天狗の盃

大林 朔也

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出発 3

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 実家に帰ると、見慣れない革靴が玄関にあった。
 白のローファーなんて父は絶対に履かない。誰なのかは分からないが、僕に帰ってくるように言ったのと関係があるのだろう。

「ただいま」
 僕は呟くように言ってから、両親とその客がいるであろうリビングに向かって歩き出した。

 すると、急に両親と男の声がし始めた。
 玄関を開ける音で、僕が帰ってきたことに気付いたのだろう。
 久しぶりに聞く母の甲高い声は、僕の心を暗くした。
 しばらくリビングのドアは開けずに漏れてくる会話を聞くことにした。少しだけ開いていたドアは、中に入らずとも会話がよく聞こえるようにする為なのだから。


 声の主は、先月「祝宴」で会った隣町に住む叔父さんだった。

 その「祝宴」に関係する話だった。

 僕達一族は、守護神として天狗を祀っている山を管理している。
 天狗が何を守護しているのかは、知らない。
 祀っているといっても、神社があるわけでもない。
 なんだか、よく分からない話だ。
 深く聞こうとしても、その管理を主にしている宗家の人が教えてくれない。「選ばれし者」以外は深く知ってはいけないらしい。
 山は禁断の地とされ、一族の中でも「選ばれし者」だけしか踏み込むことが出来ない。天狗の許しなく山に踏み込んだ者には、死が訪れる。
「選ばれし者」とは、天狗が放つ黒羽の矢によって一族の中から選ばれる。
 一族の家の屋根に天狗の手紙が巻かれた黒羽の矢が突き刺さると、その家から18歳を過ぎた若い男が「選ばれし者」として山に行かねばならないのだ。
 だが、山に行ったら最後、帰ってきた者はいないのだ。

 長い間、誰も選ばれていなかった。
 そもそも天狗なんて存在しないと思う者もいた。僕も、その1人だ。
 それなのに、叔父さんの家の屋根に黒羽の矢が大きな音を立てて突き刺さったのだ。
 黒い羽は驚くほど立派で手紙も巻かれていたので、叔父さんは震え上がりながら、宗家の当主に連絡したのだった。

「天狗様の御言葉は絶対だ。
 天狗様を怒らせてはならない。
 禍が降り注ぐ。
 すぐに、選ばれし者を山に迎わせなければならない」

 こうして叔父さんの一人息子が「選ばれし者」として山に行くことになったのだった。

 7月下旬に開かれた「祝宴」はその為だった。
 選ばれし者を山に送り出す為の盛大な祝宴が開かれた。
 終始、天狗によって特別に選ばれた叔父さんの息子を「一族の誇り」あるいは「名誉」として褒め称える宴だった。
 さらに宗家の当主から、何もかもを犠牲にして山に住むことになるので、多額のお金が渡されることになった。苦虫を噛み潰したような叔父さんの顔は瞬時に満面の笑みにかわり、あびるように酒を飲み始め、真っ赤な顔をしながら笑い出した。

 それなのに、今は肩を落としてソファーに座っていた。

「山に向かった息子と、連絡が取れなくなったんだ。
 山に入る前に連絡をくれといったのに…もう8月下旬になってしまった。
 一体、どうしたらいいのだろうか? 
 天狗の手紙に書かれていた用もあるしな」
 と、叔父さんは呟いた。

「それは大変ね。
 息子さんの事も気になるけど、手紙には何て書かれてあったの?」
 母は棒読みで言った。

「9月末までに、山に来い
 盃で、酒を飲む
 新しい札も持ってこい
 札は、宗家の者に聞けば分かる
 そう書かれていたよ。何が何だかサッパリ分からないけどね」
 と、叔父さんは答えた。 

「他には?」

「山に入ってからの道順が書かれていた。
 あぁ…どうしよう…このままでは恐ろしい禍が降り注ぐかもしれないな。困ったよ…本当に困った。
 新しい札は、ここにあるのだが…ワシでは歳をとり過ぎているからな」
 叔父さんは大袈裟なほど深くため息をつきながら言った。


