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エピソード2『ノア・リオットの事情』
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ノアは、由緒正しき貴族リオット家で生を享けた。
貴族の母親の胎内から出ずる光の球から生まれしその姿は、金髪碧眼が常である。
しかし、光の球に浮かぶ幼い姿は黒髪。
ゆっくりと開いた瞳は黒曜石のような黒色。
そして、あろうことか純白であるべきその両翼までもが漆黒だった。
それはどこからどう見ても忌まわしい『悪魔』の姿でしかなかった。
父親は一族の恥であるノアの存在を隠蔽するため、屋敷の地下牢にノアを封じた。
生まれた時から成体である下級天使と違い、膨大な光力を有する上級天使は、本来ならば幼体で生を享けた後両親に護られ三日間を経て成体となる。
生誕間もないノアは抗う術を持たなかった。
地下牢には光力を封じる術が施されており、成体に変化した後も脱出は叶わなかった。
「なんで……」
ノアは悲しかった。
生まれ出でたノアが初めて見た光景は、己に向けられる恐怖と悲鳴、絶望の眼差しだった。
「悪魔だ。捕らえろ!」
覚醒めるなり父親らしい男が叫んだ。
ノアは己の名を名乗る機会すらも与えられぬまま『悪魔』と呼称された。
「穢らわしい悪魔の子……!」
「名門リオット家の面汚し」
薄暗い地下牢に閉じ込められて十日ほどしてから女性がやって来た。
「私は悪魔となんか通じてない。誰も信じてくれない。どうして私がこんな目にあわないといけないの……! お願い消えてちょうだいッ。お前なんて生まれてこなければよかったのよ!」
地下牢の鉄柵を握りしめて、金髪を振り乱して泣き叫ぶ女性が母親だと気づくのに時間を要した。
美しい女性だったのに、随分とやつれて見る影もない。
かける言葉も見つからない。
「堕天使になるくらいなら、死んでやるわ……!」
息を呑むノアの前で、母親は短剣で喉を突いて倒れた。
駆け寄ろうとしたが手足を拘束する鉄枷と鎖がそれを阻んだ。
真っ赤な鮮血が視界を塗りつぶしていく。
「うわああああああああ――――ッ!」
気がつくと叫んでいた。
膝をつき石畳を拳で何度も何度も殴りつけた。
いつまで叫んでいただろう。
分からない。何もかも、分からない。
いつしか、全てを呪うようになった。
こんな世界などなくなってしまえばいい。
全部全部ぶっ壊してやる。
光も通さない地下牢でただ蹲って膝を抱えて過ごした。
母親の遺体は気がつくと運び出されていた。
それ以降、誰も会いには来なかった。
貴族ならではの強過ぎる光力のせいで、飲まず食わずでも死ぬこともなくただ悔しさで涙を流した。
――――孤独な年月が過ぎた。
貴族の寿命は千年だという。
なんと気の遠くなる地獄だろう……。
ノアはいつしかほとんど眠って過ごすようになった。
寝ていると腹も減らないし、孤独に苛まれることもない。
それに、……夢がみられる。
夢の中では、ノアは独りではなかった。
愉快な仲間たちに囲まれて、誰にも告げることなく終わった己の名を明るく呼ばれていた。
優しい手がノアのアタマを撫でて、抱きしめてくれる。
眩しくて顔は見えないけれど、その優しい手が好きだった。
そのひとが己の名前を呼んでくれる響きに胸が高鳴った。
そのひとだけはトクベツで、ノアはそのひとが大好きだった。
もしもこれが来世なら、ノアはこのひとを護るために生きたいと、そう思った。
