187 / 372
第九章 婚約
第189話:古き慣習
しおりを挟む
帰りの馬車で、ほろ酔いのヴィルさんは色気の大洪水を起こしていた。
彼は窓のカーテンをすべて締め切ると、小さな灯りを点け、「我慢の限界」と照れ臭そうな笑顔を覗かせた。
わたしの腰に手を回して引き寄せると、髪を撫で、一束すくうとそこにキスをした。
「いつもいい香りがする」と、彼は言った。
わたしは謎の神薙臭を無意識のうちに巻き散らかしているらしい。
彼いわく『花の香り』だそうだ。
なんだか「メスはオスを引き寄せるために特殊な匂いを放ちます」という、教育系のテレビ番組にありがちなフレーズが思い浮かぶ。
彼がわたしに巻きついてスンスンハァハァしていたのは、その匂いが大好きだからだそうで、徹夜明けに寝室でプッツンとなって大暴れしてしまったのも、それのせいだと言う。
彼はわたしの頬を撫で、いとおしげに髪を指で梳きながら「最初の夫に俺を選んでくれてありがとう」と言った。
最初も何も、わたしは生涯唯一の夫だと思っているし、わたしのほうこそ選んでくれたことに感謝しているのだけど、唇をふさがれてしまったので、それを言う暇はなかった。
彼の肩から首へ腕を回して抱き合うと、身体がぴったりと密着した。
彼は恍惚のため息を漏らし、「好きだ、リア。ずっとこうしていたい」と、わたしの耳元で囁く。
それだけでもわたしは頭がおかしくなりそうなのに、彼はわたしの耳の下に鼻を付けて大きく息を吸い込むと、背中から腰をまさぐるように撫でながら、首筋と耳に幾つもの小さなキスを降らせた。
そのたびに甘い電流が何度も走る。口を押さえたけれど声が漏れた。
「うーん……」
「ど、どうしました?」
「俺、結婚まで我慢できるだろうか……。こうしていると自信がなくなる」
彼がボソッと呟いたので、思わず吹き出してしまった。
彼が「この国の古き慣習に従って、結婚するまでリアとは一線を越えない。清い身で婚姻の日を迎えたい」と言い出したのは、まだわたしの体調があまり安定していなかった頃だ。
この国で人気のある恋愛小説は、「結婚前にそんな! いけません!」と言いつつ相手の男性に押し切られてイイ関係になってしまうのが代表的なテンプレートだ。
わたしとしては、そういう感じで良いのではないかと思っていたのだけれども、彼は意外にも古風だった。
「そんなに無理しなくても。わたし、神薙ですし」
「だからこそだ。一度許したら生活に支障が出るぞ」
「……ど、どうして生活に支障が?」
「分かっていないな」
「何をですか?」
「毎晩俺に抱き潰されて、昼間何もできなくなるぞ?」
「……そこは節度を持てば良いのでは? 結婚まで我慢ができるくらいでしたら、そこでもできるでしょう?」
「リア、冷静に痛いところを突くあたりがアレンに似てきてしまっているぞ」
「うふふ。そこはもともと似ているのですよ」
何にせよ、今、これ以上忙しくなるのは困りものだ。
わたしには『王都におぱんつ革命を起こす』という重大な使命があるし、なによりもダンスの練習をしなければならない。
できればおぱんつ以外のお仕事も探したい。
「急にここへ連れて来られてしまったリアにとって、俺とは一日の重要さが違う。この国で生きていくために、いくつもの努力をしているだろう? 結婚してからでもできることより、今しかできないことを優先させるのは当然だ。その邪魔をするようでは、神薙の夫にふさわしくない」
カッコいい彼の気遣いにお礼を言い、「お互いに無理のない範囲で適宜判断しましょう」と提案した。
わたし達が二人とも幸福でいられる選択を常にしていきたい。
もし、どちらかが我慢をしなくてはならないのなら、その我慢はできるだけ少ないほうが良いし、短い期間にしたい。
そう伝えると、彼はわたしの頬にキスをした。
「リアは俺に甘い」
「ヴィルさんこそ、わたしに激甘ですよ?」
わたしが彼の頬にキスのお返しをすると、彼はプツ……ッと、マリオネットの糸が切れたかのように倒れてきて、わたしに覆いかぶさった。
「……え? ヴィルさん? ちょっ待っ……馬車! 馬車の中ですよっ」
カッコいい決意表明から五分も経っていないのに、この人はこれがあるからワケが分からない。
彼はひとしきりワンワンすると、ドレスの胸のリボンをつまんでプルプルしながら、「今までの訓練で一番キツイ」と呟いた。
「訓練ではないですよ?」
「これ、ほどきたい」
「おうちでなら良いですよ?」
「いや、ダメだ!」
「ど、どっちなのですか……もう」
この国の慣習と常識はさておき、なんともハードルの高い話である。
エムブラ宮殿に到着し、ゲッソリした様子のわたしを見たアレンさんは、何かを悟ったかのように数回頷いた。
