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第二話
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まず初めに、クリストファーは一般階級の人間が見ることができる中で最上級のバレエをソフィアに見せた。
ソフィアは床の上を水面さながらに泳ぎ舞い踊るバレリーナたちに目を奪われ、エメラルドの瞳を終始爛々と輝かせて感嘆した。演目が終わると、クリストファーの狙い通り、ソフィアはバレリーナの真似事をしたがった。礼儀作法だけは叩き込まれているため、衆目を尻目に踊り出すようなことはしなかったが、右手の指は自身のももの上でリズムをとってうねり、左手はバレリーナのようにしなやかに、しかし再現しきれずくねくねと滑稽な様相でせわしなく動きたがった。
「バレエに使える部屋を、一つ貸し切ってある。これから、君が練習に使い続けることになる部屋だ。そこでなら、どれほど激しく踊っても、誰も文句は言わないよ。さぁ、行こう」
差し伸べられたクリストファーの手を、何の迷いもなく取り、ソフィアは頷いた。
「馬車は初めてかい?」
繋がれた二頭の馬に怯えるソフィアに、クリストファーは笑いかける。
「はい。馬車、というのですね。このような大きな動物は初めてです」
ソフィアは馬のことを馬車と呼ぶのだと勘違いしているのかもしれなかったが、クリストファーにとって、それは些細なことだった。またいつか、教えれば良いのだ。
乗りづらそうにしているソフィアの腕をとり、クリストファーが持ち上げてやると、少女はようやく中へ乗り込んだ。
「そのドレスではあちこち動き回るには向かないね。あとで、もっと動きやすい服を買ってあげよう」
「ありがとうございます。それで、あなたのことは、なんとお呼びすれば?」
ソフィアが躊躇いながら問うと、クリストファーはその不安を吹き飛ばさんと声を出して笑った。
「すまない、自己紹介がまだだったね。私はクリストファー。気軽にクリスと呼んでくれて良い」
「そういうわけにはいきません。それでは、先生、とお呼びしますね」
逡巡の後、ソフィアはそう言って笑い返した。社交辞令とは思えない、とても自然な笑みだった。
「わかった。君がそういうなら、それでいい。だけど、その呼び方は対等じゃないな」
疑問を顔に浮かべ、続きを促すソフィア。箱庭で育ったとは思えないほど、会話は自然だった。
「いつか、君が私を、先生として扱う必要がなくなったとき、そのときは対等に、クリストファーとか、クリス、と呼んでくれ。いいね?」
「はい」
眠りにつく赤子に語りかけるようにクリストファーが告げると、ソフィアは嬉しそうに応じた。
それから、クリストファーによる、ソフィアのバレエのレッスンが始まった。クリストファーは体をしなやかに動かすコツや、バランス感覚を失わないためのテクニックなどを教えた。しかし、表現の仕方を指導することは決してせず、ソフィアの思うように踊らせた。
ソフィアもクリストファーも、笑みが絶えなかった。それは両者にとって忘れられない時間となった。そして、バレエのレッスンの一環として、クリストファーはソフィアに箱庭の外の様々なものを見せた。光も闇も、その中には等しく混ぜ込まれていた。
そんなある日、クリストファーは自身の様々なコレクションーー世界中のコインや写真、そして、ウォーディアン・ケースやベル・グラスなどーーを見たいとせがまれ、ソフィアを自らの家に招いた。
クリストファーに連れられ、玄関に入るソフィア。その目に飛び込んできたのは、靴箱の上に三つ並んだ鐘型のガラスケースに封じ込められた羊歯類の植物だった。
「これがウォーディアン・ケースですか?」
輝かせた目を見開いたまま尋ねてくるソフィアのその姿は、初めて対面したときからは想像もできないほど年相応に子どもらしく、クリストファーは笑みを深めた。
