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8−2:出会い(POV:ヴィル)

第133話:神薙のパイ

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 俺が神薙に名乗らなかった理由はほかにもあったが、名乗れるものなら名乗っていた。それは俺の本心だ。

 俺の真意を知ったアレンは小さくため息をつき、手にしていた小さな籠を差し出した。

「リア様から、お礼の品です」

 何が入っているのか覗き込みながら「お礼など要らないと言ったのに、律儀な神薙だな」と言うと、ぬぅーっとクリスの顔が近づいてきた。

「なんだよ」
「いいから、早く開けろ」
「なんでクリスが見るのだ」
「友達だろ」
「仕方のない奴だ」
「見せたいくせに」
「うるさいなあ」

 籠の中には綺麗に包まれた菓子が入っていた。
 バターの焼けた香ばしい香りがして、小さく揺らすとカサッと音がした。
 包みを開けると、平たい棒状の焼き菓子にアーモンドの薄切りがまぶしてあり、蜜がかかっているのか表面が艶々としていた。

「菓子か。しかし、大きさの割に随分と軽い。これは何だ?」
「リア様が手ずから作られた異世界のパイです」

 クリスは目を輝かせ、大きく息を吸い込んで「いい香りだ」と言った。
 俺まで彼の鼻の穴に吸い込まれそうだ。

 「神薙が菓子を作ったのか?」と、俺は尋ねた。

「命令どおり、厨房へ行くことは止めていました。しかし、いつの間にかこれが」

 思わずふっと吹き出した。
 「やはりお転婆か」と笑うと、クリスが「そうなのか?」と身を乗り出した。
 そう、新しい神薙は花のように可憐で、騎士のように気高く、そして大変なお転婆だ。

「なぜ神薙が一人で商人街の横道にいたと思う? 第一騎士団の護衛八人を撒いたからだ」

 クリスは「想像もつかない」と首を振った。

「とっておきの話をしてやるよ」
「なんだよ」
「神薙は屋敷の中でアレンを正面から突破したことがある」
「この敏捷さが売りみたいな書記をか?」
「そうだ」
「マジかよ……」

 「まさかリア様が陽動まで使うとは思わなかったのです」と、アレンは言い訳をした。
 俺はそのしょんぼりとした様子を見て笑いながら、チェスボードから女王・騎士・歩兵の駒を一つずつ手に取った。

 テーブルに一つずつ駒を置いていく。
 黒の歩兵は料理人、黒の騎士はアレン。
 白い駒の女王は神薙だ。

「神薙は厨房に行きたがった。アレンが厨房への道をふさぐように立ち、それを阻んでいた」

 位置関係が分かるように駒を配置すると、クリスが「意地悪な書記だ」と呟いた。

「団長の命令のせいで俺はすっかり悪役でしたよ」

 アレンはむすっとしている。
 命令に忠実に行動していた彼は、この時の神薙にとっては厄介な存在だっただろう。

「神薙は直前まで全然違う方向へ、淑女らしく歩いていた」
「まず、それを見てみたい」
「胸元に大きなリボンがついた桃色のドレスで、侍女と甘い菓子の話をしながら、ゆっくりと歩いていたそうだ。ちょうど茶の時間でサロンへ向かっていた」
「おお、素晴らしい情報に感謝する」

 アレンの報告通りに話してやるとクリスは口元を緩ませた。
 
「しかし、アレンの前を通り過ぎた後、神薙は突如、彼に向かって駆け出した」
「なんだと?」

 背もたれに寄りかかってホワホワと顔を上気させていたクリスは、身体を起こしてこちらへ身を乗り出した。
 俺は女王の駒を騎士に向かって滑らせる。

「二人は正面からぶつかる形になった」
「書記は虚をつかれて判断力が鈍っているだろう」
「そう、それが神薙の狙いだ」
「菓子の話は死んだふりか!」
「おそらくな。アレンに普通にぶつかったのでは勝てない。我々だってそうだ。何かしら他の要素を合わせるだろう? 彼を油断させ、まさか絶対にそれはやらないだろうと思うような戦法を取る。彼女もそれをやった」
「ちょ、待て。これは本当にリア様の話か?」