 叔父さんは自分の息子の代わりになってくれる男を探して、18歳を過ぎた若い男が2人いるこの家に相談に来たのだろう。
 否、相談ではなく、どちらかが行ってくれという話だ。
 そして男が2人いるといえども、どちらかは既に決まっている。 
 テーブルの高級そうな紫色の布の中に、その新しい札とやらが入っているのだから、宗家の当主の許しは出ている。
 黒羽の矢によって選ばれし者ではないが、誰も行かないよりかはマシだと考えたのだろう。たとえ僕が殺されることになろうとも。

「困ったわね。
 このままだと、一族皆んなに迷惑がかかるわ…でも昌信は立派な就職先が決まっているのよ。
 あんなところは「優秀な子」じゃないと入れないのよ。
 これから先も、昌信は沢山の人から尊敬され必要とされ続けるのだから無理よ。絶対にダメ。
 昌信は、社会の為にも必要なの」
 母は廊下にも聞こえるように大きな声で言った。

「そうだな。昌信は、いかん。
 あの子はしっかり働いてもらわねばならん。
 選ばれし者は「一族の誇り」ではあるが、昌信はやれん」
 と、父は言った。
 

「そうか…昌信君は無理か。
 でも…宗家の当主から今日中には決めろと言われているからな。
 昌信君はダメか…ならば当主になんて言おうか…。
 昌信君が無理なら…困ったな。ならば引き受けてくれる…立派な子は他にはおらんものかね?」
 と、叔父さんは言った。


 酷い芝居だ。


 僕は、ただ呆れていた。
 これ以上、この茶番劇に付き合わされたくはない。
 叔父さんがいるので両親は僕に無理強いはしてこないが、もう僕の未来は決まっている。

 大学生活に少し未練はあるが、兄には幸せになって欲しい。
 僕が強制されて山に送られたとなれば、兄は悲しむだろう。
 今まで僕を守ってくれた兄には笑顔でいて欲しい。それに兄には守らねばならない人がいる。
 僕が自分から山に行くことで、今まで守ってもらった恩を返せる。 
 自分で、その道を、選びたい。
 初めて、僕が、兄を守るのだ。

 そもそも天狗なんて伝説上の存在だ。
 今は、21世紀だぞ。そんな者が本当に存在していたら、もっと世間で騒がれているだろう。現実世界には、天狗は存在しない。
 きっと宗家の人が自分達の代わりに、山の管理を代わってもらいたいとか、そんなところだろう。だから、詳しく話さないのかもしれない。

 それに僕は自然が好きだから、のんびり山で暮らすのもいいかもしれない。
 山は遠い場所にあるし、携帯も使えない。
 両親と完全に離れられるし、もう連絡が来る事はない。
 大学生活以上に、新天地で、何かが大きく変わるかもしれない。


 

 僕はリビングのドアをノックしてから、静かにドアを開いた。実家ではあるが居心地の悪い他人の家のように。


「今、帰りました。
 ずっと廊下で立ち聞きしてました。
 山には、僕が行きます」
 僕はドアを開けるなり、そう言った。
 余計な話をすることなく、さっさと話を終わらせたかった。


 すると、両親は満面の笑みになった。

 計画は、思い通りになった。
 兄を守れるし、両親にとっては何の自慢にもならなかった弟が「一族の誇り」になる。

 そうだ…ずっと前から分かっていた。
 この人達にとって、子供の人生とは親のものなのだ。親の望み通りに生きなければならない。
 親の価値観にそわなければ認めない。期待に応えなければ許さない。そうでない子供には価値がない。
 本当に、狂っている。本当に、クソだ。
  


「まぁ!昌景!
 いつのまに帰ってたのよ?遠いところ疲れたでしょう?
 話に夢中になっていたから、気づかなかったわ。
 偉いわね。やっぱり昌景も、私の自慢の息子だわ。
 昌信も喜ぶわよ!自慢の弟をもったって!」
 と、母は満面の笑みのままそう言った。


