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第九章 婚約
第184話:パンダ……
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夜、一人でのんびりと過ごす時間に、新たな楽しみが出来た。
リビングの一角に三~四畳ほどの土足禁止エリア『リア様のお茶の間』を作ったのだ。
陛下から頂いたラグを敷き、そこに大小のクッションと丸いローテーブルを設置すれば完璧だ。ラグは厚みがあるので、寝そべってもフカフカしている。おかげで最近、ソファーよりもそこでくつろぐことが増えた。一度入ったら抜け出せない、寝落ち必至の幸せ空間である。
お風呂上りはそこでレモン水をぐびぐび飲みながら読書。最高のリラクシングタイムだ。
幸福感に悶えながら時計を見ると、夜九時前だった。
団長会議は夕方に終わっているはずなのに、ヴィルさんの帰りが遅い。いつもなら一緒に過ごしている時間なのに……。
心配していると、小さなノック音が聞こえた。
「団長が戻りました。お会いになられますか?」と、ドア越しにアレンさんが聞いてきた。
「はい」と答え、ついでに「アレンさんも早く上がって休んで」と伝えた。
しばらくすると再びノックが聞こえたので、ドアを開けた。
そこにヴィルさんがいた。しかし、少々様子がおかしい。
「お、お帰りなさい?」と、声を掛けながら中に入ってもらうよう促した。
「テライミャ……」
え、今なんて言った? あれ? なんかヴィルさん、ちっちゃくなっていませんか? 世界を癒す王族スマイルはどうしました? 心なしか透明度も落ちているみたいですけれど……。
いつもならキランキランの笑顔を浮かべ、両手を広げて「ただいま&おいで」をするのに、今日の彼はどんよりと濁った空気をまとって幽霊のようにフラリフラリと部屋へ入ってくる。
ふと彼の足音がしていないことに気がついた。ギョっとして足元を見たところ、一応、足は生えていた。
部屋に入ると彼はすぐに立ち止まり、手をゴソゴソと動かし始めた。どうやら上着を脱ごうとしているらしい。しかし、彼の手はボタンの前でスカッ、スカッと空を切っており、一向に脱げる気配がない。空振りするたびに「うにゅ」とか「はにゃ」といった謎の鳴き声が聞こえてくる。
まさか……タヌキとかキツネとか、動物の低級霊でも憑いているのだろうか。
見ていられず、彼の前へ行ってボタンを外し、ジャケットを肩まで脱がせてから後ろへ回り、下に引き下げて完全に脱がせた。すると、彼の後頭部あたりから「アニガトウ」という声が聞こえてきた。
どうやらお礼を言っているようだけれども、活舌の一部が崖崩れを起こしている。
彼はソファーに腰かけてガックリと項垂れた。最終ラウンドまで戦ったボクサーよりも疲労の色が濃い。なのに、向こう側にある暖炉が透けて見えるのは目の錯覚だろうか……。
膝に手首を乗せているせいで、手がダラリと下に垂れていた。
疲労と精神的な落ち込みが混ぜこぜになり、あの世との境目で漂う地縛霊のようだった。しかし、骨ばった手に浮き出た血管がセクシー過ぎるし、そもそも顔が良すぎて「うらめしや」が似合わない。幽霊になっても、まだ微量のフェロモンをまき散らしている。
「ど、どうしました? 何があったの? 大丈夫ですか?」
「俺は……俺は、ダメな夫だ……」
「そんなことはありません。しっかりして、ヴィルさん」
自信を失った婚約者を、わけも分からないまま励ました。彼の背中の曲がり具合たるや、まるで大人のパンダでも背負っているかのよう。なぜ、わたしの婚約者が、週末の夜にパンダの霊を背負って帰ってこなければならないのだろう。
彼の背中をそっとさすりながら、心の中で「悪霊退散」と三回唱えた。しばらくすると、彼は急にシャキンと背を伸ばし「なんだか急に肩が軽くなった」と言う。
見たか、わたしの愛の力。パンダさん、どうぞ山へお帰りください。そして二度と来ないでください。
「何でも話し合って乗り越えようって決めたでしょう? 一人で抱え込まずに話してください」
彼はわたしを強く抱き締めると、パンダを背負ってきた理由を語り始めた。
「リアに負担をかけるから、俺は猛反対した。しかし、叔父上が、まるで石のように頑固で……」
犯人はイケオジ陛下である。どうやら仕事を終えてから、二人きりでドンパチやり合っていたようだ。
