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【2nd】 ─ RANBU of blood ─

うさんぽ

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(1)
 翌日の午前中になったが、パールフェリカの疲れはまだ残っていた。
 ソファにうつぶせで頭からつっぷして『つかれた、動きたくない、絶対イヤ』と言って、片足を肘置きに片足を背もたれの上まで伸ばすという、人様に決して見せてはいけない姿勢でダラけていた。例のアラビアンな普段着でズボン着用なのでフリーダムである。
 昨日のミイゼンテイム学院長スーリヤのパーティ前の授業は、彼のスケジュールがシビアな事もあって受けたが、今日の図書院の職員から受けるはずだった授業はパスしている。
 そのつっぷした頭のソファの先には“うさぎのぬいぐるみ”が座っていて、短い足を器用に組んで、絵本を眺めている。ご自慢の右の“人形の手”でページをめくっている。
 あごをソファに突きたて、両手はだらりと後ろに回したまま、パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”の膝の上の絵本を一緒に眺めている。
「ミラノって熱心ねぇ」
「──そうかしら?」
 二人は部屋の中央、窓に向かっている側のソファに居る。“うさぎのぬいぐるみ”にとって左手側にパールフェリカはだらけていた。それで絵本から少し視線を逸らして、左下、こちらを見上げる深い蒼の瞳を見下ろした。パールフェリカは後ろにあった両腕を引き寄せ、顎の下で組み合わせた。
「だって、ずっとその3冊をぐるぐるぐるぐる、何度も見てるだけじゃない? 見るだけで覚えられるものなの?」
「……そうね……今は、形の違いを見極めている所かしら。何にしても、見慣れる所から始めようと思って」
 それがミラノなりの独学開始時のスタイルだ。
「──ふ~ん」
 気のない返事をしてはいるが、パールフェリカも飽きることなく横から眺めている。時々“うさぎのぬいぐるみ”の耳をちょいちょい弄ったり、抱き込もうとして引っ張りすぎてはミラノをズルリとこけさせている。その度にパールフェリカは「あ、ごめんなさい?」と謝り、ミラノは「大丈夫、気にしないでいいわ」と淡々と言って姿勢を戻している。そんな事を5、6回繰り返した頃、“うさぎのぬいぐるみ”は顔を上げた。窓の外は青い空が続いており、とても良い天気だ。
「パール、ユニコーンはどうしたの?」
「んとー、厩舎の方にいるはずよ。どうしたの? 乗りたくなった??」
 馬に乗る“うさぎのぬいぐるみ”を想像しているパールフェリカの期待を、ミラノはあっさりとした声でぶち破る。
「……いいえ。パールは乗らないの? 折角プレゼントされたのでしょう?」
「そうだけどー、なんか体だるいんだよねぇ~」
「……私を召喚しっぱなしで疲れている、という事はない?」
「うん、それとは違う感じ。昨日のパーティかな? 頑張ったもんね! 私ってばすごかったわ!」
 言いながらヒートアップしてきたのか、ソファの上でむくりと起き上がり正座で拳を振り上げ“うさぎのぬいぐるみ”に力説する。
「皆、私の魅力にメロメロだったわ! 来る敵来る敵ばっさばっさと笑顔で叩っ斬ってやった感じよ! 100人斬りってやつ!? ふふっ、素晴らしい称号だわ! きっとにいさま達だってゲットしていないはずよ!」
 敵というのは、昨日のパーティの招待客達の事だろう。
「最初の内しか見ていなかったけれど、頑張っていたわね。……お疲れ様」
「ぷぁ! 今の! 微笑!?」
「……よくわかるわね」
「──っぁ~! ……もうっ、ずっと“人”にならない? ミラノ!」
「召喚で呼ばれたばかりの時の事を考えれば、あなたへの消耗が激しいのは“人”の方でしょう? ならば、その提案は受けられないわ」
「むぅ~~」
