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妖怪 5
しおりを挟む「女神は、手を握った。
これで、契約が結ばれた。
契約書は目を皿のようにして読まねばならないのだが、そんな時間も心の余裕もなく、震える手でサインをするしかなかった。
こうして、山の神様は女神から男神にかわった。
次の日、山の神様は自らの庭で飼っていた「狗」を従えて、山に現れた。
獰猛に育て上げた狗の力を見たかったのと、友である海の神の狗とどちらが強いのかを競わせたかった。
人間の肉を食らった妖怪は、強い。
存分に、愉しめるだろう。
海の神も狗を従えて現れると、2匹の狗を「妖怪が恐れる者」に化えた。
人間に似た姿を与え、肉を斬り骨を断つ為の刀を与え、背中に白い翼を生やした。そして、最強の扇を持たせた。
妖怪が恐れた最強の黒の陰陽師と同じように、扇を持たせたのだ。まさに、恐怖の象徴としてな。
さらに山の神様は自らの黒い髪を一房切り取り、恐れる者に「自由に使え」と手渡した。恐れる者は四方八方に散らばっている妖怪の動きを知る為に、自由に空を飛び回れる「鳥」へと願った。
黒い髪は黒い鳥となった。そう…カラスとなった。
こうして人間を追いかけていた妖怪が今度は追いかけられる側になった。恐れる者を一目見た妖怪の多くは、戦う前に恐れをなして異界へと戻っていったが、歯向かおうとする異常な妖怪もいた。異常者だ。
そこで恐れる者は異常者の体を真っ二つに斬り裂き、燃え盛り全てが無になる前に心臓を掴み取った。心臓が無ければ目玉だ。目玉がなければ耳を。耳がなければ…というふうにな。
白い翼を紅に染め、全身から血を滴らせて臓物を握りしめる姿を見ると、異常者もついに恐れをなして異界へと帰っていったのさ。
後に残った恐れる者は殺した妖怪の臓物にまみれながら、互いに殺した数を自慢し合った。決着がつくと扇で煽って火を起こし、腐った臓物は悪臭を放ちながら燃え上がり、烈しい炎となった」
紅天狗はそう言うと、大きな右手を見つめた。
その大きな手なら、どのような物でも握ることができるだろう。男の腕は太くて血管が浮き出ている…丸太のように太い腕だ。
僕はその場に座っているのが怖くなった。
否、紅天狗の隣に座っているのが、怖くなった。
僕は自分でも止められないほどに震えていた。紅天狗の右手の中に恐ろしい幻を見ると、気持ちが悪くなってきた。
「昌景、大丈夫か?
まだ話しても、大丈夫か?」
と、紅天狗は言った。
恐ろしい物を掴み取ったことのある右手を僕の腕に置いた。今も…そうなのかもしれない。右手からは握り潰された生命の鼓動を感じた。重たくて苦しかった。
相手は妖怪だ…人間を殺し食う妖怪…けれど死と背中合わせで生きてきたことのない僕にとっては恐ろしくて堪らなかった。
「大…丈夫。
ちゃんと…聞かないと…いけないから」
僕はそう言いながらも、自分の声が引き攣っていることに気がついた。
男の右手が置かれた僕の腕はガクガクと震えていた。
紅天狗はチラリと僕の表情を確認してから、口を開いた。
「いつかまた妖怪は門を破壊して攻めてくるかもしれない。その時に備え、恐れる者がそのまま山に棲みつき門と橋を守ることになった。
だが恐怖という感情は、妖怪の抱く感情の中で最も薄い。
時がたてば、奴等は忘れていく。
漂うニオイが濃くなるたびに、門を引っ掻く爪の音が聞こえ始めた。
どうしようもない奴等だ。
だから、また門を破壊しコチラの世界に侵略を行えば、どういうことになるのかを明白に認識させることにしたんだ。
そう…爪の音がするたびに、山の神様がお選びになった妖怪を惨殺することにした。門への攻撃を受けるたびに報復する。
全て、山の神様の名の下に、殺す。
何処に隠れていても必ず見つけ出す。
恐れる者は、恐怖の象徴でなければならない。他を圧倒する絶対的な力を保持し続けなければならない。
どんなに綺麗事を言おうが、力がなければ、何も守れない」
と、紅天狗は言った。
僕は紅天狗の腰の刀を見た。
それを見ると、どんどん気持ちが悪くなってきた。
あの時、神木の下で綺麗だと思った刀が、そんな恐ろしいものであるとは思わなかった。刀とは、生命を奪うものである。それなのに僕はその事を忘れていた。
そして、ようやく短刀のようなものの正体が分かったのだった。
「だが、ただ守らせているだけではいけない。
本来は、人間が自らの手で、自らの世界を守らねばならないのだ。
それが出来ないのだから、従ってもらう。
他者に守らせているのだから、代償がともなう」
そう言った紅天狗の赤い髪が冷たい風に吹かれて揺れた。
淀んだ空はゴロゴロと鳴り続け、凄まじい光がいく筋も走り、男を恐ろしく照らした。
「妖怪が恐れる者とは誰なのか、分かったか?
