天狗の盃

大林 朔也

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河童 2

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「暗い…ね」
 暗い静寂の中で僕は呟いた。


 結界橋と結界門しかない空間の中で、僕達は佇んでいた。
 今まで見てきた景色とは違い、それ以外には何もなかった。
 そう…何もなかった。
 光もなく、音もなく、まるで「無」に近い。 
 暗い不気味な空間の中に黒い橋があり、その先の霧がかかった場所に結界門があるのだろう。

 紅天狗が頭につけている面を手に取ると、黒い橋に一筋の光が差した。
 光の粒はキラキラと神々しく明滅しながら、結界橋の黒い床版に降り注いでいった。幻想的で美しいのだが…何かが違う。身も凍るような恐ろしい光だ。あの光に触れてはならないのだろう。
 光は焦げついたような床版の黒を僕に見せつけると、消えていった。

「結界橋は…床版は…黒い…ね」
 と、僕は言った。

「橋の床版は、結界門を破壊して押し寄せ逃げ帰って行った妖怪によって黒く色を変えたんだ。
 アレは、焼け爛れた妖怪そのものだ。橋の上で踊らされたんだよ。
 何者も神の許しなしに通過してはならない。山の神様の許しが降りるのは「その時」だけだ。
 侵してはならない場所に足を踏み入れたのだから火遊びではすまん。足元から燃え上がり全身に広がり、この橋を彩る黒となる。
 昌景も、気をつけろよ。絶対に床版を踏むな。
 お前は俺が選んだ選ばれし者だが、神が選んだわけではないからな」
 紅天狗がそう言うと、床版から黒い湯気のようなものが湧き上がった。焼かれ苦しみもがく断末魔の叫びが聞こえたような気がした。僕の右手がピクピクと痙攣した。

「黒堂で感じた…鬼達も?」
 僕は恐る恐る聞いた。

「そうだ。まぁ…あれはちと特殊だがな。
 だが鬼は、鬼だ。
 他の妖怪を捕らえて奴等を投げ飛ばし、苦しんでいる声を聞きながらも平気な顔をして踏みつけ、橋を渡った。
 自らの目的の為なら誰かを踏みつけにする、そういう事が平気でできるのが鬼だ」
 と、紅天狗は言った。

 紅天狗は懐から黒い布を取り出した。中から出てきたのは、鴉のお面だった。

「お前の面だ。コレを被れ。
 さっきも言ったがコレを被っている間は妖怪の目に人間とは映らないが、昌景の目には昌景の姿として映るから安心しろ。不意に見た己の姿に驚かないようにソウしてある。妖怪になった姿なんて見ない方がいいからな。
 俺がいいと言うまで、絶対に外すな」
 と、紅天狗は険しい顔で言った。

「分かった。
 紅天狗がいいと言うまで、絶対に外さない」
 僕は鴉のお面を被った。
 鴉のお面はひんやりとして冷たかったが、サイズを測ったかのように密着して変な違和感もなかった。顔を上下左右に動かしてみたがズレることもなく、お面を被っていることを忘れるぐらいだった。

「なかなか似合ってるぞ。 
 そう心配そうな顔をするな。面を被っていても俺にはお前の表情が見える。
 お前には、俺がいる。
 俺の言葉を守っている限り、安全だ。
 俺も面を被るとするか」
 紅天狗がそう言ってお面を被ると、結界橋が豹変した。

 軒下で聞いたような轟くような雷鳴が鳴り響き、橋が今にも決壊しそうなほどの凄まじい音を立てて上下に揺れ動いた。
 白い煙が橋の中央からモクモクと立ち上がると、目を開けていられないような突風が吹いた。その瞬間、紅天狗は僕の前で立ち塞がってくれた。
 鉄壁のような強固さで僕を守ってくれると、紅天狗は深々とお辞儀をしてから後ろを振り返った。

「昌景、そこにいらっしゃるのが…」
 紅天狗は興奮した声で言った。

 僕は紅天狗より前に出て見ようとしたが、男はそれ以上前に出るなと言わんばかりにがっしりと僕の腕を掴んだ。

 暗い静寂の空間が、明るくなっていた。

 漆黒の闇の中に高く聳え立つ神々しいほどに美しい雪山が、結界橋の中央に鎮座していた。真っ白な輝きは四方八方に反射して、その美しい体躯によって辺りを燦然と輝かした。
 だが冬の美しい雪山は厳しく生半可な気持ちで足を踏み入れてはならないように、それもまた恐ろしい危険を孕んでいた。