 パールフェリカは口を尖らせ、それを見てから“うさぎのぬいぐるみ”は絵本に視線を落とした。パールフェリカが再び先ほどの姿勢になって絵本を覗き込もうとした時、うさぎはひょこっとソファを飛び降りた。
 部屋の入り口付近で控えていたエステリオの方へ歩いて行く。パールフェリカはソファの背もたれに両手と顎を置いてその様子を見ている。
「エステルさん、ユニコーンをここに連れてくることは出来ないのですか?」
 エステリオはいつもの紺の護衛騎士の格好で、口元も隠しているので表情はわからない。
「ユニコーンはとても大人しい生き物ですから可能だと思いますよ。すぐに手配致します」
「ありがとう。お願いします」
 ひょこひょこと歩いてソファに座るまでの“うさぎのぬいぐるみ”の姿をパールフェリカはじっと見守ってから、口を開く。
「ユニコーン、呼ぶの?」
「私の記憶も定かではないのだけれど。ユニコーンには癒しの力が備わっていたはずよ」
 ──私の世界と同じならば、だけど。
「清廉な気を発し、純潔の乙女と共にあることを望み、心を許した相手には常に癒しの力を注いでくれる──パールならその恩恵に預かれるのではないかしら? 昨日、謁見の間まで来ていたようだし、ここへ来るのも大きな問題はないでしょう」
「つまり、ユニコーンと一緒に居たら、私元気になれる?」
 “うさぎのぬいぐるみ”はパールフェリカの顔を見上げた。
「そういうことね」
 ミラノの言葉にパールフェリカはどこで覚えたのか「やりぃ!」と拳を振り上げた。ミラノからすれば使いどころが若干間違っている気もしたが、絵本に視線を落としただけだった。スルースキルは万全だ。


 30分もしない内に、昨日と同じように遊牧民風の服を身に纏った、頬のほんのり赤い少女がユニコーンを引いてやって来た。
 白桃色の全身には曇りも汚れも一切無い。美しい四肢は程よい筋肉で引き締まり、無駄に足踏みをする事も無く落ち着いた様子だ。それでも時折首を左右に振って鬣を揺らし、その大きな角を見せ付けた。
 パールフェリカは立ち上がり、ユニコーンの首に頬を寄せた。そしてエステリオに手伝ってもらってその背に乗せてもらう。温かく上下するその感触に、パールフェリカもうっとりと目を細め、鬣に顔を埋めて首に抱きついた。
「気持ちい~」
 “うさぎのぬいぐるみ”はソファに立ってそれを見ていたが、一度小さく頷いて、再び座り絵本を見始めた。
「名前何にしようか~? かわいい目をしてるのね~?」
 後ろから聞こえるパールフェリカのリラックスした声を聞いてミラノがほっとした次の瞬間だった。
 パールフェリカの低い絶叫が響く。
「──っぅええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!???」
 それはスローモーションで。
 ユニコーンの脚が大きく動き、手綱を持つ少女を天井近く振り上げ、その大きな角ではめ殺しの窓へ突っ込んで行った。
 “うさぎのぬいぐるみ”は真横で起きた出来事に驚き、慌てて、振り向きで耳を旋回させつつ見た。
 バギッと厚みのあるガラスが割られ、ユニコーンは、パールフェリカを背に乗せたまま外へ飛び出した。こちらを見ている蒼い目とあったが、“うさぎのぬいぐるみ”はただ見送るしか出来なかった。
 そして、ボトンっと、手綱を持っていた少女が、床に落ちてきた。慌てて半身を起こして呆然と窓の外を見ている。
「……なに……今のは?」
 “うさぎのぬいぐるみ”が呆然と呟くと、やはり少女が小さな声で呟く。
「浮気……です! わ、私という伴侶がありながら……!」
「?」
 その横を小豆色の毛並みが風の勢いで窓の外へ駆け抜けた。上半身が鷲でその翼を持ち、下半身が馬の召喚獣ヒポグリフに騎乗したエステリオだ。さらにガラスが割れて飛び散る。
 すぐに背後で大きな音がした。扉が荒々しく開けられる音だ。
「廊下でパールの声が聞こえ──!?」
 シュナヴィッツの声がして、すぐに彼は窓の正面まで駆けてきた。
「何があった!?」
 ソファに居る“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろす。