答えろよ、昌景」
と、紅天狗は言った。
僕はなんとか口を動かそうとしたがうまく出来なかった。総毛立ち、唇がヒクヒクと震えるばかりだった。
悪戯に時間が流れていき、鴉が時折急かすように鳴いたが、紅天狗は黙って僕の答えを待っていた。
僕は答えなければならない。
長い時間をかけて、ようやく目の前の男の名を口にした。
「そうだ、俺だよ」
紅天狗はそう言うと、爽やかに微笑んだ。
その爽やかな微笑みに、僕は衝撃を受けた。
ゴロゴロと鳴り響く雷の音も鴉の鳴き声も何も聞こえなくなった。自分の心臓の音だけがドクンドクンと激しく聞こえるような気がした。
妖怪は確かに恐ろしい存在だ。人間を殺し食う恐ろしい存在だ。けれど、それ以上に紅天狗が恐ろしい。抑止力でありながら、この男こそが恐怖そのものだった。
僕の頭の中に宗家の人の言葉がよぎった。
「天狗様を怒らせてはならない」という言葉がよぎったのだった。
それと同時に「禍が降り注ぐ」という言葉が…心に引っかかった。
「お前はそんな俺と共に異界に行くんだ。
だから、恐れることはない。
どう思う、昌景?」
「そう…そう…だね…。
紅天狗は僕達人間にとっていい天狗…だからね…」
僕は天狗を怒らせないように言葉を合わせていた。
声は上擦り顔は引き攣り、僕は恐怖を前にして屈服するだけだった。
「俺は、いい天狗じゃない。
昌景、この話には続きがある。
ここからが重要で、複雑だ」
と、紅天狗は言った。
「続き…?複雑って…どういうこと…?」
僕が言い終えないうちに、ポツポツと雨が降り出した。
軒先から水が滴り落ちてくると、僕の足に当たった。やがて雨は絶え間なく降り出し、紅葉の絨毯の色をより鮮やかにした。
紅天狗はしばらく地面の窪みの水たまりに浮かぶ紅葉と波紋を見つめてから、荒れ狂う空を見上げた。
男はゆっくりと瞳を閉じてから、銀色に輝く瞳を開け、僕を見た。
「山の神様は、邪神だ」
紅天狗は、短く、それだけを答えた。
邪神
その言葉は、僕の心に重くのしかかった。
恐ろしいその響きは、僕にその言葉の意味を確かめるさせる勇気をなえさせた。僕はそれ以上のことは、何も聞けなかった。
「そろそろ行かねばならない。
昌景、俺の盃を盗んだ妖怪の姿は見たのか?声と感触だけか?」
と、紅天狗は言った。
「姿は…はっきりとは…見なかった。
でも、ちぎれた仲間の腕や胴体は…見た」
「そうか。
ならば、教えてやろう。隠してもしょうがないからな。
俺の山に無断で入った異常者はアノヤロウしかいない。
沢山の仲間を殺して強烈な血の臭いで黒堂を充満させて撹乱し、床板の僅かな隙間に力を忍ばせていた。
色が変わり始めたことによって山にやって来るであろう選ばれし者を、俺がいない間に殺そうとした。
それは…」
紅天狗は見たこともないような恐ろしい表情になった。
降り注ぐ雨が横殴りになって、紅天狗の灰色の翼を濡らした。
僕は、紅天狗の答えを待った。
息をするのが、苦しくなった。
僕達は、どんな妖怪から盃を取り返すのだろう?