「偉いぞ!昌景!
 お前は、一族の誉れだ!」
 と、父も大声で言った。


「兄さんが喜んでくれるなら、僕も嬉しいです」
 と、僕は言った。

「昌景君!ありがとう!」
 叔父さんも笑顔を浮かべて、手を差し出してきた。

 腕には誰もが一目でわかる高級ブランドの金の時計がしてあった。
 この前の祝宴ではしていなかった時計だ。日本人なら誰でも知っているという理由だけで選んだのだろう。
 本物なのだろうが、偽物のように胡散臭く見えた。
 時計自体は本当に素晴らしい。熟練した職人が魂を込めて作ったのだから本来は光り輝いているはずなのだが、ここまで品のない男にされると悪目立ちするだけだった。  
 職人と時計が可哀想だ。今すぐ質屋にでも売っ払って、持つべき人が持った方が喜ぶだろう。この男の時を刻むことになった時計に、謝りたい気持ちになった。

(お前達のためじゃない…兄さんの幸せの為だ…)

「務めを果たさなければなりませんから」
 僕はその手を握ることなく言った。


「宗家の当主が言うには…急いだ方がいいとの事だから…」
 叔父さんがそう言うと、両親もウンウンと大きく頷いた。
 僕の気が変わらないうちに、さっさと追い出すつもりだろう。
 
「いいですよ。
 すぐに出発します」
 と、僕は言った。

「ありがとう。
 ワシの息子のせいで、すまないね。
 ならば明日にでも出発してくれないか?列車もいい席がとれていることだし」
 叔父さんは薄汚い笑顔を浮かべながら、鞄の中から白い封筒を取り出した。
 もう、全ての準備が出来ていた。


 叔父さんの瞳を見つめると、その瞳は濁りきっていた。

 本当は一人息子を行かせるのなんて嫌だったのだ。息子も贅沢好きだったから山に行くのが嫌でたまらなかった。
 けれど、宗家の当主の言葉には誰も逆らえない。言うことを聞くしかなかった。
 ところが祝宴で多額の金が貰えたので状況が変わった。僕の両親と取引をしたのだろう。僕の両親とは表面上は仲が良かったから。
 両親は金と引き換えに僕を身代わりにしたのだ。
 何の自慢にもならない息子が「一族の誇り」になって「金も手に入る」のだから、これ以上の事はない。僕は兄のような一流企業には就職できないのだから、両親が思うところの価値がないのだ。ならば、一族の誇りとして親戚中から褒め称えられる方がマシだと思ったのだろう。
 叔父さんの息子は、今頃は彼を知っている者の目がない場所で贅沢に暮らしているのだろう。
 父親の時計とこの件で金は使われたが、生涯遊んで暮らせるような金が手に入っているのだから何も心配することはない。
 貰った金をどう使おうが自由だが、こんなに早く散財してもいいものなのか、身を滅ぼしはしないかと僕は少し疑問に思った。

 
「そういえば…兄さんは?
 兄さんも帰ってきてるんだよね?」
 僕は話を逸らした。
 兄はこの事を絶対に知らない。
 東京にいると分かってはいたが、嫌味の気持ちをこめて聞くことにした。

「昌信は来ないわよ。忙しいみたいでね」
 母はそう言うと、すぐに話題を変えた。


 その日は、実家に泊まることになった。
 両親は兄もいないのに寿司を頼んだ。
 ナマモノに初めてあたりそうな気になりながら、ひたすらハイボールを飲み続けた。両親と叔父さんの話はつまらない。誰かの悪口か噂話ばかりなので、飯が不味くなる。それに叔父さんが商談している高級車の話だった。この男は…どこまで金を使うのだろうか…。
 僕は酒に強いから酔わないのだが酔ったふりをして早々と立ち上がると、自分の部屋へと向かった。

 久しぶりの部屋だった。少し埃ぽかった。
 明日の出発に向けて、まだ着れそうな服や本などを鞄に詰めた。

 時計の針が22時を過ぎた頃、僕はベランダに出て夜空に浮かぶ月をしばらく眺めた。
 月を眺めるのが好きだった。
 月の光は穏やかで、優しく僕を照らしてくれる。月の眩さは、僕が抱える苦しみを、見上げている間だけでも忘れさせてくれるから。僕を優しい光で包んでくれる。この光を見る為に、僕は生きているのかもしれないと思うことすらもあった。