「陛下が何て言ったのですか?」
「神薙の婚約発表をしたい、と」
「婚約発表?」
「そう……」
色々落ち着いたばかりだから、そっとしておいてほしいと彼は主張した。ところが、陛下から「お前の意見は聞いていない。リアに聞いてこい」と押し切られてしまったそうだ。
「俺達がどれほど二人きりの時間を必要としているか、叔父上はちっとも分かっていないんだよ」と、彼はナミヘイさんに叱られた直後のカツオ君のように言った。
婚約発表というと、記者団に馴れ初めを語ったり、婚約指輪を見せたりするアレのことだろうか。
プロポーズの言葉は? それに何と答えたのですか? 出会いはどこでしたか? 結婚の決め手になったのは彼のどういうところでしたか? だいたい答えるべき質問は決まっているから、あらかじめ考えて練習しておけばどうにかなる気がする。
「記者さんに発表するのですよね?」と聞くと、彼は首を横に振った。記者会見ではないらしい。
「では、お披露目会のようなものでしょうか?」と聞いたところ、それにも彼は首を振って「規模が違う」と言った。
ああ、嫌な予感が……。
「披露目の会よりも、だいぶ規模が大きい。というか国内最大級」と、彼は言った。
わたしは「うげっ」と、淑女らしからぬ声を上げてしまった。
「ごめんなさい。はしたない声を出してしまって」
「いや、俺もそんな気分だ。最悪だよな」
ヴィルさんは大きなため息をつくと、話を続けた。
「冬の社交……って、分かるか?」
「ええと、聞きかじっただけですが、貴族の皆さんが王都に来て、お食事会とかダンスとかをなさると」
「毎年、国内のほぼすべての貴族を招待する国王主催の舞踏会がある。王都で一番大きな会場を使って盛大にやるのだが、そこで婚約発表をすることになる」
「い、一番大きな会場……ですか」
ゴクリとつばを飲み込んだ。
「披露目の会は、舞踏会とは切り離した別の催しだった。しかも客は天人族のみ。しかし、今度はヒト族の貴族も含まれる。発表は舞踏会の冒頭だ。つまり、俺達が主役ということになり、中央で一曲目を踊ることになる……」
「中央で踊……えええーーーッッッ!」
貴族全員集合の舞踏会となれば、相当な人数に上るだろう。またドレスだお飾りだで身内が大騒ぎになる。
そればかりか、踊る? ダンス? 無理ですよ、やったこともないのに。 ああぁ……お願い、嘘だと言って。
リビングの一角に三~四畳ほどの土足禁止エリア『リア様のお茶の間』を作ったのだ。
陛下から頂いたラグを敷き、そこに大小のクッションと丸いローテーブルを設置すれば完璧だ。ラグは厚みがあるので、寝そべってもフカフカしている。おかげで最近、ソファーよりもそこでくつろぐことが増えた。一度入ったら抜け出せない、寝落ち必至の幸せ空間である。
お風呂上りはそこでレモン水をぐびぐび飲みながら読書。最高のリラクシングタイムだ。
幸福感に悶えながら時計を見ると、夜九時前だった。
団長会議は夕方に終わっているはずなのに、ヴィルさんの帰りが遅い。いつもなら一緒に過ごしている時間なのに……。
心配していると、小さなノック音が聞こえた。
「団長が戻りました。お会いになられますか?」と、ドア越しにアレンさんが聞いてきた。
「はい」と答え、ついでに「アレンさんも早く上がって休んで」と伝えた。
しばらくすると再びノックが聞こえたので、ドアを開けた。
そこにヴィルさんがいた。しかし、少々様子がおかしい。
「お、お帰りなさい?」と、声を掛けながら中に入ってもらうよう促した。
「テライミャ……」
え、今なんて言った? あれ? なんかヴィルさん、ちっちゃくなっていませんか? 世界を癒す王族スマイルはどうしました? 心なしか透明度も落ちているみたいですけれど……。
いつもならキランキランの笑顔を浮かべ、両手を広げて「ただいま&おいで」をするのに、今日の彼はどんよりと濁った空気をまとって幽霊のようにフラリフラリと部屋へ入ってくる。
ふと彼の足音がしていないことに気がついた。ギョっとして足元を見たところ、一応、足は生えていた。
部屋に入ると彼はすぐに立ち止まり、手をゴソゴソと動かし始めた。どうやら上着を脱ごうとしているらしい。しかし、彼の手はボタンの前でスカッ、スカッと空を切っており、一向に脱げる気配がない。空振りするたびに「うにゅ」とか「はにゃ」といった謎の鳴き声が聞こえてくる。