「鬼だ。
人を食らう妖怪の中で、最強の存在。
昌景が黒堂で感じたのは、鬼の力だよ」
紅天狗は濡れた灰色の翼を広げて、真っ直ぐに僕の目を見据えた。
僕の心臓が激しく揺れた。
僕は息もするのも苦しくなってゼェゼェと肩で息をした。
右手も「鬼」という言葉に激しく反応して捻じ曲がったかのように痛くなった。激痛で顔を歪めると、紅天狗は僕の右腕をそれ以上の強い力で掴んだ。
「恐れるな、昌景。
ソレは、俺がお前に触れたことでもう取り除いた。己に負けるんじゃない。
俺が、昌景にしてもらいたい事を話す。
盃は、札が貼られた棚の中に祀られていた。
札は強力で、妖怪は棚にも触れない。仲間を犠牲にして棚の上部を引き剥がし、仲間の腕がついたまま風呂敷に包んで持って行ったのだろう。
俺もな、触れないんだ。
だからお前が札をはずし、棚の扉を開けて、盃を取り出して欲しい。
それが、お前の役割だ。
選ばれし者である人間の男の重要な役割だ。
自らの世界を自らが守る為のな。本来はそうでなければならない。自分の世界を誰かに守らせてはいけないだ。
これ以上色が変わる前に、なんとしても俺は盃で酒を飲まねばならない。
簡単に思えるかもしれないがな。これは非常に難しい事なんだ。臆する事なく、あらゆる恐怖に立ち向かわなければならない。
不屈の闘志を持って、自らを駆り立てなければならない。
心を鍛えるんだ。どこまで準備出来るかで、生死が決まる。
他の事は、俺がやる。俺の役割だ。
いいな?
お前の役割を、心に刻んどけ。
そうして、共に戦おう」
紅天狗は銀色の輝く瞳で僕を見つめて低い声で言った。
ー共に戦おうー
僕の心に、その言葉を刻み込むように。
僕の体の変化が完全に止んだのを見ると、紅天狗は翼を広げるのをやめて爽やかに微笑んだ。
「今日話しておかないといけない事は全て話した。
続きは、また今度な。
カラス、来てくれ」
紅天狗は大声を上げて、袴の人を呼んだ。
静かな足音が聞こえきたので後ろを振り返ると、袴の人が黒い布に包まれた何かを大事そうに持っていた。
「今から、昌景と共に、異界に行ってくる。
門が開くから、皆んなを下がらせろ。
カラス、お前もな。
いつもの場所に、いろ。
そこを、動くな」
そう言った紅天狗の眼光は厳しかった。
「分かりました、主人様。
こちら言われていたお品です。
お気をつけて、無事を祈っております」
袴の人はそう言うと、黒い布を手渡した。
「ありがとな、カラス」
紅天狗がそう言うと、袴の人は微笑みを浮かべてから僕達が食べていた食器がのった盆を持って立ち上がった。
「桔梗を、昌景の部屋の花瓶に頼む」
紅天狗も立ち上がると、まるで大切なものを扱うように桔梗の花をそっと袴の人に渡した。
袴の人が頷くと、紅天狗は盆と花を持つ彼女が通れるように襖を開けた。袴の人は、足早に去っていった。
しばらくすると、大きな鴉が空を舞った。
山中に響き渡るような大きな羽音がすると、至る所から鴉の鳴き声が聞こえて騒々しくなった。
「俺達もそろそろ行こう」
紅天狗は黒い布を小脇に抱え、逞しい腕で刀の柄に触れてから歩き出した。
激しく降った雨は止み、僕達はぬかるんだ道を歩き出した。
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