――――そんなある日のことだった。
屋敷が火事になったのだ。
地下にまで火の手が回り、眠っていたノアの身体はたちまち炎に包まれた。
それは熱くもなくノアを傷つけることのない不思議な藤色の炎だった。
その時に地下牢に刻まれた術が燃え落ちた。
眠りから醒めたノアの黒い瞳が輝き身体中に光力が迸る。
長い間封印されていた光力が解き放たれて、ノアは手足の鎖を引きちぎり咆哮をあげて光力を解放した。
「うわああああ――――ッ! 地下牢の悪魔が逃げたぞ!」
「ひいいいいッ。生きていたのか!?」
「この炎で封印が解けたんだッ」
逃げ惑う使用天使たちの悲鳴が聞こえたが、たちまち業火に包まれた。
ほとんど全焼していた屋敷はたちまち吹き飛び、夜空に舞い上がったノアはバサアッと黒い両翼を広げた。
『地下牢の悪魔が逃げたぞ!』
『生きていたのか!?』
(二百年ぶりに聞いた言葉がコレか……)
不思議と分かるもので、あれから二百年の歳月が経過している。
(デモン……、それがオレの名前か)
どうやら今世では夢のようにはいかないらしい。
見下ろすと己を忌み嫌った一族が屋敷ごと燃えている。
一体何事だろうか。
これでは誰も助からないだろう。
「……ハッ! ざまあみやがれッ」
思わずそんな悪態が口をついて出た。
身体中を破壊衝動が駆け巡るのを感じた。
久方ぶりの自由を得て、ノアは大声で笑いながら夜空を駆けまわりこの世の全てをドカンドカンと破壊し尽くしてしまいたいと思った。
無性に大暴れしてスッキリしたい。
ぎゅっと握りしめた己の拳を見る。
身体中にみなぎる膨大なエネルギーを感じる。
封印が解かれた今感じるのは、己はおそらく……強い、という確信。
(そうだ。このまま、天界など滅ぼしてしまおうか)
己を『悪魔』だと呼ぶのであれば期待に応えてみせようではないか。
天界の君主の首を手土産に魔界に移住するのも面白いかもしれない。
ココよりはずっと住みよいだろう。
(そうだ。こんなくだらねー天界、全部全部ぶっ壊してやる!)
そう決めた瞬間だった。
「……驚いたな」
耳に心地よいテノールが響いた。
ぎょっとして顔を上げると藤色のとてもとても長い髪が夜空に舞った。
それは先ほどの炎と同じ彩だった。
ノアはその美しさに一瞬で目を奪われ、アタマの中が真っ白になった。
純白の多翼を広げて白い長衣を纏った長身の天使が宙に浮かんでいた。
(な、なんだコイツ。全然気配がしなかった……!?)
「なんだ、テメーは……ッ」
慌てて身構えるノアを青紫色の切れ長の瞳がじっと見つめる。
ノアはすぐに理解した。
(……上級天使だ。それもとびっきりの!)
天使の光力と美貌は比例する。
ノアはこんなに美しい天使を生まれて初めて見た。
支配階級のそれだとすぐに悟る。
彼の身に纏う強過ぎる光圧に気道が押し潰されそうになり、ノアは慌てて飛び退き距離を取る。
「まじか……ッ」
やっと自由になれたというのにもうお出ましか。
冗談ではない。
確かにこの世界を破壊してやろうとは思ったがまだ実行には移していない。
(オレは無実だ……ッ)
そう言っても聞いてもらえそうにない。
なんせ、どう見ても怪しい全身真っ黒なこの容姿。
そして、燃え盛る貴族の屋敷。
(ん? ……ちょっと待ってコレ、オレがやったようにしか見えねーんじゃ……)
うわあ。いきなり詰んだ。
またとっ捕まって牢屋行きか。いや、処刑される可能性も十分にある。
(冗談じゃねーぞ!)
コレはもういっそコイツの首を持って魔界に移住するしかない。
(でも、コイツ強そうだ。勝てっかな……ッ?)