彼は護衛として同行していたので、ヴィルさんが嬉々として馬車のカーテンを閉めているのを目にしていた。馬車の中で何が起きていたかも大体は想像がついているだろう。
わたしの乱れた髪を直しながら「車を別々にしたくなったら言ってくださいね。どうとでもできますからね?」と小声で言った。
わたしが頷くと、「歩けます?」と言うので、もう一度コクンと頷いた。
彼は何も言わず頭をヨシヨシしてくれた。
彼は窓のカーテンをすべて締め切ると、小さな灯りを点け、「我慢の限界」と照れ臭そうな笑顔を覗かせた。
わたしの腰に手を回して引き寄せると、髪を撫で、一束すくうとそこにキスをした。
「いつもいい香りがする」と、彼は言った。
わたしは謎の神薙臭を無意識のうちに巻き散らかしているらしい。
彼いわく『花の香り』だそうだ。
なんだか「メスはオスを引き寄せるために特殊な匂いを放ちます」という、教育系のテレビ番組にありがちなフレーズが思い浮かぶ。
彼がわたしに巻きついてスンスンハァハァしていたのは、その匂いが大好きだからだそうで、徹夜明けに寝室でプッツンとなって大暴れしてしまったのも、それのせいだと言う。
彼はわたしの頬を撫で、いとおしげに髪を指で梳きながら「最初の夫に俺を選んでくれてありがとう」と言った。
最初も何も、わたしは生涯唯一の夫だと思っているし、わたしのほうこそ選んでくれたことに感謝しているのだけど、唇をふさがれてしまったので、それを言う暇はなかった。
彼の肩から首へ腕を回して抱き合うと、身体がぴったりと密着した。
彼は恍惚のため息を漏らし、「好きだ、リア。ずっとこうしていたい」と、わたしの耳元で囁く。
それだけでもわたしは頭がおかしくなりそうなのに、彼はわたしの耳の下に鼻を付けて大きく息を吸い込むと、背中から腰をまさぐるように撫でながら、首筋と耳に幾つもの小さなキスを降らせた。
そのたびに甘い電流が何度も走る。口を押さえたけれど声が漏れた。
「うーん……」
「ど、どうしました?」
「俺、結婚まで我慢できるだろうか……。こうしていると自信がなくなる」
彼がボソッと呟いたので、思わず吹き出してしまった。
彼が「この国の古き慣習に従って、結婚するまでリアとは一線を越えない。清い身で婚姻の日を迎えたい」と言い出したのは、まだわたしの体調があまり安定していなかった頃だ。
この国で人気のある恋愛小説は、「結婚前にそんな! いけません!」と言いつつ相手の男性に押し切られてイイ関係になってしまうのが代表的なテンプレートだ。
わたしとしては、そういう感じで良いのではないかと思っていたのだけれども、彼は意外にも古風だった。
「そんなに無理しなくても。わたし、神薙ですし」
「だからこそだ。一度許したら生活に支障が出るぞ」
「……ど、どうして生活に支障が?」
「分かっていないな」
「何をですか?」
「毎晩俺に抱き潰されて、昼間何もできなくなるぞ?」
「……そこは節度を持てば良いのでは? 結婚まで我慢ができるくらいでしたら、そこでもできるでしょう?」
「リア、冷静に痛いところを突くあたりがアレンに似てきてしまっているぞ」
「うふふ。そこはもともと似ているのですよ」
何にせよ、今、これ以上忙しくなるのは困りものだ。
わたしには『王都におぱんつ革命を起こす』という重大な使命があるし、なによりもダンスの練習をしなければならない。
できればおぱんつ以外のお仕事も探したい。
「急にここへ連れて来られてしまったリアにとって、俺とは一日の重要さが違う。この国で生きていくために、いくつもの努力をしているだろう? 結婚してからでもできることより、今しかできないことを優先させるのは当然だ。その邪魔をするようでは、神薙の夫にふさわしくない」
カッコいい彼の気遣いにお礼を言い、「お互いに無理のない範囲で適宜判断しましょう」と提案した。
わたし達が二人とも幸福でいられる選択を常にしていきたい。
もし、どちらかが我慢をしなくてはならないのなら、その我慢はできるだけ少ないほうが良いし、短い期間にしたい。
そう伝えると、彼はわたしの頬にキスをした。
「リアは俺に甘い」
「ヴィルさんこそ、わたしに激甘ですよ?」
わたしが彼の頬にキスのお返しをすると、彼はプツ……ッと、マリオネットの糸が切れたかのように倒れてきて、わたしに覆いかぶさった。
「……え? ヴィルさん? ちょっ待っ……馬車! 馬車の中ですよっ」
カッコいい決意表明から五分も経っていないのに、この人はこれがあるからワケが分からない。
彼はひとしきりワンワンすると、ドレスの胸のリボンをつまんでプルプルしながら、「今までの訓練で一番キツイ」と呟いた。
「訓練ではないですよ?」
「これ、ほどきたい」
「おうちでなら良いですよ?」
「いや、ダメだ!」
「ど、どっちなのですか……もう」
この国の慣習と常識はさておき、なんともハードルの高い話である。
