬉しかったんだ…あの笑顔も…忘れない」
と、僕は言った。
「そうか。なら、そう言ってあげてくれないか?
昌景の口から聞いた方が、カラスも安心するだろうからさ」
紅天狗が優しい声で言うと、僕はコクリと頷いた。それほど心配してくれていたのだと思うと、申し訳ないような嬉しいような気持ちになった。
「紅天狗がいい子だと言っていたのが…分かったよ。
彼女は優しくて、いい子だ。言葉以上に表情を見ていたら…最後に向けてくれた微笑みを見ていたら…分かったんだ。
僕の方こそ謝らないと…いいや、ありがとうと言わないと」
僕がそう言うと、紅天狗は嬉しそうな顔をした。
「腹減ってきたな。
団子でも作ってきたら、良かったな」
と、紅天狗は言った。
「え?団子も作れるの?」
僕は少し大きな声を上げていた。
紅天狗の口から団子という言葉が出てきたこと以上に、団子を作れるということに驚かずにはいられなかった。
「俺は何でも出来るんだよ。
カラスが来るまで…全部してたからな」
紅天狗はそう言うと、ハッとした顔になって口を抑えた。
男の目は大きく見開いた後、何かを思い出そうとするかのように眉間に皺を寄せた。
「紅天狗…大丈夫?」
「あ?あぁ…すまんな。
あれ…なんか…いま…いや、いいか。
腹が減ってるから…かもしれんな」
紅天狗が少し頭を押さえながら白い息を吐くと、僕は袋からサラミとチーズとチョコレートを急いで取り出した。
「これで良かったら、どうぞ。
日本酒を飲むものだと思ってたから酒の肴にと持ってきたんだよ。どっちでも、好きな方を」
と、僕は言った。紅天狗が指差したサラミを手渡すと、男はしばらくサラミを見つめてから一口齧った。
「美味いな、ありがとな」
紅天狗は少し笑ってくれた。その瞳は、いつもの紅天狗に戻っていた。
「良かった。
山に来る前に、駅の構内で食べ物を買い込んだんだ。
座敷童子にもクッキーをあげたら、すごい喜んでくれたよ」
僕は座敷童子の可愛いらしいエクボを思い出した。
「そうか。座敷童子も喜んでたか。良かった良かった。
持ってきた鞄に、食料詰め込んでたのか?
宗家の連中から何も聞かなかったのか?」
紅天狗はそう言うと、サラミを口に放り込んだ。僕の脳裏に両親と叔父の顔が浮かんだ。
「黒羽の矢が刺さったのは、昌景の家じゃなかったんだよな。別の男の家だったな。
でも運命が、お前を、ここに呼んだか。
昌景、ここに来てくれて、ありがとな」
紅天狗は僕の方に目を向けて、にっこりと微笑んだ。
僕は思わず「あっ…」と声を漏らした。誰かに必要とされる事が、これほど嬉しい事とは今まで知らなかった。
同時に苦しみを吐き出したい気持ちになった。
夜空に浮かぶ満月があまりにも麗しくて、少しおかしくなっていたのかもしれない。約束を守る為に、抱え続ける苦しみに何らかの答えを導き出さねばならないとも思ったのかもしれない。
どちらにせよ紅天狗ならば「僕の話」を聞いてくれて、背中を押してくれるような気がした。
僕が今いる場所は泥で出来ている。
簡単に崩れていくのを防ぐ為にも体中に駆け巡った熱を力とし、烈しい太陽のような光を掲げて抗わなければならない。
僕には光が必要なのだから。
紅天狗の瞳にはその光が宿っていて、不思議なほどに僕にも力を与えてくれる。
「紅天狗…あの…さ…」
僕の声は自分でも分かるほどに震えていた。苦しい日々を噛み締めるのは勇気のいる事だった。
「なんだ?昌景」
紅天狗は僕の表情をチラリと見ると優しい声で答えてくれた。
「あの…少し…話をしてもいいかな?」
「昌景の話しなら、いくらでも聞こう」
紅天狗は落ち着いた声で言うと、僕の緊張をほぐすかのように背中を撫でた。
僕は一息ついてから話し始めた。
紅天狗はただ頷き、話しの途中で質問をするようなことはしなかった。草の上におかれた右手には時折力が入り、男の腕の血管が際立つのだった。
「僕は素晴らしい息子にはなれなかった。
両親が自慢できるような息子にはなれなかったんだ」
僕は最後にそう呟いた。
紅天狗はしばらく黙って睨め付けるように僕の顔を見ていたが、やがて口を開いた。
「素晴らしいって何だよ?その基準はなんだ?誰が作った?
お前がソイツらの基準に合わせる必要なんてない。どうせ下らない人間が作った下らない基準だ。
自分の基準を作れ。ソレに見合う男になれたらソレでいい。ソレがいい。
それにな、なれないし、そもそもならない。
お前は、心のある一人の人間だ。考え戦い生きる事ができる1人の人間だ。
それはソイツらの願いだ。
お前の願いじゃない。
願いを押し付けてはならないし、もしお前が願い通りに生きるのなら刈谷昌景の願いは誰が叶えてやる?お前の息子がか?
そんな馬鹿げた事を繰り返すつもりなのか?
お前は夢を叶えてやる妖術師ではない。
お前が叶えられるのは、叶えて意味があるのは、刈谷昌景の願いだけだ」
紅天狗は何度も僕の名を力を込めて言った。
何者でもなかった男に、自分の道が真っ白であった男に、自らが何者なのかを思い出させようとしていた。
子供の人生は親の人生の一部なのだから、期待に応えられないと怒られても仕方がない。
その考えは、明らかに狂っている。
だが僕を責め立てる両親の形相と言葉によって、いつの間にか「僕が悪い」と思うようになった。「失敗」することに過剰に怯えていった。そして「何か」を始める事が怖くなった。
どうせ要領の悪い僕は失敗するのだから、挑戦という2文字はあってはならない。辿り着く先が「成功」ではなければ意味がない。親に恥をかかせてはならない。
失敗すれば「終わり」で、敗者が生み出すものには何の価値もない。敗者が「何」なのかも分からずに、僕は諦めた。
今の僕は諦め続けた日々を後悔していた。
「ここから始めるんだ」と決めたのに、不意に下を向くと地面を覆う不気味な影が僕の足下に黒々と迫ってきた。
影がウヨウヨと動くのを見ているうちに「今も、そこにいる」ような錯覚に陥った。
そうなるように歪んでいるのかもしれない。
すると滅多刺しにされ縫い合わせたはずの心の傷口から血が噴き上がった。
「出来ない事ばかりだった。
僕が原因だったのかもしれない。
そう…僕が悪いんだ。
僕が悪いから… 弱くて力もないから…何も言い返してはいけない。受け入れるしかない。力もないから…戦う事は…許されない」
僕は頭を抱えながら呟いていた。
噴き上がった血を影が啜る幻を僕は見た。影はたらふく血を啜ると、口周りにこびりついた赤黒い血も綺麗に舐めとった。
冷たい恐怖が心を満たすと、いくつかの妖怪と戦ったことで生まれた力も凍りついていった。
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