ノアは身構え、やたらたくさん翼の生えた天使をキッと睨みつけた。
天使の翼の数は上位天使になればなるほど多いんだっけ。
ノアは生まれてすぐに二百年間地下牢に閉じ込められていたとはいえ、言語や世界の仕組みなどそこそこの常識は生誕時に身についている。
天使は翼の数で階級、つまり強さが分かるのだ。
んじゃま。とりあえず数えとくか。
(えーと。……いち、にい、さん、しー、ごー)
(…………え? ろく!? ろろろ六枚……!?)
「ハアアアア~~ッ? オマエ六枚ってなんだよ。そんなのアリなのか!?」
思わず叫んでしまう。
六枚もの翼を持つ存在はこの世にひとりしかいない。
最高上位天使……、そのひとだ。
天界の君主がいきなりお出ましとか、ノアはトコトン運がないようだ。
ノアの腰に生えた黒い翼はどう数えても二枚。
「ハッ。オレよか三倍強え~ってのかよ。上等じゃねーか!」
どうせ、暴れたくてうずうずしていたのだ。
二百年分大暴れしてやる。
一番強いヤツを倒してこの世界に君臨するのも悪くない。
ノアは己をじっと見つめる感情の読めない六枚翼に向かって、ピッと人差し指を立ててバアーンと突きつける。
「おい、オマエ! ……いいか、よおおおく聞け。今からオレがオマエを~」
(ブッ倒す!)
大声で宣戦布告しようとするなり白い羽根が舞った。
「セラフィム様……ッ! 供も連れずにこんなところで一体何を……!」
バサアッと白い翼が音を立てて、たちまち頭数が増えた。
「やあ、ケルビラ」
(げっ。今度は四枚翼……だとう!)
ノアは目を剥いて息を呑んだ。
「なんですか、この全身真っ黒な邪悪なのは」
ケルビラと呼ばれた澄ました片眼鏡野郎は、セラフィムと呼んだ主を庇うように前に出て、心底穢らわしそうにノアに向き直りそう言った。
(じゃあく……。コイツ今オレのこと邪悪って言った!)
「テメー……、やんのか!」
ノアは初対面だが既にこの片眼鏡がキライだ。
「セラフィム様、ご無事ですか」
また、バッサバッサと羽ばたきが聞こえ、視界が白い羽根で掻き乱される。
(うげっ、また増えやがった!)
「よく此処が分かったね、オファニエロ」
「貴方が報告書にサインする間目を離したのが間違いでした。いくら退屈だからといって御身自ら出向くような案件ではないでしょう」
オファニエロと呼ばれた細目のウェービーヘアは、六枚翼の傍らに舞い降りると呆れたようにため息をついてそう言った。
(コイツも四枚翼。上位天使か……ッ!)
こう次々と湧いて出られてはどう考えても分が悪い。
隙を見て逃げるか!
「置きっぱなしの調書を見ました。燃えているのは悪魔を匿っていたというリオット家ですね。……この炎は貴方が?」
「ああ、当主とは分かり合えなかったものでね」
(は? コレ、コイツがやったのか?)
なんでもないことのように穏やかに返答する六枚翼に、ノアは背筋にぞくりとしたものを感じた。
「それで、この悪魔を今から粛正するわけですね。セラフィム様のお手を煩わせるまでもありません」
片眼鏡がそう言って気色ばむのを、六枚翼が片手を上げて制した。
「待ちなさいケルビラ。すぐに見た目で判断するものではないよ。……オファニエロ、君の出番だ」
「はい。セラフィム様」
促され一歩前に出た細目は、橙色のウェービーな長髪を靡かせながらゆっくりと開眼した。
瞼の奥に隠された翡翠の瞳がノアをまっすぐに射貫く。
「……なっ」
(なんだ、コイツ。細目かと思ったら閉じてただけかよッ!)
ノアは魂までも見透かすようなその目映い眼光にたじろぎ思わず腕で目を覆う。
「――――彼は『悪魔』ではありませんね」
オファニエロと呼ばれた上位天使がハッキリとした口調でそう告げた。
「なん、だと……!?」
片眼鏡が淡い褐色の髪を乱して、とても信じられないといった表情で緋色の瞳を見開いた。
「オファニエロの心眼が間違えたことがあるかい? 彼は姿は違えど、間違いなく。……我々と同じ『天使』だよ」
その台詞にノアは目を見開いた。
(ほんとに……?)