エムブラ宮殿に到着し、ゲッソリした様子のわたしを見たアレンさんは、何かを悟ったかのように数回頷いた。
彼は護衛として同行していたので、ヴィルさんが嬉々として馬車のカーテンを閉めているのを目にしていた。馬車の中で何が起きていたかも大体は想像がついているだろう。
わたしの乱れた髪を直しながら「車を別々にしたくなったら言ってくださいね。どうとでもできますからね?」と小声で言った。
わたしが頷くと、「歩けます?」と言うので、もう一度コクンと頷いた。
彼は何も言わず頭をヨシヨシしてくれた。
54
お気に入りに追加
455
あなたにおすすめの小説
前世軍医だった傷物令嬢は、幸せな花嫁を夢見る
花雨宮琵
恋愛
侯爵令嬢のローズは、10歳のある日、背中に刀傷を負い生死の境をさまよう。
その時に見た夢で、軍医として生き、結婚式の直前に婚約者を亡くした前世が蘇る。
何とか一命を取り留めたものの、ローズの背中には大きな傷が残った。
“傷物令嬢”として揶揄される中、ローズは早々に貴族女性として生きることを諦め、隣国の帝国医学校へ入学する。
背中の傷を理由に六回も婚約を破棄されるも、18歳で隣国の医師資格を取得。自立しようとした矢先に王命による7回目の婚約が結ばれ、帰国を余儀なくされる。
7人目となる婚約者は、弱冠25歳で東の将軍となった、ヴァンドゥール公爵家次男のフェルディナンだった。
長年行方不明の想い人がいるフェルディナンと、義務ではなく愛ある結婚を夢見るローズ。そんな二人は、期間限定の条件付き婚約関係を結ぶことに同意する。
守られるだけの存在でいたくない! と思うローズは、一人の医師として自立し、同時に、今世こそは愛する人と結ばれて幸せな家庭を築きたいと願うのであったが――。
この小説は、人生の理不尽さ・不条理さに傷つき悩みながらも、幸せを求めて奮闘する女性の物語です。
※この作品は2年前に掲載していたものを大幅に改稿したものです。
(C)Elegance 2025 All Rights Reserved.無断転載・無断翻訳を固く禁じます。
女性が全く生まれない世界とか嘘ですよね?
青海 兎稀
恋愛
ただの一般人である主人公・ユヅキは、知らぬうちに全く知らない街の中にいた。ここがどこだかも分からず、ただ当てもなく歩いていた時、誰かにぶつかってしまい、そのまま意識を失う。
そして、意識を取り戻し、助けてくれたイケメンにこの世界には全く女性がいないことを知らされる。
そんなユヅキの逆ハーレムのお話。
旦那様が多すぎて困っています!? 〜逆ハー異世界ラブコメ〜
ことりとりとん
恋愛
男女比8:1の逆ハーレム異世界に転移してしまった女子大生・大森泉
転移早々旦那さんが6人もできて、しかも魔力無限チートがあると教えられて!?
のんびりまったり暮らしたいのにいつの間にか国を救うハメになりました……
イケメン山盛りの逆ハーです
前半はラブラブまったりの予定。後半で主人公が頑張ります
小説家になろう、カクヨムに転載しています
異世界から来た娘が、たまらなく可愛いのだが(同感)〜こっちにきてから何故かイケメンに囲まれています〜
京
恋愛
普通の女子高生、朱璃はいつのまにか異世界に迷い込んでいた。
右も左もわからない状態で偶然出会った青年にしがみついた結果、なんとかお世話になることになる。一宿一飯の恩義を返そうと懸命に生きているうちに、国の一大事に巻き込まれたり巻き込んだり。気付くと個性豊かなイケメンたちに大切に大切にされていた。
そんな乙女ゲームのようなお話。
勘違いは程々に
蜜迦
恋愛
年に一度開催される、王国主催の馬上槍試合(トーナメント)。
大歓声の中、円形闘技場の中央で勝者の証であるトロフィーを受け取ったのは、精鋭揃いで名高い第一騎士団で副団長を務めるリアム・エズモンド。
トーナメントの優勝者は、褒美としてどんな願いもひとつだけ叶えてもらうことができる。
観客は皆、彼が今日かねてから恋仲にあった第二王女との結婚の許しを得るため、その権利を使うのではないかと噂していた。
歓声の中見つめ合うふたりに安堵のため息を漏らしたのは、リアムの婚約者フィオナだった。
(これでやっと、彼を解放してあげられる……)
獣人の彼はつがいの彼女を逃がさない
たま
恋愛
気が付いたら異世界、深魔の森でした。
何にも思い出せないパニック中、恐ろしい生き物に襲われていた所を、年齢不詳な美人薬師の師匠に助けられた。そんな優しい師匠の側でのんびりこ生きて、いつか、い つ か、この世界を見て回れたらと思っていたのに。運命のつがいだと言う狼獣人に、強制的に広い世界に連れ出されちゃう話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる