天狗の盃

大林 朔也

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月夜 4

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 すると、しとしとと雨が降り始めた。
 僕の体にまとわりついている人間の世界の穢れを洗い流すかのように、冷たい雨が僕の体に打ちつけた。
 
 僕は、鬱蒼とした老木に囲まれた数百段もある階段を登りだした。
 階段を一段登るたびに足は重くなっていった。坂道を登っていた時よりもしんどく、どんどん歩みは遅くなっていった。
 そして、まるで走馬灯のように僕が今まで過ごしてきた日々が脳裏に現れては過ぎ去っていった。
 今の僕を形作っている出来事や感情が溢れてきた。
 僕の全てを曝け出させようとするかのように、その階段は僕を真っ白にしたのだった。

 階段を登りきると、黒色の門が見えた。

 僕の額からは汗が流れ落ち、荒い呼吸を繰り返していた。

 黒色の門の扉は、音もなく開いた。

「黒門だ。
 恐れることはない、中に入れ」
 空からまた低い男の声が響いた。

 僕は呼吸を整えてから、黒門に一歩足を踏み入れた。
 その瞬間、正面から凄まじい風が吹き付けてきた。
 足を踏ん張っていなければ、そのまま登ってきた数百段もする階段を真っ逆さまに転がり落ちていくところだった。
 ほどなくして風が止むと、重たくなっていた両足の疲れがなくなった。

 黒門をくぐり中に入ると、地響きのような凄まじい音を上げながら黒門の扉が閉まった。

 数百段もある階段を登っているうちに、日はすっかり沈んで夕闇が帳のようにおり、僕には周りがどうなっているのかよく分からなかった。
 音もない静かで暗い世界にきてしまったのではないかと思ったぐらいだった。
 
 僕が途方に暮れていると、大きな鴉が僕の目の前に現れた。

『もうすぐ主人様が戻ってこられる。
 ついて来い』
 大きな鴉の声がまた頭に響いた。
 そうするしかない僕は大人しくついて行くことにした。
 それ以降、大きな鴉は羽音を出さなくなったので、僕の足音だけが静寂の中で響いていた。


 しばらく歩くと、周囲の木の枝が風で激しく揺れ動きだし急に辺りが騒がしくなった。
 静かだったその場所に葉擦れの音が響き渡り、合わさった音は叫び声のように聞こえ出し、地面が揺れ動いた。

 大きな鴉は僕に何か知らせようと慌てて振り返ったが、突風のような風に吹き飛ばされ、一瞬にしていなくなってしまった。
 一方、僕は風に巻かれて高く舞い上がると、見えざる手に捕まったかのように体の自由を奪われ、なんらかの暗い建物の中に引きずりこまれていった。
 乱暴に床に叩きつけられると、大きな音を立てて建物の扉が閉まったような音が聞こえた。
 
 僕は何の灯りもない建物の中で横たわっていた。叩きつけられたせいで体が痛かった。
 骨が折れていないのと血も出ていないのが、せめてもの救いだった。

 締め切られた暗い建物の中で僕は横になったまま目を凝らしたが何も見えず、不穏な空気だけが流れていた。

 しばらくの間、僕はそのまま身動きもせずに聞き耳だけを立てていた。  
 僕の目には見えないが、もしかしたらこの建物の中に誰かがいて、僕を見ているのかもしれないと思った。
 物音がしたら、それとは別の方向に向かって、すぐに逃げないといけない。
 
 しかし、建物の中から物音が聞こえることはなかった。
 その代わり、建物の外から扉を叩く音がした。
 音は次第に大きくなり、扉を壊そうとするかのようにドンドンと凄まじい音が鳴り響いた。叩く音に混じって、獣のような恐ろしい吠え声も聞こえてきた。
 吠え声がどんどん大きくなっていくと、恐ろしい叫び声も加わり、火薬でも使ったような爆音と共に煙のような臭いが充満した。
 
 建物の中になだれ込んでくる沢山の大きな足音を聞くと、僕は小さく縮こまった。
 今すぐにでも立ち上がって逃げなければならないのだが、本当に恐ろしい出来事に遭遇すると人は何も出来なくなるということを、この瞬間はじめて味わった。
 体の震えが止まらなかった。
 何もせずにいれば、なだれ込んできた何者かに殺されるかもしれないが、恐怖に支配され何も出来なかった。

 しかしなだれ込んできた者達が、僕を見つけることはなかった。まるで、僕がそこに存在していないかのように。

「どこだ?」
「どこにある?」
 大声を上げながら、何かを必死で探しているようだった。

 何かを探し回る耳障りな大声が、建物中に響き渡った。
 苛立ちからなのか滅茶苦茶に物を壊す音、壁を引っ掻くような奇妙な音、暴れ回る音が響いた。

 その音はしばらく続いたのだが、ついに狂ったような男の笑い声が響き渡った。
 その瞬間、建物の中がとても寒くなった。ひどい吹雪の雪山にいるかのように、男の笑い声は何もかもを凍らせた。