「パールを乗せたユニコーンが角で窓を割り、外へ逃げました。たった今、エステルさんが追った所です」
 過不足ないミラノの報告に、シュナヴィッツは頷いた。
「昨日のあれか」
 それだけ呟くとシュナヴィッツはぶつぶつと呪文を唱え始める。足元に浮かぶ金色の魔法陣。
 ぎゅるっと回転しながら金の魔法陣は窓の外へ飛び出す。
 回転する魔法陣の中から、どろろと頭が、大型バイクサイズのドラゴンが現れる。こちらの姿を映し込む鏡のような銀色の鱗は太陽の光を受けて美しく輝く。窓の外でばさりと翼を動かし、やや上下しながらも、滞空している。
「ミラノも来い」
 言ってシュナヴィッツはソファに立っていた“うさぎのぬいぐるみ”を小脇に抱える。
「?」
 そのまま窓の外へ飛び降りた。パールフェリカの部屋は7階にある。瞬間、風を切る。
 1階分丸ごと落下した所にティアマトの背があった。召喚されただけのティアマトには鞍が無く、首の付け根辺りにシュナヴィッツは腰を下ろし、膝を締める。“うさぎのぬいぐるみ”は小脇に抱え、もう片方の手でドラゴンの首を撫でる。両方の踵でティアマトの鱗を蹴ると、その翼が大きく動き、辺りの風が唸る。
 すぐに前へと進み、周囲を暖かな春の風が通り抜ける。
「召喚士と召喚獣には絆がある。ミラノならパールの居る場所の見当も付く」
 風にたなびく“うさぎのぬいぐるみ”の耳に、シュナヴィッツのはっきりした声が聞こえた。
 光を照り返す銀のドラゴンは、蒼穹を割った後、山頂の巨城エストルクからへ山を滑り降りるように飛んだ。



(2)
 巨城エストルクの城前広場から斜面を滑り降りるように飛ぶと、城下町に出る。
 町は多重構造になっている。
 ミラノの感覚で、ビル10階建ての高さになる木に、地面からてっぺんに向けて螺旋状の通路が設けられ、一番上には平らに一周する床が作られている。そこが一つの区画になる程だ。ミラノの知らぬ事ではあるが、木の上に住んでいるのは貴族層と商人らの中でも富裕層にあたる。
 大きさはいずれにしても、基本的に飛翔する召喚獣を召喚する召喚士を雇用し、移動が容易に行えるような立場の者が住んでいる。大きさが小さくとも、制御できる飛翔するものなら数を用意すれば、巨大な籠に人なり荷物なりをまとめ、上下移動が可能なのだ。要はエレベーターである。
 元々、他の動物やモンスターから身を護る為に木の上に住んでいたのだが、都となった頃から大きな範囲で警備も付き、人は地面にも暮らせるようになった。ただ、貴族、富裕層がいつまでも木の上にこだわるのは、権威の象徴であったり、あとはちょっとの日差しの問題だ。
 地面の上には、3階建てから5階建ての建物が多い。
 巨大な木々の幹を避けるように建てられ、城に真っ直ぐ続く通り以外は、あまり整理されていない。
 人の住む巨大な木々の間をティアマトは音も無く飛ぶ。
「すいません、耳も抱えてもらっていいですか? 首が疲れます」
 “うさぎのぬいぐるみ”の両耳は、風で互い違いにあちこちとあおられている。シュナヴィッツは横に抱えていた“うさぎのぬいぐるみ”を体の前に持って行きながら両耳を引き寄せた。
「……左、随分と平らだな」
「手を直してもらった時に修理してもらうべきでしたね。綿がつぶれているようです」
「痛みは無いのか?」
「耳は平気ですね。
 ──ユニコーンについて、気になっている事があるのですが」
 シュナヴィッツは木々の上から地上の建物の間へ目線を動かしながら、ユニコーンとその背に乗っているはずのパールフェリカを探した。
「なんだ?」
「ネフィリムさんともいくつかの召喚獣などについて話をさせて頂いて、多少の相違点はあるものの私の知っている範囲とこちらの幻獣の類は近い存在のようなのです。それで、私の世界の伝承にあるユニコーンは飛べないものなのですが……あのユニコーンは空を飛べるのですか?」
 7階のパールフェリカの部屋から飛び降りたので、こちらのユニコーンは飛翔できるかもしれないとミラノは疑っている。
