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8−6:神薙人質事件(POV:ヴィル)

第157話:事件の予兆

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 「こんな時間に客か?」

 遅い時間の来訪者に、クリスは怪訝そうな面持ちで出ていった。
 しかし、すぐにバタバタと慌てて戻ってきた。

「お前に急ぎの客らしい。ベルソール商会の営業でジオと名乗ったそうだ」
「イドレを探らせている特務師だ。なぜここにいると分かったのだろう。恐ろしいな」
「ここに通してもらうよう頼んだ」

 ジオは遅い時間の訪問を詫びると、依頼とは別件かも知れないが取り急ぎ耳に入れておきたい話があると言った。

 イドレの調査が始まってから日は浅かったが、奴は連日賭博場にいた。
 場内ではおとなしく遊んでいるらしく、その態度は紳士だという。しかし、頻度の高さから賭博依存の疑いがあるとジオは言う。
 尾行初日、イドレは掛け金の高い賭博場『コンラート』で大きく負け、翌日は庶民街に近い安めの賭博場『ボナンザ』へ行った。
 そして翌々日、世は給料日だったのだが、彼は出勤せず一直線に銀行へ向かった。そこで金を下ろすと、また『コンラート』へ行った。

 「これまで、賭博場から家へ真っ直ぐ帰宅していましたが」と、ジオは言った。

「今日は家に帰らず夜の繁華街へ出たので尾行しました」

 ジオが仲間と共に尾行をしていると、彼は『マルコスの酒場』へ入っていった。
 そこは客がカウンターで金を払いながら注文し、酒や料理を受け取って自ら席まで運ぶ形式の庶民向け酒場だ。何を頼んでも同一価格で計算が楽なので人気がある。

 ジオは店の外に連絡係を一人残し、もう一人の特務師と共に店内まで追った。
 しかし、休日前の給料日とあって酒場はごった返しており、イドレに近づくのに苦労した。
 すぐに二名態勢での情報収集は困難だと判断し、増員を要請するために仲間を店内に残して出口へと向かった。
 彼が人の多い通路を通り抜けるのに苦労しているところで、気になる話が耳に飛び込んできたと言う。

 彼はそこで耳にした会話をそのまま我々に伝えてくれた。
 
「……本当にそう言ったのか?」

 クリスが声を低くして言うと、ジオは頷いた。
 それは、何も知らない者が聞いたなら、ペットとして飼っているカナリアの話をしているかのような、些細な日常会話に過ぎない。
 しかし、俺達にはそんな呑気な会話には聞こえなかった。
 なぜなら、仮にそのすべてが裏社会の隠語だったとしたならば、意味合いが全く違ってくるからだ。

「神薙を連れてどこかへ行き、売り飛ばす話をしているようにしか聞こえない……」

 クリスが言うと、ジオは頷いた。

 混雑した店内は、店員を含む多くの客が動き回っており、その発言の主は特定できなかったと言う。
 イドレは一人で酒を飲んでおり、その不穏な会話が聞こえた場所からは十メートル以上の距離があったそうだ。

「位置関係からしてイドレはこの会話に無関係である可能性が高いです。本当に愛鳥家がペットのカナリアについて話していただけという可能性も当然あります」

 クリスが首を振った。

「イドレの関与がないとしても、隠語の神薙襲撃計画を聞いて、愛玩鳥の話だと言えるほど、俺は楽観主義ではないぞ」

 「ええ、私もです」と、ジオは言った。

 彼が帰った後、俺は急いで帰り支度を始めた。すると、クリスが「落ち着け」と言った。

「落ち着いている」
「今夜エムブラ宮殿を襲うのは困難だ。ついさっき庶民の酒場で犯罪計画を喋っていたのだとしたら、今日が決行日ではない。それに、アレンとフィデルの双竜が揃っているところにお前が急いで戻ったところで戦力に変化もない。あの二人は指揮も執れる」

 彼の指摘が正しすぎて、俺は鞄から手を離した。

「お前ならどうする? 神薙を襲撃して身柄をどこかに売ることにした。どこでやる?」
「考えたくもない」
「考えろ!」
「俺の場合は馬車だ。馬車での移動中を狙う」
「お前の場合は戦闘能力の都合で外になるな」
「クリスならどうする」
「俺が犯人なら見合いの場一択だ。他の選択肢はない」
「警備に穴があると?」
「いいや。仕組みに穴がある。自分の順番が来たときにやればいい。二人きりになれるという情報があれば十分計画ができる。彼女を人質にすれば誰も手出しはできない。外に待機させておいた仲間と合流して運ぶだけだ」

 クリスはそう言ったが、すぐに人差し指を立てて「もちろんこれは俺がアホウドリだった場合だぞ?」と付け加えた。

「そもそも馬車に乗せて第一騎士団の追っ手から逃げ切ることは不可能だ。重量が違うし、馬が違う。知能犯は自分の身を守るために通すべきスジを通すが、脳味噌の足りない連中はその場の思いつきで何をするか分からない」

 「陛下に見合いの中断を直談判できないか」と、クリスは言った。

 俺もそうしたいのは山々だったが、頼みの綱である叔父は隣国へ出向いており、戻りは次の見合いの翌日夕方になる予定だった。
 宰相は国内に残って最低限の権限委譲を受けているが、大きな裁決を下す権限までは持っていない。それに彼も一人でてんてこ舞いしている状態だ。
 仮に宰相に頼んでイドレを担当から外したとする。別の文官が担当になったとしても優秀な人材ではないだろう。王命が書かれた文書がないのならば、結局同じやり方になってしまう。

 特務師を使って文官の素行を探っていたことがバレるのも厄介だ。
 文官をやたらと保護している法に抵触しそうな点も気にはなるが、ベルソール商会が特務組織だとバレるのは困る。
 表向き、王と付き合いがあるのは「商人の」ベルソールだ。
 公の特務機関である王都特務師団がありながら、王家が民間の隠密とズブズブの関係だと知られるわけにはいかない。
 平日の真っ昼間に奴が賭博場にいたことを特務師の話を抜きに説明するのは難しい。

 かと言って、見合いを妨害すれば、俺達が騎士法違反になる可能性が出てくる。
 十三条の手続きをするには王がいなければできない。それに、公にできる決定的な証拠が足りない。

「なぜ、法がとことん俺の邪魔をするのだろう。すべてが『叔父さえいれば』で行き詰まる。まさか、叔父のいない期間を狙われているのでは……」
「出発日は非公開だろう? しかし、情報が漏洩しているなら、その可能性はある」
「くそっ!」
「落ち着け、ヴィル」
「落ち着いてなどいられない!」
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