自分でさえ分からない己の正体を、ハッキリと善だと断言されて、ふわっと胸があたたかくなった。
(オレは……、悪魔じゃなかった?)
「そして、この者はたった今。私の炎に包まれた屋敷の奥から出て来た」
「……なっ!?」
上位天使たちが息を呑んでノアを見た。
信じられないモノを見るようなその視線にノアは不快げに眉を寄せる。
「なんなんだ、テメーら……ッ!」
さっきから何を驚いているのか。
「私の『聖なる炎』で傷ひとつ負わない者がいるとはね。よほど無垢なのか、それとも……」
全てを見透かすような青紫色の眼差しが探るようにノアの全身を辿っていく。
形の良い唇から発せられた言葉の意味が分からない。
逃げた方がいい気がするが、どうにも悔しくてそこに踏み切れない。
ノアはただ息を呑んで半身後退し身構える。
スッと六枚翼が白い手袋をした手を掲げた。
その眼差しに冷徹な光が宿る。
(――――攻撃される!)
ノアは野生動物のように殺気を察知した。
六枚翼のそれはまるで息をするように自然で凪いだ殺気。
眉ひとつ動かさずに己は消されるのだろう。
リオット家のみんなのように。
己を忌み嫌った一族に情の欠片などありはしなかったけれど、この美しくも残酷な絶対君主に対して腹の底から恐怖が込み上げてくるのだ。
「……ちくしょうッ」
絶対に敵わないと本能が告げている。
逃げようとしても身体が萎縮して動かない。
思わずぎゅっと目を閉じ身を竦めた。
すると突如、ノアの両手首と両足首に未だに嵌まっていた鉄枷とぶら下がっていた鎖がバキィーンッ! と音を立てて砕け、バラバラと落下していった。
「え……?」
驚いて顔を上げると、彼は片眉を上げて「ほう。なるほど」と低く呟いた。
彼はスッとノアの近くに距離を詰めるとニコリと笑った。
「君はとても面白い」
瞬時に間合いに入られて、ノアはゾッとした。
光力の差を見せつけられているようで冷や汗が頬を流れた。
「君の名前を教えてくれるかい?」
逸らしたはずの視線を絡め取られて恐怖で息ができない。
その声は耳の奥まで浸透し身体の自由を奪うような不思議な力を持っていて、その青紫色の瞳は他者を従わせずにはいられない強制力を放つ。
「な……まえ?」
ノアは滞空したまま動けず、流れる冷や汗をそのままに喘ぐように聞き返した。
今にも触れそうな距離で、美しい形の唇がゆっくりと動く。
「そう。名前だ」
「デ、モン……」
強過ぎる光力にあてられて、上手く息ができない。
(くっ。身体が……動かねー……ッ)
「違う。そうじゃない。生誕時に名を聞かれた時にどう答える? 君にも本当の名前があるはずだよ」
(本当の……名前……)
「君の名は?」
「……ノア・リオット」
ノアは生誕後二百年ぶりにして初めて己の名を名乗る機会を得た。
震える声で名を告げるなり涙がポロリとこぼれた。
それは恐怖によるものだったのか、それとも別のナニカだったのか。
それは、知らない感情だった。
「ノア……いい名だ。私の名はセラフィム・ル・ヴェリエ」
「セラ……フィム」
ぼんやりと言葉を復唱する。
初めて己の名を呼ばれた。
この胸に熱く込み上げてくるものはなんだろう。
この世界の主の名さえ知らなかったノアに、セラフィムは柔らかく笑んだ。
「ノア。君は……、随分と寂しそうな瞳をしているね」
全てを見透かすような青紫色の眼差しがノアをまっすぐに見つめる。
「…………ッ」
心の柔らかい場所に不意に手を突っ込まれて握られたような心地に、ノアは息を呑んで身を震わせた。
(怖い……)
この目の前の最高上位天使に心臓を握られているような感覚。
――――――――――――
試し読みページはここまでです。
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2021.9.2
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生まれた時から成体である下級天使と違い、膨大な光力を有する上級天使は、本来ならば幼体で生を享けた後両親に護られ三日間を経て成体となる。
生誕間もないノアは抗う術を持たなかった。
地下牢には光力を封じる術が施されており、成体に変化した後も脱出は叶わなかった。
「なんで……」
ノアは悲しかった。
生まれ出でたノアが初めて見た光景は、己に向けられる恐怖と悲鳴、絶望の眼差しだった。
「悪魔だ。捕らえろ!」
覚醒めるなり父親らしい男が叫んだ。
ノアは己の名を名乗る機会すらも与えられぬまま『悪魔』と呼称された。
「穢らわしい悪魔の子……!」
「名門リオット家の面汚し」
薄暗い地下牢に閉じ込められて十日ほどしてから女性がやって来た。
「私は悪魔となんか通じてない。誰も信じてくれない。どうして私がこんな目にあわないといけないの……! お願い消えてちょうだいッ。お前なんて生まれてこなければよかったのよ!」
地下牢の鉄柵を握りしめて、金髪を振り乱して泣き叫ぶ女性が母親だと気づくのに時間を要した。
美しい女性だったのに、随分とやつれて見る影もない。
かける言葉も見つからない。
「堕天使になるくらいなら、死んでやるわ……!」
息を呑むノアの前で、母親は短剣で喉を突いて倒れた。
駆け寄ろうとしたが手足を拘束する鉄枷と鎖がそれを阻んだ。
真っ赤な鮮血が視界を塗りつぶしていく。
「うわああああああああ――――ッ!」
気がつくと叫んでいた。
膝をつき石畳を拳で何度も何度も殴りつけた。
いつまで叫んでいただろう。
分からない。何もかも、分からない。
いつしか、全てを呪うようになった。
こんな世界などなくなってしまえばいい。
全部全部ぶっ壊してやる。
光も通さない地下牢でただ蹲って膝を抱えて過ごした。
母親の遺体は気がつくと運び出されていた。
それ以降、誰も会いには来なかった。
貴族ならではの強過ぎる光力のせいで、飲まず食わずでも死ぬこともなくただ悔しさで涙を流した。
――――孤独な年月が過ぎた。
貴族の寿命は千年だという。
なんと気の遠くなる地獄だろう……。
ノアはいつしかほとんど眠って過ごすようになった。
寝ていると腹も減らないし、孤独に苛まれることもない。
それに、……夢がみられる。
夢の中では、ノアは独りではなかった。
愉快な仲間たちに囲まれて、誰にも告げることなく終わった己の名を明るく呼ばれていた。
優しい手がノアのアタマを撫でて、抱きしめてくれる。
眩しくて顔は見えないけれど、その優しい手が好きだった。
そのひとが己の名前を呼んでくれる響きに胸が高鳴った。
そのひとだけはトクベツで、ノアはそのひとが大好きだった。
もしもこれが来世なら、ノアはこのひとを護るために生きたいと、そう思った。
――――そんなある日のことだった。
屋敷が火事になったのだ。
地下にまで火の手が回り、眠っていたノアの身体はたちまち炎に包まれた。
それは熱くもなくノアを傷つけることのない不思議な藤色の炎だった。
その時に地下牢に刻まれた術が燃え落ちた。
眠りから醒めたノアの黒い瞳が輝き身体中に光力が迸る。
長い間封印されていた光力が解き放たれて、ノアは手足の鎖を引きちぎり咆哮をあげて光力を解放した。
「うわああああ――――ッ! 地下牢の悪魔が逃げたぞ!」
「ひいいいいッ。生きていたのか!?」
「この炎で封印が解けたんだッ」
逃げ惑う使用天使たちの悲鳴が聞こえたが、たちまち業火に包まれた。
ほとんど全焼していた屋敷はたちまち吹き飛び、夜空に舞い上がったノアはバサアッと黒い両翼を広げた。
『地下牢の悪魔が逃げたぞ!』
『生きていたのか!?』
(二百年ぶりに聞いた言葉がコレか……)
不思議と分かるもので、あれから二百年の歳月が経過している。
(デモン……、それがオレの名前か)
どうやら今世では夢のようにはいかないらしい。
見下ろすと己を忌み嫌った一族が屋敷ごと燃えている。
一体何事だろうか。
これでは誰も助からないだろう。
「……ハッ! ざまあみやがれッ」
思わずそんな悪態が口をついて出た。
身体中を破壊衝動が駆け巡るのを感じた。
久方ぶりの自由を得て、ノアは大声で笑いながら夜空を駆けまわりこの世の全てをドカンドカンと破壊し尽くしてしまいたいと思った。
無性に大暴れしてスッキリしたい。
ぎゅっと握りしめた己の拳を見る。
身体中にみなぎる膨大なエネルギーを感じる。
封印が解かれた今感じるのは、己はおそらく……強い、という確信。
(そうだ。このまま、天界など滅ぼしてしまおうか)
己を『悪魔』だと呼ぶのであれば期待に応えてみせようではないか。
天界の君主の首を手土産に魔界に移住するのも面白いかもしれない。
ココよりはずっと住みよいだろう。
(そうだ。こんなくだらねー天界、全部全部ぶっ壊してやる!)
そう決めた瞬間だった。
「……驚いたな」
耳に心地よいテノールが響いた。
ぎょっとして顔を上げると藤色のとてもとても長い髪が夜空に舞った。
それは先ほどの炎と同じ彩だった。
ノアはその美しさに一瞬で目を奪われ、アタマの中が真っ白になった。
純白の多翼を広げて白い長衣を纏った長身の天使が宙に浮かんでいた。
(な、なんだコイツ。全然気配がしなかった……!?)
「なんだ、テメーは……ッ」
慌てて身構えるノアを青紫色の切れ長の瞳がじっと見つめる。
ノアはすぐに理解した。
(……上級天使だ。それもとびっきりの!)
天使の光力と美貌は比例する。
ノアはこんなに美しい天使を生まれて初めて見た。
支配階級のそれだとすぐに悟る。
彼の身に纏う強過ぎる光圧に気道が押し潰されそうになり、ノアは慌てて飛び退き距離を取る。
「まじか……ッ」
やっと自由になれたというのにもうお出ましか。
冗談ではない。
確かにこの世界を破壊してやろうとは思ったがまだ実行には移していない。
(オレは無実だ……ッ)
そう言っても聞いてもらえそうにない。
なんせ、どう見ても怪しい全身真っ黒なこの容姿。
そして、燃え盛る貴族の屋敷。
(ん? ……ちょっと待ってコレ、オレがやったようにしか見えねーんじゃ……)
うわあ。いきなり詰んだ。
またとっ捕まって牢屋行きか。いや、処刑される可能性も十分にある。
(冗談じゃねーぞ!)
コレはもういっそコイツの首を持って魔界に移住するしかない。
(でも、コイツ強そうだ。勝てっかな……ッ?)
ノアは身構え、やたらたくさん翼の生えた天使をキッと睨みつけた。
天使の翼の数は上位天使になればなるほど多いんだっけ。
ノアは生まれてすぐに二百年間地下牢に閉じ込められていたとはいえ、言語や世界の仕組みなどそこそこの常識は生誕時に身についている。
天使は翼の数で階級、つまり強さが分かるのだ。
んじゃま。とりあえず数えとくか。
(えーと。……いち、にい、さん、しー、ごー)
(…………え? ろく!? ろろろ六枚……!?)
「ハアアアア~~ッ? オマエ六枚ってなんだよ。そんなのアリなのか!?」
思わず叫んでしまう。
六枚もの翼を持つ存在はこの世にひとりしかいない。
最高上位天使……、そのひとだ。
天界の君主がいきなりお出ましとか、ノアはトコトン運がないようだ。
ノアの腰に生えた黒い翼はどう数えても二枚。
「ハッ。オレよか三倍強え~ってのかよ。上等じゃねーか!」
どうせ、暴れたくてうずうずしていたのだ。
二百年分大暴れしてやる。
一番強いヤツを倒してこの世界に君臨するのも悪くない。
ノアは己をじっと見つめる感情の読めない六枚翼に向かって、ピッと人差し指を立ててバアーンと突きつける。
「おい、オマエ! ……いいか、よおおおく聞け。今からオレがオマエを~」
(ブッ倒す!)
大声で宣戦布告しようとするなり白い羽根が舞った。
「セラフィム様……ッ! 供も連れずにこんなところで一体何を……!」
バサアッと白い翼が音を立てて、たちまち頭数が増えた。
「やあ、ケルビラ」
(げっ。今度は四枚翼……だとう!)
ノアは目を剥いて息を呑んだ。
「なんですか、この全身真っ黒な邪悪なのは」
ケルビラと呼ばれた澄ました片眼鏡野郎は、セラフィムと呼んだ主を庇うように前に出て、心底穢らわしそうにノアに向き直りそう言った。
(じゃあく……。コイツ今オレのこと邪悪って言った!)
「テメー……、やんのか!」
ノアは初対面だが既にこの片眼鏡がキライだ。
「セラフィム様、ご無事ですか」
また、バッサバッサと羽ばたきが聞こえ、視界が白い羽根で掻き乱される。
(うげっ、また増えやがった!)
「よく此処が分かったね、オファニエロ」
「貴方が報告書にサインする間目を離したのが間違いでした。いくら退屈だからといって御身自ら出向くような案件ではないでしょう」
オファニエロと呼ばれた細目のウェービーヘアは、六枚翼の傍らに舞い降りると呆れたようにため息をついてそう言った。
(コイツも四枚翼。上位天使か……ッ!)
こう次々と湧いて出られてはどう考えても分が悪い。
隙を見て逃げるか!
「置きっぱなしの調書を見ました。燃えているのは悪魔を匿っていたというリオット家ですね。……この炎は貴方が?」
「ああ、当主とは分かり合えなかったものでね」
(は? コレ、コイツがやったのか?)
なんでもないことのように穏やかに返答する六枚翼に、ノアは背筋にぞくりとしたものを感じた。
「それで、この悪魔を今から粛正するわけですね。セラフィム様のお手を煩わせるまでもありません」
片眼鏡がそう言って気色ばむのを、六枚翼が片手を上げて制した。
「待ちなさいケルビラ。すぐに見た目で判断するものではないよ。……オファニエロ、君の出番だ」
「はい。セラフィム様」
促され一歩前に出た細目は、橙色のウェービーな長髪を靡かせながらゆっくりと開眼した。
瞼の奥に隠された翡翠の瞳がノアをまっすぐに射貫く。
「……なっ」
(なんだ、コイツ。細目かと思ったら閉じてただけかよッ!)
ノアは魂までも見透かすようなその目映い眼光にたじろぎ思わず腕で目を覆う。
「――――彼は『悪魔』ではありませんね」
オファニエロと呼ばれた上位天使がハッキリとした口調でそう告げた。
「なん、だと……!?」
片眼鏡が淡い褐色の髪を乱して、とても信じられないといった表情で緋色の瞳を見開いた。
「オファニエロの心眼が間違えたことがあるかい? 彼は姿は違えど、間違いなく。……我々と同じ『天使』だよ」
その台詞にノアは目を見開いた。
(ほんとに……?)