 凄まじい音を立てながら、雪山が崩れ始めた。
 目の前が真っ白になりこのままでは雪崩に巻き込まれると思い、思わず後退りをすると、紅天狗が逃げるなとばかりに腕を握る手に力を込めた。
 そう…それは雪山ではなかった。
 恐ろしい雪崩が起きたのではない。眠りについていた方が目を覚まされたのだ。
 神々しいまでの白い雪のような体躯は女神の美しさそのものであり、輝く美しさで他を魅了するような力を見せ、優雅にとぐろを巻いていたのだった。
 だが夕暮れの空のような荘厳な赤い瞳は、怒りを含んだように燃え上がった。

「白大蛇様だ。
 女神の使いである神聖なる蛇だ。
 俺も刀を向けることは許されていない。
 白大蛇様の御力に触れぬように気をつけながら進まねばならない。
 その先に、結界門がある」
 紅天狗は自らの体よりも何倍もある白大蛇を前にしても冷静な口調で言った。

「どうやって…?歩けもしないのに」
 僕は触れるもの全てを焼き尽くす結界橋の床版を見ながら言った。

「俺の手を握ってろ。
 俺には翼がある」
 紅天狗は灰色の翼を勢いよく広げた。

「待って…やっぱり心の準備が…」
 僕は慌てふためきながら、逃げ場所なんて何処にもないのに後ろを振り返った。

「今さら、何を言う?
 待ては、ナシだ。もう後戻りはできんぞ。
 行くぞ!」
 紅天狗は僕の手を握り、橋めがけて凄まじい勢いで走り出した。

 白大蛇はゆっくりと鎌首をもたげ、眠りを妨げた侵入者をとらえようとするかのように赤くて細い舌をチロチロと出した。口から白い煙のようなものを吐き出すと空気と混ざり合い、頭を締め付けるような音が鳴り響いた。
 白大蛇がどんどん迫ってくると、紅天狗の地面を蹴る下駄の音が大きくなった。赤い瞳が恐ろしく光った。僕の心も体も恐怖で支配され、叫び声も出なかった。僕はただ紅天狗の手を強く握り締めた。
「そう、そう、それでいいんだよ」
 紅天狗は武者震いのように体をゾクゾクと震わせた。間違いなく…紅天狗はこの状況を愉しんでいる。

「たまんねぇな。
 何回やっても、この瞬間がめちゃくちゃ興奮する」
 紅天狗は嬉々とした声を出して、フワリと舞い上がった。
 白大蛇は男の熱を感じ取ったのか、尻尾をブルブルと震わせながら床版に何度も打ち付けて脅かすような大きな音を出した。結界橋が壊れるかのような凄まじい音がした。
 僕は目を閉じた。このまま目を開けていると、いつか紅天狗の手を離してしまいそうだった。
 視覚を遮断すると他の感覚が敏感になり、妙なニオイが鼻を刺激した。恐らく白大蛇の口から出ている煙なのだろう。それはどんどん濃くなっていく。頭を締め付けるような音が大きくなり、体を凍り付かせるような寒気も感じた。
 僕の歯がガタガタとなると、紅天狗は僕を腕の中に抱き寄せた。

「俺につかまってろ。
 絶対に守ってやる」
 と、紅天狗は低い声で囁いた。

 恐ろしい音を聞きながら白い煙を吸い込む度に、僕の体は痺れていった。弱まっていく意識の中でうっすらとまた目を開けると、紅天狗が赤く爛れたような結界門の扉に触れていた。
 力強い腕で扉を押しながら男が何かを叫ぶ声を聞いていると、僕はついに意識を失ったのだった。





 心地よい風と頬を撫でる草の感触で目を開けると、紅天狗が心配そうな顔で僕を見下ろしていた。紅天狗はお面をとっていて、いつものように頭につけていた。
 
「おっ、起きたか。
 白大蛇様の煙にやられたかな?
 妖怪の動きを封じ込めるヤツだから、昌景は人間だからイケると思ったんだけどダメだったか。すまんすまん。
 大丈夫か?動けるか?」

