天狗の盃

大林 朔也

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出発 2

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 弟の高校生活が始まると、以前にも増して兄の制服が両親には輝いて見えたのだった。両親が僕を見る目は冷たくなるばかりだった。兄を見る目と比較すれば誰でも分かる。
 食卓はいつも兄の話…最後には僕に対する小言が始まると兄が言い返してくれる。  
 僕は何も言わずに口の中に食べ物を押し込んで、その言葉を聞いているだけだった。押し込み過ぎた食べ物で喉が詰まっていたわけではないが、喉が焼けたような感覚になって、どうしても声が出なかった。

「昌信は、本当に凄いわ。
 昌信は、私の自慢の子だわ」
 と、何度言われたか分からない。

 もちろん兄を妬むことはなかった。そんな事は筋違いだし。
 優秀な兄を僻んだところで、僕自信は何も変わらない。それになにより、自分を、そこまで貶めたくはなかった。
 兄が僕を大切に思ってくれているように、僕も兄を心から大切に思っているのだから。


 月日が流れ、兄が東京の名門大学に進学して実家を離れると、両親の僕への態度はさらに苛烈になった。矢のように降り注ぐのは、思い出すのも辛いほどに残酷な言葉だけだった。
 今でも、体が震えてしまう。
「昌景なんて、産むんじゃなかったわ。
 昌信と全然違うのよ。何の役にも立たないし…ほんと…困ったものだわ。
 一族の中にあんな子がいるなんて…それも私の息子だなんて…屈辱的だわ」
 高校から帰ると、母は電話で誰かにそうこぼしていた。
 その言葉のショックは…あまりにも…おおきかった。
 僕の存在が親に否定されたのだ。自分を産んだ親に否定された。
 惨めだった…僕は怒りよりも自分自身を惨めに感じた。涙も…出て来なかった。

 そうして両親という名の恐ろしい者達は、ヒーローがいなくなり僕だけになると容赦する事なく攻撃を始めたのだった。残ったのは、武器も持たず何も出来ない小さな男だけなのだから…すぐに炎に包まれて陥落した。

 当然…だ……?
 僕自身は…戦おうとしなかったのだから。
 身を守る為の盾も剣も持とうとしなかったのだから。

 ヒーローが掲げ続けてくれた光を守る努力をしなかったのだから。

 ヒーローは1人1台のロボットでもなければ、永遠に側にいてくれる存在でもない。ヒーローが助けなければならない人達はいくらでもいる。それにヒーローにもヒーローの人生がある。
 だが、僕は甘えて胡座をかいていた。
 いつまでも側にいてくれると、自分は何もしなくても守ってくれると思っていた。圧倒的な力を持ったヒーローに全てを押し付け、自分では何もしなかったのだ。
 希望の光を掲げてくれたのに、僕は自ら立ち上がろうとはしなかった。主体性がなければ光は消えてしまう。
 そう、僕が自ら光を消したのだ…。



 大学の長期休みに入り兄が実家に帰ってくると、沈んだ顔をした僕を家の外に連れ出し、カフェに連れて行ってくれた。兄は周りに人がいない横並びの席を選ぶと黙って腰掛けた。
 運ばれてきた珈琲のいい香りがすると、兄は僕の肩をポンポンと叩いた。
「どうした?何があった?」
 僕が何も言わないので、兄の方からキッカケを作ってくれた。
 僕はポツリポツリと話し始めた。

「昌景…もう、ダメだ。
 あの親にはもう何も届かない。
 俺が出て行ってから、そんな事になってたのか…。 
 話しても分からない人間っていうのは、いるんだよ。分かろうとしない人間っていうのが必ずいる。自分と同じ価値観や考えを押し付けてくる人間っていうのがいるんだ。そういう奴ほど変わらない、変われない。
 あんなのでも両親だから分かって欲しかったけど、もう…ダメだな。
 親なら子供に何を言ってもいいわけじゃない。親は子供の成長をサポートするべきなのに、それを潰しているとはな。
 お前の心を…考え方を歪ませている。お前は何も悪くないのに、自分が悪いと囚えている。
 昌景、このままだと抜け出せなくなり、魂まで殺されるぞ。
 お前も、家を出ろ。
 実家からは通えない大学にするんだ。
 お前は、別の場所でなら輝ける。光を消すんじゃない。お前の可能性が消えてしまう。
 両親の為に、お前の人生を犠牲にするな。
 お前は、お前の人生を生きろ。
 俺は弟の幸せを願っている。俺の大好きな弟の幸せを、誰よりも祈っている。
 俺も俺の人生を生きる。
 その為に武装したんだ。絶対に、守り続ける」
 兄は力強い眼差しで、弱りきった弟の横顔を見ながらそう言ったのだった。

 
 僕は外での自分の居場所を大切に守ることにした。
 友達と遊ぶ時間は楽しくて、恋人とデートをする時間は本当に幸せだった。その時間に感謝しながら、勉強に励むことにした。
 優秀な成績で通れば大学の学費が免除される。
 兄と遊びに行った京都の街並みが綺麗だったのと、梅田も神戸も観光して楽しかったので、僕は遠い関西の大学を目指す事にした。東京にすると、僕はまた兄を頼ってしまうだろう。

 念願の関西の私学に合格すると、兄は心から喜んでくれた。
 楽しくて自由な大学生活が始まり、ため息をつきながら家に帰ることもなくなった。アルバイトで多少嫌な思いをする事があっても、存在自体を否定してくる両親の言葉に比べれば何もかもがマシだった。

 独り暮らしの様子を両親が見に来る事はなかったが、兄は大学が長期の休みになるとアルバイトの合間をぬって泊まりにきてくれた。兄も実家に帰ってくる時とは違って、本当に楽しそうな顔をしていた。目を細めながら彼女の写真も見せてくれた。2人とも幸せそうな笑顔を浮かべていた。

「彼女といると癒されるんだ。
 愛しくてたまらない…この手で幸せにしたい。大学を卒業して、仕事が落ち着いたら、結婚したいと思っている」
 兄は2人で共に築いていく幸せな家庭を思い浮かべると、優しい表情になった。その表情を見ているだけで、彼女を心から愛していて、誠実に生涯妻だけを愛しぬくのだと分かった。その努力も惜しまないだろう。


 こうして、僕の大学生活は順調に過ぎていった。
 両親からの連絡はなく、実家に帰ることもなかった。
 だが、大学2年になると一族が集まっての「祝宴」が7月下旬に開かれることになった。僕は久しぶりに両親と会ったが、ほとんど何も喋らなかった。次に会うのは僕の就職先が決まった時ぐらいかと思っていたのだが、母から「家に来て欲しい」と8月の終わりに連絡があった。
 聞いたこともないような猫なで声だった。
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