「見つけた!見つけた!
 だが忌々しいことに、我等が決して触れられぬ札がついておる。 
 はて、どうしたものか…」 
 身の毛のよだつような恐ろしく冷たい男の声だった。

 その冷たい声は、僕をさらに縮こまらせた。
 見つからないよう、冷たい床に体がくっついたのではないかと思うほど、僕はジッとするしかなかった。全身を震撼させるような恐怖を感じた。

 それを感じていたのは…僕だけではなかった。

「お許しください!お許しください!」
 突然、泣き叫ぶ声が上がった。
 そしてガタガタと揺れ動く音、軋む音、何かが潰れるような音がした。

「何をなさるのですか!」
「おやめください!」
 あちこちから悲鳴と呻き声が上がり、逃げ回るような足音が響いたが、潰れるような音は一向に止まず、建物の中は鼻につくような嫌な臭いが充満していった。

 嗅いだ事もない臭いだった。
 嗅いではいけない臭いだった。

 その音と臭いは、強くなるばかりであった。
 それが強くなると、逃げ回る足音はどんどん小さくなっていった。

「最後に残ったのは、お前か。
 これこそ、鬼ごっこだな。しかし、この鬼ごっこは捕まれば死だ。
 なんだ?その顔は?  
 我の役に立って死んでいくのだ。名誉なことではないか?そうだろ?
 ソコに、手をついて引き剥がせ。先に逝った奴等と同じように」
 冷たい声の主がそう言うと、恐怖によって歯をガタガタと鳴らす音が聞こえた。

「どうか…お許しください…どうか…」
 命乞いをするかのような悲痛な声が響いた。

 すると、ピチャピチャと何かを踏みつける音が聞こえた。その度に嗅いではいけない臭いが充満した。
 僕は吐きそうになった。
 もう何の臭いなのかは見当がついた…これは、血の臭いだろう。

(この建物の中は死体と血にまみれているんだろう…。
 誰か…誰か…助けてくれ…こんな所にいたくはない)
 僕は「誰か」に助けを求めた。 
 いつもそうだったように……僕を助けてくれる「誰か」を求める事しか出来なかった。

 すると怒りに満ちた男の声が上がると同時に、耳を塞ぎたくなるような叫び声も上がった。

「腕が!腕が!!」
 ゾッとするような叫び声と共に、さらに臭いが充満した。 

 僕は体の中のものを全部吐いてしまいそうになった。
 暗闇の中で、何が起こっているのか推測した。
 恐ろしく冷たい声の主によって、他の足音を立てていた者達全員が殺されていたのだ。ガタガタと揺れ動く音は逃げ回る音、軋む音はむんずとつかんだ音、潰れる音は殺した或いは体が破裂した音だったのだろう。

 そう思うと、何かが右手に触れた感触がした。
 冷たくて、悍ましく、ヌルヌルとして、嫌な臭いを発しているモノだ。
 恐る恐る顔を上げると、真っ暗で何も見えないはずなのに白いモノがぼうっと見えてきた。
 それは形をなさぬほどにもぎ取られ破裂した腕の一部だった。

 建物の中は、ちぎれた腕や潰れた胴体が漂う血の海と化していた。

「やったぞ!ようやくだ!
 ようやく盃を手に入れた!」
 冷たい声の主が叫ぶと、僕は骨の髄まで凍る思いがした。


(今、ここにいるのは、この声の主と僕だけだ…。
 夢中になって探していた盃を手に入れたのだから、やがては僕にも気付くだろう。
 その場合、目撃者は殺される。生かしておく理由がない。
 酷い最期だ。
 よく分からない山の建物の中で、惨殺される。
 こんなのあんまりじゃないか…僕はまだ「何も」していない。
 何も…何も…ならば逃げなければ!
 死にたくない!)
 僕は震えて何も出来ない自分と戦わなければならないと思った。今こそ、戦わなければならない。
 何もせずに死ぬぐらいならば、最後の足掻きをしなければならないと思うと、体を持ち上げることができた。
 僕は扉があると思われる方向にむかって全力で走り出した。
 壊されたと思っていた扉は固く閉まっていた。
 僕は体当たりをするかのように扉に突進して、重たい扉を力尽くで開けた。

 すると、その勇気を讃えるかのように、輝く月の光が建物中を一気に明るく照らした。

 その光は、僕をさらに奮い立たせた。
 何が起こっているのかを推測ではなく、この目でしっかりと見なければならないと思い、後ろを振り返った。

 そこには何もいなかった。
 何もなかった。
 ただのガランとした、お堂だった。

(幻覚…幻覚だったのか…?)
 だが、ねっとりとした血は、右手にしっかりとこびりついていた。

「うわぁ!」 
 僕は服になすりつけたが、ソレは擦っても擦っても全くとれずに、右手から漂う悪臭がどんどんと酷くなっていった。

「すみません!
 何処にいるんですか?!
 すみません!」
 僕は必死になって先程の大きな鴉を呼んだが、大きな鴉の頭に響くような声は聞こえることはなかった。



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