「飛べる。ユニコーンはその角の魔力で、翼が無くても飛べるんだ。乙女が居る限りは、寄り添って離れる事は無いのだが」
 シュナヴィッツは何やら“乙女”を言い難そうに発音した。
「ユニコーンの手綱を持っていた女の子は、パールを連れ去ったユニコーンに対し“浮気”だと言っていましたが」
「は? ちょっと意味がわからないな」
「……召喚獣としてのユニコーンというものは居るのですか?」
「居る。唯一という事は無いが、数はとても少ない。──そうだな、兄上が居たらもう少し色々わかったのかもしれないが」
 ネフィリムは昨日からサルア・ウェティスに詰めたままだ。
 ユニコーンは飛ぶ、となれば7階から降りた事での怪我の心配は無用のようだ。
 木々と人の住む辺りは建物が密集している。勢いは大国とは言えないが、歴史ある偉大な国である事に違いはない。現在、祭りの最中のワイバーン襲撃からの復旧作業が行われている。とはいえ、祭りの余韻か、人の数はそれほど減っていない。むしろ神の“使い”召喚獣リヴァイアサンに関する情報を求めて、学者から冒険者などが各地からじわじわと集まって来ている。
 昼から夕刻にかけて、通りを行き交うの人の数はピークを迎えるのだが、城から1本伸びている大通り──通路だけで6車線道路並みに広い──には、人がみっちりと溢れている。復旧の為の資材を乗せた大八車やそれを引く馬やら、荷物をダイレクトに背に乗せた召喚獣などが、まともには動けないでいる。
 ティアマトは祭りの空中演舞やワイバーン襲撃の際にその姿を見せていた事もあって目立っているようで、時折こちらを見上げて手を振る子供などがある。
「エステルさんも追いましたが、これでは見つけるのは至難の業のようですね」
「だから、ミラノにパールの位置を、大体でいい、見つけて欲しい」
「……見つけて欲しい……て──」
 シュナヴィッツは召喚士と召喚獣の間には絆があるとも言っていた。が、驚くほどいつも通りの気分で、全く見当が付かない。絆とやらが頭に何か閃くとか、某ニュータイプ的な効果音で感応する何かだとか、教えてくれれば注意も払うのだが。
「残念だけど、わからないわ」
「……わからないはずはないんだが」
 そう呟いた後、シュナヴィッツは声を改めた。
「ミラノ、パールがどこに行きそうとかわからないか? 同じ女性なのだし」
「“どこ”? 私はこちらの事を全く知りません」
「僕も街にはあまり下りないし……パールの興味も実際知らないしな。仕立て屋とか、ケーキ屋とか……。いや、ユニコーンに連れられたのなら、そうか……無理だな……」
 シュナヴィッツは考え込んでいるようだが思い当たらないらしい、再び“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろした。
「同じ“人”型なのだし世界は違っても興味は近いんじゃないのか。
 パールがユニコーンをある程度動かせているかもしれない。方角でもいい。ミラノはパールと歳がそんなに大きくは離れていないだろう? 十代前半の女の子はどういった場所に出入りするか想像つかないか?」
 パールフェリカの事が心配なのはよくわかったと、ミラノは納得しつつ、もし“人”であったなら半眼で彼を見た事だろう。
「……想像つきませんね。抵抗が無いので言いますが、私はパールの倍以上生きています。ジェネレーションギャップを感じる程度には歳が離れているのです」
「──そうか」
 一度頷いた後、“うさぎのぬいぐるみ”の背後が大きく揺れた。
「え……!? えっ!!……倍? ……え? 倍? 以上??」
 ずるっと、シュナヴィッツの腕から“うさぎのぬいぐるみ”はこぼれた。
 ──風の中に、落ちる。
「……ちょ」
 ふわりと大気に乗ったミラノの声も届かない程、シュナヴィッツはショックを受け、完全に混乱した様子だった。
 ──軽さも手伝って、時折風に煽られ、やがて“うさぎのぬいぐるみ”は街中へ紛れて消えた。


 アジア人は他の地域の民族と比較して“劣化”が遅い。