 心ゆくまで月の光を堪能してから、僕は夜風に吹かれながら、何も知らないであろう兄にメールを送った。
 今宵の月を、兄も同じように見ていてくれるかもしれない。そう思うと、何故か幸せな気持ちになった。もう、兄と会えなくなるかもしれないが、同じ空の下でずっと繋がっている。

 僕は部屋に入ると、冷えた体を温めるように、ベッドに潜りこんだ。

 
 僕は不思議な夢を見た。



 軒下で、男が酒を飲んでいた。
 男は、影のようであった。
 左膝を立てながら、手にした盃を時おり口に含み、逞しい腕を伸ばして、隣にいる女の華奢な肩を抱きよせた。
 長い時間をかけて口付けを交わすと、男は満足したように女の顔を見て微笑んだ。
 だが大きな木の影が濃く落ちて全てをのみこむと、辺りは一変した。
 今度は、全く違う光景になった。
 燃え上がるような炎を全身に帯びた男の後ろ姿。
 腰には刀を差し、背には闇のような漆黒の翼。
 男が見つめているであろう視線の先は、荒れ狂う真っ赤な炎。
 男は、烈であった。
 全てを無に化えていく。
 男は、何も残さない。
 それでもなお足りぬとばかりに、手には扇を持ちながら、暴れ回る鷲のように激しく舞っていた。

 男が僕の方をゆっくりと振り返った。
 辺りが炎と煙に包まれているせいで顔がよく分からないが、その手に握る扇をかざすと、稲妻が暗黒の空に走り、何度も雷が落ちた。
 大地を揺るがし、さらなる炎が地を飲み込んでいった。

 僕は叫び声を上げて恐怖に震えながら目を覚ましたが、目を開けた瞬間に夢の記憶は燃え盛り塵となって消えていった。
 残されたのは、体に深く刻まれた恐怖と熱さだけだった。

 時計は、午前2時をさしていた。


 
 午前8時に、僕は出発することにした。
 これ以上家にいても仕方がないし、早く出て行きたい。
 寝台列車に乗らないといけないのだが、寝台電車に乗る為には、別の電車に乗らないといけない。

「駅まで送っていこう」
 僕に優しくしてくれる両親を振り切って、家を出て行った。

 両親が僕に代わって、大学の手続きとアパートの解約と荷物の処分の全てをやってくれる。他には何もしてくれなくていい。
 アルバイトは先日もっと時給のいいところにしようと思い、既に辞めていたのでちょうど良かった。
 電車に揺られる時間は長かったが、いるはずもない天狗についてあらかじめ調べようとは思わなかった。

 電車での移動中に何度も携帯が鳴ったので、僕は寝台列車が駅のホームに来る前に、兄に電話をした。
 
「昌景!
 俺、昌景の連絡が来るまで何も知らなくて。
 お前だって大学があるのにごめんな。将来の夢もあっただろう?やりたい事も一杯あっただろう?
 それなのに…こんな…両親に強いられたんじゃないのか?
 俺がいたら…こんな事には…本当にすまない。
 ちゃんと話し合って、どちらが行くか決めなければならないのに…ごめんな…ごめん…」
 兄は悲しい声をしながら言った。これほど悲痛な兄の声は聞いたことがなかった。

(やっぱり、知らなかったんだな)
 その時、母の顔が頭に浮かんだ。

「兄さん、いいんだよ」

「良くないだろう!
 本当に、お前は、それで良かったのか?
 それは、お前が、選んだ道なのか!?」

「いいんだよ。
 これは、僕が、選んだ道だ。
 もともと自然は好きだから、山の生活を楽しんでくるよ。
 それに宗家の人から金も貰えるしね。使える機会があるのかは分からないけど、僕の銀行口座に振り込まれるらしい。
 兄さんと会えなくなるのは悲しいけど、僕は僕の役割を果たすよ。
 兄さんは、卒業したら、仕事頑張って。
 大切な人…つまり…その…彼女さん大切にしてあげて。
 幸せになってね。
 2人はお似合いだから。
 離れてしまうけれど、ずっと兄さん達の幸せを祈ってる。
 結婚式に行けないのは悲しいけどね」
 僕はおどけた声を出した。
 