 クリスは神薙が降りたばかりの時にしか会っていない。
 しかし、俺は商人街の横道で、持っていた紙袋を振り上げてゴロツキに殴り掛かる神薙を見た。
 明らかな劣勢、明らかに敵わない相手でも、ただでは諦めない性格をしている。

「神薙は巧妙に視線を使って『絶対に左へ行く』と見せかける」
「ふむ」
「しかし、神薙はアレンの直前で急に止まった」
「なんと大胆な」
「そこでアレンが陽動だと気づいた」
「しかし、もう頭は大混乱だろう」
「彼女は自分の作戦が最大限に活かせる間合いを心得ている」
「信じられない」

「アレンは左右を突破されないよう両腕を広げていた。しかし神薙は前で止まっている。彼は一歩前へ出た」

「それは駄目だ! 敵の思う壺だぞ!」

 そう言ってからクリスは慌てて「あっ、敵ではない。リア様な?」と言った。

「神薙はそこで勝利を確信しただろう。クルリと翻り、アレンを押しのけた」
「おお……」

「アレンが体勢を崩している間に、左を駆け抜けていったそうだ」
「か……華麗だ……」
「そして、恐ろしく足が速いらしい」

 俺が駒を動かしながら説明し終えると、クリスは「何か訓練でも受けた経験があるのだろうか」と言った。

「これはどこかで作られた『技』ではないのか? 重心を下に置いていないと、こうは体が回っていかない。自分自身の上半身を囮として使う技のように思える」

 クリスが実際に体を動かしながら上半身と下半身の動きを解説すると、アレンはため息混じりに言った。

「俺は確信していますが、あれは絶対に初めてではないですし、攻守の要素が合わさった『逃げるための技』ではないかと。彼女はその訓練を経験しているはずです。足さばきと体重移動が実に巧みで速い。動きに迷いもなかったです」

「やられたわりに饒舌だな」

「何よりも駆け引きに慣れていると思います。素人にあのような殺気のこもった陽動なんてできません。手に武器を持っている相手だったら俺は殺されていたと思います。普通は屈辱を感じるのでしょうが、あまりに素晴らしくて感動してしまいました。前の世界で一体何をやっていたのか……」

 アレンの言うとおり、視線に一瞬の殺気を込めるのは陽動に慣れた騎士や特務師がよく使う技だ。しかも彼自身がそれを得意としており、誰よりも長けている。

 訓練で彼と対峙すると、剣が二本あるように見える。
 通常、我々は剣の軌道や次の一手を予測するために、剣だけでなく相手の目も見る。しかし、彼はその目を使って存在していない剣を振り下ろす男だ。
 左から来ると予測して左を防御すると、本物の彼の剣は右から来る。上だと思ったら下から来る。まるで二人の敵を相手にしているような錯覚に陥るのだ。

 あの華奢で可憐な宮廷訛りの小リスが、この陽動の達人を手玉に取ったのだから実に興味深い。

 「笑い話だから良いが……」と、クリスが真顔になった。

「もし、これがリア様を襲いに来た輩だったなら、大変なことだ」

 そのとおりだった。
 それを一番強く思っていたのは他でもないアレンだ。

 「そのあたりは、叔父上を交えて対策中だ」と言うと、クリスは短く「なるほど」と言った。
 大体の予想はついているのだろうが、彼はそれ以上の深掘りはしなかった。

 俺たちはしばらくの間、三つの駒や体を動かしながら、ああでもないこうでもないと、どうやったら神薙の突破を防げたのかを話し合った。そして、神薙がやった動きを剣にも活かせないかを検討した。
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