 僕は何も答えられなかった。石になったかのように全身が硬直していて、動かす事が出来るのは目線だけだった。

「ちょっと刺激が強かったかな。
 いい薬がある。
 苦いが、すぐに効くぞ」
 紅天狗は懐から小さな袋を取り出した。袋の中からは、どんぐりのような木の実が出てきた。
 紅天狗は僕のお面をずらして口に入れてくれた。それは噛まなくても、すぐに口の中で溶けていった。なんとも言えない苦みが口の中に広がると、ゴホゴホと咳が出た。恐ろしいモノを体外に出すようにしばらく咳を繰り返していると、体の感覚が戻ってきた。

「ありがとう。もう…大丈夫」
 僕は上体を起こしたが、紅天狗は心配そうな目をしていた。

「紅天狗にも襲ってくるんだね。
 異界から攻めてくる妖怪だけにしてくれたらいいのに」
 僕がそう言うと、紅天狗は笑った。

「俺の場合は、俺の力が試されているからだ。
 白大蛇様と遊べないような天狗は必要ないってことだ」
 と、紅天狗は言った。

「え?必要ない?」
 
「そんなことより絶景だぞ。
 美しい川だ。ここも綺麗に紅葉している。
 ほら、俺につかまってろ」
 紅天狗は僕の問いに答えることなくそう言うと、肩を貸してくれた。

 僕は紅天狗のがっしりとした肩につかまりながらヒョコヒョコと歩いた。

「昌景、しゃがむぞ」
 紅天狗がそう言ってゆっくりとしゃがみこむと、男は手を伸ばして目の前の生い茂っている丈の高い草をかき分けた。 

 紅天狗は僕の方を見ながら下を指差し、それから人差し指を唇に縦に当てた。
 目線を下に向けると、目を見張るようなセルリアンブルーの川が流れていた。
 岩肌をくねくねと流れ落ちる清らかな滝。それを包み込むように色鮮やかな紅葉が咲き乱れている。舞い散った紅葉も青い川を優雅に漂っていた。きらめく太陽の光の加減で水がキラキラと光り紅葉の濃淡も変化するので、川面は様々な表情を見せた。
 
「大きな岩の上に河童がいるぞ。
 ほら、あの赤い奴だ。
 今、川に1匹飛び込んだ。昌景、分かるか?」
 紅天狗は岩肌を流れ落ちていく滝の近くの大きな岩を指差しながら言った。
 岩の上に子供のような真っ赤な生き物が立っていて、嬉々とした声を上げ、ヒラリと飛び込んでいくのだった。


「俺は確かめたい事と用があるから、しばらくココを離れる。
 俺が戻ってくるまで昌景はココにいろ。
 ココから絶対に動くな。動かなければ安全だ。
 あんまり音を立てるなよ。静かに河童を見とけ。
 奴等は耳がいいから、大きな音を立てたら気付かれるぞ」
 紅天狗はそう言うと、僕の瞳をじっと見た。

「なぁ…昌景、もう一度言おう。 
 河童は比較的穏やかな妖怪だが、全員が全員そうではない。 
 気性が荒くて悪さをする連中もいるんだ。
 妖怪の力を舐めてはいけない。人間の男の腕力でも敵わない。 
 それにな、河童は大人になっても子供の姿をしているから区別ができない。異界にきたばかりの昌景では善か悪かの判断もつかない。
 悪い大人の河童はな、子供を装って同情心を利用し、水辺へと言葉琢磨に連れ出して溺死させようとする。
 迷ったら、心と面に従え。お前が生きてきた中での経験が無意識に動いて、危険を教えてくれる場合がある。
 いいな?
 何を言われても、絶対にココを動くな。
 何かあれば俺が戻るまで待て。急な事など、この世にはそれほどない。
 自分の身を守る術を身につけろ」
 紅天狗は首にぶら下げていた何かを外した。それは紫のネックレスではなく、木の棒のようなものだった。

「念の為に、笛を渡しておく。
 危なくなったら笛を吹くか、強く握れ。
 何処にいても、すぐに駆けつける」 
 紅天狗は僕の手を取ると、その木笛をポトンと手の平に置いた。

「俺が作ったんだ。なかなか良い出来だろう?」
 紅天狗は自慢げにニヤリと笑うと、スクッと立ち上がった。

 立ち上がった紅天狗は恐ろしいオーラを全身に纏っていた。戦場に向かう男のような気迫を感じられ、普段よりもさらに大きく見えた。

「じゃあ、行ってくる」
 紅天狗は灰色の翼を広げると、音も立てずに青い空へと風のように飛び立っていった。
 太陽が男を迎えるかのようによりいっそう眩しく輝いた。紅天狗の行方を目で追い続けることは出来なかった。
 

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