 
「昌景…ありが…とう…」
 兄が震えた声で言ったので、僕は兄が泣いているのではないのかと心配になった。

「これで、ようやく自由になれるんだ。
 あのヒステリックな声を聞かなくてすむからさ。
 僕は自由になったんだ。
 兄さんの言ってたような僕の輝ける場所が山なのかもしれない。
 あっ…山は携帯が使えないから連絡は出来なくなると思うけど」
 と、僕は言った。

「そうだな…連絡…出来なくなるな。
 あの…さ…俺にとっての家族は昌景だけだったよ。
 離れても…これからもずっと大切な弟だ。
 体、気をつけてな。
 お前、月を見るのが好きだったよな?
 だからさ、離れていても夜空に浮かぶ月を見るたびに、同じ月を見ている大切な弟の事を思うよ。
 互いを思い合いながら、同じ月を見よう。
 昌景、俺はお前が大切な人に出会えるのをずっと願ってた。
 いいや、今も願っている。
 恋人でも、友達でも、一生共に過ごしたい誰かに出会えるのを。
 そんな人と出会えたら、何があっても頑張れる。
 自分を、築ける。
 なかなか、いいもんだぞ」
 と、兄は言った。

 もう聞けなくなるかもしれない兄の声を聞いていると、胸がだんだん苦しくなってきた。もう最後かもしれないのだから、自分の気持ちを伝えておかなければならないと思った。

「僕さ、ずっと完璧な兄さんに憧れてた。
 まさにヒーローだったんだ。僕のヒーロー。
 だから…ずっと…憧れの存在でいて欲しい。
 その背中を見ていたんだよ。
 僕も兄さんのようになりたかった…」
 僕の目からとめどなく涙が流れ、声が震えてしまった。
 
 兄は、しばらく黙っていた。

「俺も、昌景にいっぱい救われていたんだ。
 お前が俺を必要としてくれたように、俺もお前が必要だった。
 お前が側にいてくれたから自分を保てたんだ。
 昌景、いろいろ辛かったな。ようやく自由になれたな。
 お前は俺の大事な弟だ。俺の自慢の弟だ。だから自信を持て。
 俺は刈谷昌景だ!と、その名を叫んでいい男だよ」
 兄、刈谷昌信はそう言ったのだった。

「兄さん…ありがとう」

「俺の方が、ありがとうだよ。
 昌景、ありがとう」

「僕は、何もしていない。
 いつも兄さんの陰に隠れていただけだ。
 それじゃ、また」

 すると兄はハッキリとした声を出した。

「昌景、俺が俺でいれたのはお前がいてくれたからだ。
 俺は、心の支えが必要だった。
 それが、お前だった。
 弟を、お前を守らなくてはいけないという一心でここまでやってきた。
 背中に隠れてたんじゃない、背中から支えていてくれたんだ。
 ありがとう、昌景」

 その言葉が嬉しくてたまらなかった。

「兄さん、僕もありがとう。
 行ってくるよ!
 じゃあ、また!」
 最後に僕は元気な声で言った。

 ホームに入ってくるけたたましい列車の音がしたので電話を切り、僕はドアが開くと列車に乗り込んだ。
 
「また」なんて言ったが、そんな日が来るかどうかもわからない。 
 けれど、兄が僕に対して「申し訳ない」と思う気持ちを残したくなかった。兄は優しい男だから…きっと心に蟠りが残るだろう。
 兄には、幸せになってもらいたい。大切な僕の家族なのだから。
 だから心から望んで行ったのだと思ってくれたのなら、僕は嬉しい。


 知った街並みがどんどん遠ざかっていく。
 やがて明かりがつき始め、煌びやかな夜景へと変わっていった。
 暗くなり眠気が襲ってくるまで、僕は、ただ見つめていた。


 この時、外の景色を見ながら、不思議な気持ちを抱いていた。
 そう、ヒーローは何もせずにヒーローになれる訳じゃない。僕は、その眩しすぎる圧倒的な光ゆえに、大切な事に気づいていなかったのだ。
 なんと言えばいいのか…この時はまだ分からなかった。
 それが分かるのは、まだまだ先の話である。


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