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第九章 婚約

第189話:古き慣習

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 帰りの馬車で、ほろ酔いのヴィルさんは色気の大洪水を起こしていた。
 彼は窓のカーテンをすべて締め切ると、小さな灯りを点け、「我慢の限界」と照れ臭そうな笑顔を覗かせた。
 わたしの腰に手を回して引き寄せると、髪を撫で、一束すくうとそこにキスをした。

 「いつもいい香りがする」と、彼は言った。
 わたしは謎の神薙臭を無意識のうちに巻き散らかしているらしい。
 彼いわく『花の香り』だそうだ。
 なんだか「メスはオスを引き寄せるために特殊な匂いを放ちます」という、教育系のテレビ番組にありがちなフレーズが思い浮かぶ。

 彼がわたしに巻きついてスンスンハァハァしていたのは、その匂いが大好きだからだそうで、徹夜明けに寝室でプッツンとなって大暴れしてしまったのも、それのせいだと言う。

 彼はわたしの頬を撫で、いとおしげに髪を指で梳きながら「最初の夫に俺を選んでくれてありがとう」と言った。
 最初も何も、わたしは生涯唯一の夫だと思っているし、わたしのほうこそ選んでくれたことに感謝しているのだけど、唇をふさがれてしまったので、それを言う暇はなかった。

 彼の肩から首へ腕を回して抱き合うと、身体がぴったりと密着した。
 彼は恍惚のため息を漏らし、「好きだ、リア。ずっとこうしていたい」と、わたしの耳元で囁く。
 それだけでもわたしは頭がおかしくなりそうなのに、彼はわたしの耳の下に鼻を付けて大きく息を吸い込むと、背中から腰をまさぐるように撫でながら、首筋と耳に幾つもの小さなキスを降らせた。
 そのたびに甘い電流が何度も走る。口を押さえたけれど声が漏れた。

「うーん……」
「ど、どうしました?」
「俺、結婚まで我慢できるだろうか……。こうしていると自信がなくなる」

 彼がボソッと呟いたので、思わず吹き出してしまった。

 彼が「この国の古き慣習に従って、結婚するまでリアとは一線を越えない。清い身で婚姻の日を迎えたい」と言い出したのは、まだわたしの体調があまり安定していなかった頃だ。

 この国で人気のある恋愛小説は、「結婚前にそんな! いけません!」と言いつつ相手の男性に押し切られてイイ関係になってしまうのが代表的なテンプレートだ。
 わたしとしては、そういう感じで良いのではないかと思っていたのだけれども、彼は意外にも古風だった。

「そんなに無理しなくても。わたし、神薙ですし」
「だからこそだ。一度許したら生活に支障が出るぞ」
「……ど、どうして生活に支障が?」
「分かっていないな」
「何をですか?」
「毎晩俺に抱き潰されて、昼間何もできなくなるぞ?」
「……そこは節度を持てば良いのでは? 結婚まで我慢ができるくらいでしたら、そこでもできるでしょう?」
「リア、冷静に痛いところを突くあたりがアレンに似てきてしまっているぞ」
「うふふ。そこはもともと似ているのですよ」

 何にせよ、今、これ以上忙しくなるのは困りものだ。
 わたしには『王都におぱんつ革命を起こす』という重大な使命があるし、なによりもダンスの練習をしなければならない。
 できればおぱんつ以外のお仕事も探したい。

「急にここへ連れて来られてしまったリアにとって、俺とは一日の重要さが違う。この国で生きていくために、いくつもの努力をしているだろう? 結婚してからでもできることより、今しかできないことを優先させるのは当然だ。その邪魔をするようでは、神薙の夫にふさわしくない」

 カッコいい彼の気遣いにお礼を言い、「お互いに無理のない範囲で適宜判断しましょう」と提案した。

 わたし達が二人とも幸福でいられる選択を常にしていきたい。
 もし、どちらかが我慢をしなくてはならないのなら、その我慢はできるだけ少ないほうが良いし、短い期間にしたい。

 そう伝えると、彼はわたしの頬にキスをした。

「リアは俺に甘い」
「ヴィルさんこそ、わたしに激甘ですよ?」

 わたしが彼の頬にキスのお返しをすると、彼はプツ……ッと、マリオネットの糸が切れたかのように倒れてきて、わたしに覆いかぶさった。

「……え? ヴィルさん? ちょっ待っ……馬車! 馬車の中ですよっ」

 カッコいい決意表明から五分も経っていないのに、この人はこれがあるからワケが分からない。
 彼はひとしきりワンワンすると、ドレスの胸のリボンをつまんでプルプルしながら、「今までの訓練で一番キツイ」と呟いた。

「訓練ではないですよ?」
「これ、ほどきたい」
「おうちでなら良いですよ?」
「いや、ダメだ!」
「ど、どっちなのですか……もう」

 この国の慣習と常識はさておき、なんともハードルの高い話である。

 エムブラ宮殿に到着し、ゲッソリした様子のわたしを見たアレンさんは、何かを悟ったかのように数回頷いた。
 彼は護衛として同行していたので、ヴィルさんが嬉々として馬車のカーテンを閉めているのを目にしていた。馬車の中で何が起きていたかも大体は想像がついているだろう。

 わたしの乱れた髪を直しながら「車を別々にしたくなったら言ってくださいね。どうとでもできますからね?」と小声で言った。
 わたしが頷くと、「歩けます?」と言うので、もう一度コクンと頷いた。
 彼は何も言わず頭をヨシヨシしてくれた。
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