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おとといから来た男

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「やあ」と男が話しかけてきた。「なんですか?」そう聞く僕に「おとといから来たよ」男は答えた。詐欺も最近はパターンが増えて、ずいぶんこんがらがったものまであるらしい。

 大学をサボる理由ができた僕は、通学なんかやめて男に聞く。

「おとといから来たんですか?」
「そう」
「どうやって」
「話すと長くなるけど、つまりそういうことだよ」

 どういうことなのだろう? 男の顔には悪意はない。どこか心ここにあらずみたいな不思議な雰囲気を漂わせている。なんだか悪い人ではないような気もする。

 仕方なく僕は、この男と一日行動を共にすることにした。

 心を許したわけではない。でも男はどこか、僕の叔父さんに似ているような気がした。小さいころよく遊んだ記憶のある叔父さん。僕が小学生に入るか入らないかくらいのときにブードゥーの呪いで死んだ叔父さん。

 在野のブードゥー研究家を自称していた叔父さんは、ハイチに飛ぼうとして羽田空港に行く途中、車の事故で死んでしまった。「ブードゥーの呪いは飛び立つ前の人間にも襲いくるのね」僕の母は弟の死をそう表現した。

 その奇妙な叔父さん似の男と僕は喫茶店に入り、それぞれ本を読み、コーヒーを飲んだ。男がなんの本を読んでいるかチラッと見ると、血液型占いの本らしく僕は少しガッカリした。

 それから心霊にまつわる映画を見たり、また喫茶店に入ってサンドイッチを食べたりしてその日はすごした。夕方になり遠くからメランコリックな音楽流れはじめると男は「じゃあまた明日」と言ってどこかへ歩いていった。

 この事実を母に話すべきかどうか迷った、というのはウソになる。家に帰った僕はすぐに話した。母は「おかしな人もいるものね」とだけ言った。きっと僕の話を信じていないんだろう。

 翌日、男にまた会った。おなじ時間、おなじ道を歩いていると、やっぱり「やあ」と言って現れた。「なんです?」僕もやっぱりおなじ返事しかできない。「おとといから来たよ」男はやっぱりそう言った。

 しかしそれはおかしな話ではないか。仮に男がおとといから来たならば、僕たちは二日前に会っていなければならない。

「だから今日は『昨日から来たよ』なら正解だと思うんですよ」

 僕の言葉に男はたじろいだ様子もなく、「そういう言い方もできるねえ」なんて悠然としている。最近の詐欺は本当にこんがらがってしまっているようだ。

 僕たちはまた昨日とおなじ喫茶店に入り、おたがい無言のまま本を読んだ。男の本は昨日と変わって『MS-DOS 中級編』になっている。僕は少しパソコンの知識があったので、その本がいかに意味のない本かわかっている。MS-DOSはWINDOWS以前のOSで、いまはもうだれも使わない。いわば30年前のカレンダーを買うような話なのだ。しかも中級編とは。

 男はチラリと僕を見て、「図書館の除籍本だよ。タダでもらえたんだ」そう言って興味深そうにページをめくった。

 今日の映画もちょっと怖い映画で、どうして僕たちは心霊とかホラーの映画を観るんだろうと思いながら、映画館の帰り道にふと男に言ってみた。「僕の叔父さんに似てるんですよ」

 喫茶店にまた入り、つづきを聞かせた。ブードゥー研究の道半ばで死んだ叔父。男は「そういうこともあるんだね」と言った。表情から感情は読み取れない。やや神妙な顔、だろうか。

「もしよかったら写真撮らせてくれませんか? 母に送ってあなたと叔父さんと顔が似てるかどうか確認したいんです」

 僕の記憶は心もとない。うっすらとした叔父の像しか残っていないのだ。

「まあいいよ」

 あっけなく男は了承した。すこしは抵抗してくるだろうと思ったのだが。スマホで写真を撮って母に送信した。「この人。叔父さんに似てない?」

 僕たちはコーヒーを飲んだ。本は読まなかった。母からの返事はない。「既読」にもならない。ジリジリとした時間だけがすぎていく。

「ところで、どうしておとといから来たんですか?」

 僕は時間をつぶすために聞いた。

「会いたかったんだよ」
「どうして?」
「元気にしてるかなって」
「以前、会いました?」
「うん、おととい」

 そのときスマホが鳴った。母から、短い文章だった。「あなたのお父さん」

 それから僕たちは川沿いの道をブラブラ歩いた。ほとんど会話はなかった。父と最後に会ったのがいつだったか、僕は覚えていない。小学生のときの父の記憶はほぼない。離婚したのは中学生のころだったとあとで聞いた。僕が最後に父を見たのは、もしかしたら保育園、もしかしたらもっと前だったのかもしれない。

 遠くからノスタルジックな音楽が流れてきて、その人、僕の父だと思われる人は「じゃあ」と言った。「また明日」は言ってくれないのか、そう思った。

「でもそれじゃあウソになる」僕は言った。
「なにが?」
「明日会わないと、おとといから来たことにはならない」
「そうかな」
「そうだよ、あなたは『昨日から来た男』だ。明日会ってはじめて『おとといから来た男』になる」
「大学で勉強してると違うな」
「帰るの? おとといに」
「そう、帰る」
「もう現在には来ないの?」

 男ははじめてわかりやすい感情を顔に出した。

「たぶん、もう来ない」
「来てもいいよ、たまには」

 男は笑った。僕も。

「じゃあ」

 そう言って男は過去の方角へ歩いていった。
 僕は違う方へ歩きだした。
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