まさか……タヌキとかキツネとか、動物の低級霊でも憑いているのだろうか。
見ていられず、彼の前へ行ってボタンを外し、ジャケットを肩まで脱がせてから後ろへ回り、下に引き下げて完全に脱がせた。すると、彼の後頭部あたりから「アニガトウ」という声が聞こえてきた。
どうやらお礼を言っているようだけれども、活舌の一部が崖崩れを起こしている。
彼はソファーに腰かけてガックリと項垂れた。最終ラウンドまで戦ったボクサーよりも疲労の色が濃い。なのに、向こう側にある暖炉が透けて見えるのは目の錯覚だろうか……。
膝に手首を乗せているせいで、手がダラリと下に垂れていた。
疲労と精神的な落ち込みが混ぜこぜになり、あの世との境目で漂う地縛霊のようだった。しかし、骨ばった手に浮き出た血管がセクシー過ぎるし、そもそも顔が良すぎて「うらめしや」が似合わない。幽霊になっても、まだ微量のフェロモンをまき散らしている。
「ど、どうしました? 何があったの? 大丈夫ですか?」
「俺は……俺は、ダメな夫だ……」
「そんなことはありません。しっかりして、ヴィルさん」
自信を失った婚約者を、わけも分からないまま励ました。彼の背中の曲がり具合たるや、まるで大人のパンダでも背負っているかのよう。なぜ、わたしの婚約者が、週末の夜にパンダの霊を背負って帰ってこなければならないのだろう。
彼の背中をそっとさすりながら、心の中で「悪霊退散」と三回唱えた。しばらくすると、彼は急にシャキンと背を伸ばし「なんだか急に肩が軽くなった」と言う。
見たか、わたしの愛の力。パンダさん、どうぞ山へお帰りください。そして二度と来ないでください。
「何でも話し合って乗り越えようって決めたでしょう? 一人で抱え込まずに話してください」
彼はわたしを強く抱き締めると、パンダを背負ってきた理由を語り始めた。
「リアに負担をかけるから、俺は猛反対した。しかし、叔父上が、まるで石のように頑固で……」
犯人はイケオジ陛下である。どうやら仕事を終えてから、二人きりでドンパチやり合っていたようだ。
「陛下が何て言ったのですか?」
「神薙の婚約発表をしたい、と」
「婚約発表?」
「そう……」
色々落ち着いたばかりだから、そっとしておいてほしいと彼は主張した。ところが、陛下から「お前の意見は聞いていない。リアに聞いてこい」と押し切られてしまったそうだ。
「俺達がどれほど二人きりの時間を必要としているか、叔父上はちっとも分かっていないんだよ」と、彼はナミヘイさんに叱られた直後のカツオ君のように言った。
婚約発表というと、記者団に馴れ初めを語ったり、婚約指輪を見せたりするアレのことだろうか。
プロポーズの言葉は? それに何と答えたのですか? 出会いはどこでしたか? 結婚の決め手になったのは彼のどういうところでしたか? だいたい答えるべき質問は決まっているから、あらかじめ考えて練習しておけばどうにかなる気がする。
「記者さんに発表するのですよね?」と聞くと、彼は首を横に振った。記者会見ではないらしい。
「では、お披露目会のようなものでしょうか?」と聞いたところ、それにも彼は首を振って「規模が違う」と言った。
ああ、嫌な予感が……。
「披露目の会よりも、だいぶ規模が大きい。というか国内最大級」と、彼は言った。
わたしは「うげっ」と、淑女らしからぬ声を上げてしまった。
「ごめんなさい。はしたない声を出してしまって」
「いや、俺もそんな気分だ。最悪だよな」
ヴィルさんは大きなため息をつくと、話を続けた。
「冬の社交……って、分かるか?」
「ええと、聞きかじっただけですが、貴族の皆さんが王都に来て、お食事会とかダンスとかをなさると」
「毎年、国内のほぼすべての貴族を招待する国王主催の舞踏会がある。王都で一番大きな会場を使って盛大にやるのだが、そこで婚約発表をすることになる」
「い、一番大きな会場……ですか」
ゴクリとつばを飲み込んだ。
「披露目の会は、舞踏会とは切り離した別の催しだった。しかも客は天人族のみ。しかし、今度はヒト族の貴族も含まれる。発表は舞踏会の冒頭だ。つまり、俺達が主役ということになり、中央で一曲目を踊ることになる……」
「中央で踊……えええーーーッッッ!」
貴族全員集合の舞踏会となれば、相当な人数に上るだろう。またドレスだお飾りだで身内が大騒ぎになる。
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