 特に東の端にある日本人女性は、他民族に比べ体格等の外見的な“大人”化が遅いと言われている。30代のグラビアアイドルが未成年に間違えられている。一般人でも20代半ばで中学生呼ばわりをされたりする。よっぽどで無い限り、民族違いのフィルターで幼く見せるようだ。ナチュラルメイクのミラノは、どうやらシュナヴィッツの目には20歳の彼より年下……10代に映っていたらしい。あの言葉とリアクションではきっとそうだ。日本ではスーツでキメたミラノを、10代で見る者は絶対に居ないのだが──。
 喜んでいいのかわからず、ミラノは頭が下になった状態の“うさぎのぬいぐるみ”の姿で首をかしげた──いずれにしろ、これできっぱり諦めてくれたら万々歳だ、いらぬ手間も省けるし……きっと彼の傷も浅くて済む。
 そして、“うさぎのぬいぐるみ”はムクリと体を起こした。
 路地裏らしき場所の、樽に頭を突っ込んで落下が終わった。両手を樽のへりに置いて、ぐいと頭を持ち上げる。樽のそのへりに両足を置いて、仁王立ちになると、両手を腰に当てた。
 ──やれやれ……。
「“人”だったら死んでいたわね」
 心を鎮める意味も込めて、ミラノは小さく呟いた。
 薄暗い路地裏だが、少し歩けば通りのようだ。明かりがまっすぐこちらに向かってきている。上からの明かりは、左右の建物が3階分ほどあるのでか細い。人々の足音や喧騒もあまり無い。
 せいぜい4、5人が常に通っている程度の道に接している路地裏らしい。大通りからは離れてしまったようだ。あちらは人が多すぎるので、運は良い方だったとミラノは思った。
 煙突やら壁やらに少しは激突したらしい。
 左耳は擦れている。左の“うさぎのぬいぐるみ”の手は、先から肘辺りまで破れて綿が出ている。その左手で左耳を引き寄せて両方を眺め、すぐに離した。
 上を見上げたが、ティアマトの姿はわからない。
 銀色の、鏡のような姿なので見失いやすいし、あちらは飛んでいて速度もある──完全にはぐれてしまったようだ。
 “うさぎのぬいぐるみ”はひょいと両足で樽から飛び降りた後、しばらく耐えるように動きを止め、しっかりと立ち上がり、顔を上げて歩き始めた。


(3)
 両サイドの建物を見上げる。古いレンガ造りのようだ。元は漆喰が塗ってあったのだろうが、かなり剥げていて7割はレンガがむき出しだ。壁には小窓が等間隔にあって、ところどころ木製の両開きの扉が開かれており、その奥は鉄格子のようなものがはまっている。パールフェリカの部屋や王城ではガラスを見かけたが、もしかしたらそれは高価なのかもしれない。
 この路地裏の地面は土がむき出しで“うさぎのぬいぐるみ”の白い足の裏を汚す。だが、向こうに見える通りは石が敷き詰めてあるようだ。大通りから離れては居ても、整備された首都である事には違いないらしい。
 土とレンガと、昼食だろうか、ミルクベースのシチューか何か、温かい香りがする。“うさぎのぬいぐるみ”の時は気候がわからない。が、匂いはわかるらしい。さらにこの大きな耳は音をちゃんと拾ってくれる。聴覚がある。人々の囁きあう声や足音、そして子供らのはしゃぐ声が聞こえる。
 ここら辺は城下町の中でも居住区域なのかもしれない。
 ふと思いついて、ミラノはイメージする。
 ワイバーン襲撃後、“人”から“うさぎのぬいぐるみ”に自力で戻った時の事を思い出して、逆に“うさぎのぬいぐるみ”から“人”になってみようとしたのだ。
 図書院のフラースや人形師クライスラー、パールフェリカの教師ミイゼンテイム学院長スーリヤは、“うさぎのぬいぐるみ”が動きしゃべる事にとても驚いていた。この状態のまま通りに出るのは面倒を招きかねない、そう考えての事だった。
 が、魔法陣は発生しなかった。
 確実にした事のある“丸太の召喚”も試してみたが、何も起きなかった。
 パールフェリカがどこかわからない遠くに居るせいなのか、“うさぎのぬいぐるみ”であるせいなのか、あるいはその両方が原因なのか、全く別の理由があるのか。ともかく、魔法陣を使って何かするという事は出来ないらしい。
 “うさぎのぬいぐるみ”は一度だけ、首を斜め下へ振った後、正面を向いた。
 現状出来ない事は忘れるに限る。今ある状況、あるもので、何が出来るか、考えるべきはそこだけだ。
 こんな暗く周囲からも発見されにくい場所に留まっていても、事態は変化をみない。“うさぎのぬいぐるみ”は足を踏み出した。
 ひょいと、通りに出る。空に居た時程、木々で翳っている印象は無く、日差しがちゃんと届いており、明るい。
 左右をクリックリッと見渡す。
 まっすぐ伸びるその通りは1車線分程度の道だ。この道に面して3~5階建てのレンガの建物が立ち並んでいる。人々は王城で思った通り、欧州から中東に向けて、どちらかと言えば欧州寄りの外見の者が多い。白い肌に茶色や焦げ茶色や栗色、時々金色の髪。ミラノのような純粋に真っ黒という髪は居そうにない。ラフで仕立ての単純な格好でいる者が多い。観察を進める“うさぎのぬいぐるみ”の視界に、一人の子供が正面から飛び込んできた。
 茶色の髪を高い位置2箇所左右で束ねている。ツインテールの10歳程度の女の子だ。ミラノの目で見て──であるので、実際は10歳未満かもしれない。
 女の子は、人差し指を口元に当て、首を25度程曲げて“うさぎのぬいぐるみ”の赤い目を覗き込んで来ていた。その好奇心一杯の緑の目はあまりにもキラキラとしていて、ミラノは耐え切れずフイと顔を逸らした。
「あーーーーッ!!!」
 女の子は叫ぶやいなや、“うさぎのぬいぐるみ”に背を向け両手を上げた。
「みんなー! すごいよ! 動くよーーー!!」
 そして、通りから、家や別の裏路地から少女と歳の変わらない子供らが続々と姿を現した。あっという間に“うさぎのぬいぐるみ”は子供達に囲まれる。
 最終的に7,8人の子供が集まって来た。皆10歳未満といったところだ。
 男の子も女の子も、薄茶色の幅広のズボンを、ブーツでキュっと絞っている。上着はだぼっとしたロングTシャツのような、どこかペラペラした印象の生地で仕立てられている。その長めの丈は、幅広で日本の着物の帯のような布のベルトで纏めている。刺繍のある子ない子は居るものの服の形はそう違わない。刺繍は蝶々や昆虫、動物などだ。袖も長すぎるのか肘より少し上、腕輪やリボン、硬めの紐などで絞ってあり、肘上から肩にかけて布が余っている。広めに開いた襟ぐりの首には、これまた硬めの紐のネックレスを一重や二、三重に巻いている。ミラノは知らないながらも新しい情報として、その雰囲気から子供の庶民服はこれと、脳にインプットした。
 その最中も、ミラノは精一杯スルーを決め込んでいるが「スゲー! 立ってる! 歩けんの!?」「ちょっと! 動きなさいよ!」「え? ぬいぐるみ? 誰の??」「手、変じゃね? 何でかたっぽだけ人形の手なんだよ、マジキモイ!」と、全員がマシンガンのように次々と思ったことを大音量で叫んでくる。子供に遠慮という概念が無いのはどこの世界も共通のようだ。
 そして、この騒ぎで大人が顔を見せる。
 手にタオルを持って汗を拭き拭き男一人、淵にレースのある腰エプロンを付けた女が二人。いずれも30代だろうか、この子供らの親かもしれない。服の形は子供達のものと大きく違わない。もしかすると、服のサイズの種類が少ないのかもしれない。パールフェリカや侍女達もそうだったが、この国の女性はあまりスカートを履かないようだ、女二人ともがズボンだ。
 “うさぎのぬいぐるみ”は彼らを見上げる為、足を少しずらし、顔を持ち上げた。
「なんだ歩くのか? このぬいぐるみ。カラクリ工房からはぐれて来たのか? あいつら召喚獣より優れたものを作るとか意気込んでるし」
 男がタオルを首にぱしんと巻きつけ、その両端を両手でそれぞれ握りつつ言った。
「えぇ? ここまでちゃんと歩くの作れてないよ、変な研究ばっかりしてるって噂だし。それにしても随分ボロボロのよれよれだねぇ?」
 女は濡れた手をエプロンで拭きながら言っている。炊事でもしていたのかもしれない。
「せっかく白いのに汚れちゃうよ」
 “うさぎのぬいぐるみ”の視界の外。取り巻いていた女の子の一人が“うさぎのぬいぐるみ”をひょいと持ち上げた。うさぎが軽すぎたのか、耳が重すぎたのか、体が回転して頭が下になってしまう。
「あーあ……足の裏ドロだらけ!」
 女の子は目の前に飛び込んできたであろう“うさぎのぬいぐるみ”の足の裏のドロをはたいてくれる。が、それは見事に“うさぎのぬいぐるみ”の顔にかかっている。ついでに耳が地面に擦れている。
「………………………………」
 しゃべる方が面倒だと思い、ミラノは現実逃避でも始めようかと考えていた。
 すると、女の子が呟くように──。
「くら……くらす……クライスラーって刺繍あるよ? 足の裏。あの根暗イスラーが作ったんじゃない? このうさぎちゃん」
「えぇ? あいつは人形専門だろう?まぁよれよれだし、おまえら暇なら根暗ん家連れて行ってやれ」
「はぁーい!!」
 女の子は“うさぎのぬいぐるみ”をくるっと回して立たせてくれる。
「うさちゃん、こっちー!!」
「おいうさぎ、ちゃんと歩けるのかぁ?」
「いこ! しろちゃん」
 子供達は言いたい放題であるが“クライスラー”の名が出て、そこに連れて行ってくれるというのなら、大人しく従っている方が良いだろう。ミラノはそう判断し、ひょこっと足を動かし始める。そこであがる歓声はスルーである。
 彼らが言っているのは、昨日午前中、ネフィリムが会わせてくれて、“ぬいぐるみの手”を“人形の手”に付け替えてくれた人形師クライスラーの事だろう──根暗というのもコミュニケーションを絶っていそうなので納得出来る。彼はこの“動くうさぎ”に、パールフェリカの召喚獣ミラノが入っている事を知っている。状況の変わる兆し、これを逃すわけにはいかない。


 “うさぎのぬいぐるみ”は3歳児サイズで、10歳程度の子供らよりも足が遅い。それで、最初に“うさぎのぬいぐるみ”を発見した女の子が、よたよたしながらも抱えて歩いている。
 この“ぬいぐるみ”の姿というのは“人”である時と比較してはいけないと、ミラノには言い聞かせる良いキッカケになった。10歳の子供らに保護されるとは……それをせいぜい頭の中から消し去る。
 通りを何本か過ぎて、富裕層の居住地となっている背の高い木を大きくを回り込み、20分余り歩いた。建物の数が減っていく。
 そして、やや薄暗い一本道が草木の間に延びている。子供らは歌を歌いながら、どこで拾ったのか棒っきれを振り回しながら、揚々とその道へ踏み込んだ。
 5分も歩いた辺り、黒ずんだロートアイアンの門が見えた。その続きに鉄柵がどんよりと左右に伸びている。柵には気持ちの悪い蔦が這い伸びている。
 鍵のかかっていない門を、ガシャーンと無遠慮に開け放つ子供達。門の奥の邸、レンガ造りでちゃんと漆喰は塗られているが、建物にも気色悪い蔦が這い回っている。両開きの、濃い朱色の扉の前に子供らは並び、一人が片腕を精一杯伸ばしてドアノックを叩いた。ミラノが見慣れているのはライオンドアノックだが、これは人の顔をしている。どうにも気味が悪い。
 しばらく待つと、ドアが片方、指3本分余り開いた。
 どんよりとした影をしょったようなクライスラーが顔を少し覗かせた。王城で見た時よりも汚れた服を着ている。酷い猫背だ。邸にぴったりの雰囲気を醸している。
 子供らが事情を説明すると、ドアは指5本分程まで開いた。
 じっと“うさぎのぬいぐるみ”を見る。
「……ああ、このうさぎ、俺つくった……」
 暗い声で呟いた。のったりした声に反して素早い動きで“うさぎのぬいぐるみ”を奪い取るように受け取ると、クライスラーはバタンと扉を閉める。愛想も糞もない。
「えーー!? なんかちょーだいー!!」と扉の向こうで子供達の抗議の声。子供達はお駄賃でももらえると思っていたのかもしれない。
 クライスラーはそれを無視して、“うさぎのぬいぐるみ”を下に降ろした。
 家の中は、正体不明の布やら、マネキンの腕やら脚っぽいものが散乱しているのがかろうじて見えた。明りがほとんど無く薄暗い。
「なんでここにいるんデスカ?」
 相変わらず舌ったらずの声だ。“うさぎのぬいぐるみ”は首を持ち上げ、クライスラーを見上げた。血色の悪い白い顔には紫の血管が浮いてさえいそうだ。
 ミラノは簡潔に、淡々とした声で言う。
「迷いました」
「“人”にはならないのデスカ??」
「パールが居ないと“人”になれません」
 多分、という言葉は飲み込んだ。わかりやすいを通り越して、迷惑な位、クライスラーは残念そうに肩を落とす。この頃には、外の子供らの声は聞こえなくなっていた。
「……パールフェリカは街のどこかに居るはずなのだけど」
「ああ、迷ったんでしたね? そっか。じゃぁ、冒険者ギルドでも行って軽く情報集めまショウか。人と話すのヤですけど。──その前に、それ、縫う?」
 クライスラーは神経質そうな細い指を“うさぎのぬいぐるみ”の左耳と左腕に向けた。それに対し、“うさぎのぬいぐるみ”は右手を持ち上げ指をモキモキッと動かして見せる。
「急いでいるので不要です。右が健在ですし。落ち着いてから、お願いしてもよろしいですか?」
「お……? ほんと!? わかった、任せて! 城に呼んでくださいね、“人”の時に!」
 クライスラーは次の約束が出来た事に満足し、“うさぎのぬいぐるみ”はほんの少し、顔を逸らしたのだった。


 次はクライスラーの脇に抱えられ、“うさぎのぬいぐるみ”は街を通り抜ける。
 クライスラーはさっきの格好に、よれよれのボロ頭巾をかぶってのお出かけである。性格を知らずとも、外見だけで“根暗イスラー”と言われても仕方ないかもしれない。国内有数の人形師として有名な分、余計に目立つのだろう。
 途中まで子供らに連れられた同じ道を通ったが、途中から空から見た大通りを少し歩いた。
 ぎゅうぎゅうに人が多い。先ほど見た時よりも酷くなっているらしい。ふと見上げれば、クライスラーは汗をかいて、口をへの字に曲げて、ふぅふぅはぁはぁ言いながら突き進んでいる。恐ろしい程一生懸命に。次第に、その気味の悪さに人が道を開けていくのだから、世の中わからない。
 小脇に抱かれているので進行方向など確認が出来ず、しばらくはぬいぐるみのフリを決め込んでいた。
 しばらくして、「ここデス」というクライスラーの声で“うさぎのぬいぐるみ”は首を上げる。クライスラーは周囲が見えるよう、“うさぎのぬいぐるみ”を正面に抱きなおした。
 やはり、地上の施設のようだ。
 幼稚園の運動場程の広さはあるだろうか、板張りのテラスだった。左手側に柵がある。斜面に土を盛って建てたのだろう、その左側は地面から高さがある。
 傘のついたテーブルが20以上並んでおり、それに平均して4,5人が座って、顔を付き合わせて話している。ひそひそしているテーブルもあれば、大声で怒鳴りあっているのもある。ごく普通に談笑しているテーブルもある。
 座っている連中は、鎧やマントに身を包み、その腰や背には剣や杖、盾を持っているのだ。いかにも、冒険者といった風情か。胡散臭い者が多い。そして、汗臭い、食べ物臭い、酒臭い。
 テラスの奥には平屋のレンガ造りの建物がある。看板があって文字もあるようだがミラノには読めなかった。が、あれが彼らに食事を提供しているのは間違い無さそうだ。
 見回すと、左側。木製の柵の近く、その斜め後ろの姿が、見えた。
「……いた」
 ミラノは呟いて、左手で示した。
「え?」
 ──結い上げていた亜麻色の髪は乱れている。
 茶色の細くて短い枝が髪の間にはさまっていて、先っちょには葉っぱがゆらゆらしている。さながらかんざしのようだ。
 白い服はあちこち擦れて汚れていて、お尻辺りに乾いたドロがついている。はたきはしたようだが擦りついている感じだ。後ろへ転んで、右手で体を支えようとしたのだろう。右手の小指側が全体的に擦れて赤くささくれだっているように見える。皮膚が細かく裂け薄く血が滲んでいる、そこに少し砂が混じっているのだ。早く水で洗わせないと──。
 冒険者風の三人の男と一人の女に囲まれていた。
 彼らを見上げ、何かを話している。
 ユニコーンの姿が、無い。
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