自分でさえ分からない己の正体を、ハッキリと善だと断言されて、ふわっと胸があたたかくなった。
(オレは……、悪魔じゃなかった?)
「そして、この者はたった今。私の炎に包まれた屋敷の奥から出て来た」
「……なっ!?」
上位天使たちが息を呑んでノアを見た。
信じられないモノを見るようなその視線にノアは不快げに眉を寄せる。
「なんなんだ、テメーら……ッ!」
さっきから何を驚いているのか。
「私の『聖なる炎』で傷ひとつ負わない者がいるとはね。よほど無垢なのか、それとも……」
全てを見透かすような青紫色の眼差しが探るようにノアの全身を辿っていく。
形の良い唇から発せられた言葉の意味が分からない。
逃げた方がいい気がするが、どうにも悔しくてそこに踏み切れない。
ノアはただ息を呑んで半身後退し身構える。
スッと六枚翼が白い手袋をした手を掲げた。
その眼差しに冷徹な光が宿る。
(――――攻撃される!)
ノアは野生動物のように殺気を察知した。
六枚翼のそれはまるで息をするように自然で凪いだ殺気。
眉ひとつ動かさずに己は消されるのだろう。
リオット家のみんなのように。
己を忌み嫌った一族に情の欠片などありはしなかったけれど、この美しくも残酷な絶対君主に対して腹の底から恐怖が込み上げてくるのだ。
「……ちくしょうッ」
絶対に敵わないと本能が告げている。
逃げようとしても身体が萎縮して動かない。
思わずぎゅっと目を閉じ身を竦めた。
すると突如、ノアの両手首と両足首に未だに嵌まっていた鉄枷とぶら下がっていた鎖がバキィーンッ! と音を立てて砕け、バラバラと落下していった。
「え……?」
驚いて顔を上げると、彼は片眉を上げて「ほう。なるほど」と低く呟いた。
彼はスッとノアの近くに距離を詰めるとニコリと笑った。
「君はとても面白い」
瞬時に間合いに入られて、ノアはゾッとした。
光力の差を見せつけられているようで冷や汗が頬を流れた。
「君の名前を教えてくれるかい?」
逸らしたはずの視線を絡め取られて恐怖で息ができない。
その声は耳の奥まで浸透し身体の自由を奪うような不思議な力を持っていて、その青紫色の瞳は他者を従わせずにはいられない強制力を放つ。
「な……まえ?」
ノアは滞空したまま動けず、流れる冷や汗をそのままに喘ぐように聞き返した。
今にも触れそうな距離で、美しい形の唇がゆっくりと動く。
「そう。名前だ」
「デ、モン……」
強過ぎる光力にあてられて、上手く息ができない。
(くっ。身体が……動かねー……ッ)
「違う。そうじゃない。生誕時に名を聞かれた時にどう答える? 君にも本当の名前があるはずだよ」
(本当の……名前……)
「君の名は?」
「……ノア・リオット」
ノアは生誕後二百年ぶりにして初めて己の名を名乗る機会を得た。
震える声で名を告げるなり涙がポロリとこぼれた。
それは恐怖によるものだったのか、それとも別のナニカだったのか。
それは、知らない感情だった。
「ノア……いい名だ。私の名はセラフィム・ル・ヴェリエ」
「セラ……フィム」
ぼんやりと言葉を復唱する。
初めて己の名を呼ばれた。
この胸に熱く込み上げてくるものはなんだろう。
この世界の主の名さえ知らなかったノアに、セラフィムは柔らかく笑んだ。
「ノア。君は……、随分と寂しそうな瞳をしているね」
全てを見透かすような青紫色の眼差しがノアをまっすぐに見つめる。
「…………ッ」
心の柔らかい場所に不意に手を突っ込まれて握られたような心地に、ノアは息を呑んで身を震わせた。
(怖い……)
この目の前の最高上位天使に心臓を握られているような感覚。
――――――――――――
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2021.9.2
ニコ
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