「これはベル・グラスだよ。ウォーディアン・ケースはとても高価なものだから、こんな場所にいくつも置いておくことはできないんだ」
「そうなんですね」
落胆するソフィアに、クリストファーは続ける。
「けれど、このベル・グラスも、ウォーディアン・ケースと同じ原理で作られたものなんだよ」「では、その植物たちも、買ってから一度も水をあげていないのですか?」
「そうだよ。ウォーディアン・ケースほどではないが、このガラス容器の中で、植物たちはすくすくと育つんだ。さぁ、奥にあるウォーディアン・ケースも見せてあげよう。おいで」
「はい!」
駆け出したいのをこらえているのだろう、ソフィアの息は弾んでいた。クリストファーには、ソフィアの美が、浮世離れしたものから、大地の足をつけた確かなものへ変容しながら、その強さを増している手応えがあった。
クリストファーの家は一人暮らしということもあって狭く、奥の大部屋へ行くには居間を経由しなければならなかったが、ソフィアはそこに飾られたコレクションの数々に見入り、不平を漏らすどころか、一種の演出として喜んだ。
クリストファーが重い扉を開けて通してくれた大部屋には、大きなすりガラスの窓があり、そのもっとも日の当たるテーブルの上に、ウォーディアン・ケースはあった。
ベル・グラスよりもずっと大きい、角ばったガラスケース。その中には、羊歯類に限らず、多種多様な植物があり、小さな池のようなものもあった。
「ウォーディアン・ケースの中は、一つの世界なんだ」
「世界?」
反芻するソフィアに、クリストファーは囁く。
「箱庭のようだろう?」
その言葉に一瞬振り返り、ソフィアはウォーディアン・ケースをまじまじと見つめ直す。
「たしかに、今まで私がいた、あの緑の世界を切り取ったようですね」
「だけどね、どんなに精巧なウォーディアン・ケースに封じ込められていても、ガラスの中のこの小世界は、やがて朽ち果てる運命にあるんだよ」
今度こそ、ソフィアはウォーディアン・ケースから目を離し、視線をクリストファーに向けた。
「なぜ、ですか?」
「彼らには狭すぎるんだ。誰の手も借りず、すくすくと育っているように見えても、植物たちはみんな、寿命よりも先に枯れてしまう。君や私がそうであるように、一人で生きていくことなんて、できないんだよ」
「先生も、一人では生きられないのですか?」
ソフィアが心底驚いた様子で問うと、クリストファーは儚げに笑った。
「もちろんだ。この服や髪型、口にする食材のすべて。私が作ったわけではないからね」
テーブルの上のウォーディアン・ケースに目を落とし、クリストファーは続ける。
「人も生き物もきっと、誰に教わるでもなく、育つことができる。でも、それは危ういことなんだ。そして、その危うさ故に、誰も一人では生き続けられない」
目線を上げたクリストファーの横顔は、ソフィアには、高潔で、どこまでも正しい存在に映った。
「だから、いつかこのレッスンが終わっても、君は僕に頼っていいし、それは何も恥ずかしいことではないんだよ」
沈黙するソフィアに、クリストファーの想いがどこまで届いたのかはわからない。気恥ずかしくなったクリストファーは、紛らわすように切り出す。
「お茶にしようか。さっきの廊下の途中に、ブロンズのチューリップがあしらわれた扉があっただろう? そこが応接間だ。お茶を用意するから、それまでそこで待っていてくれないか?」
言い終えると、クリストファーは足早に大部屋を出て行った。
ソフィアはすぐにあとを追って廊下に出たが、すでにクリストファーの姿はなかった。ソフィアには、チューリップがどのような花かわからなかった。箱庭とて、すべての花が揃っているわけではない。廊下を歩きながら、心細い想いで扉のシンボルを見比べていく。部屋はそう多くなく、すぐに居間へつながる扉についてしまった。ソフィアは引き返し、やっとの想いでそれらしきシンボルを見つけ、中に入った。
しかし、その扉のシンボルは薔薇。クリストファーの寝室だった。
中へ入ると、応接間にしては明らかに狭かったが、応接間を知らないソフィアにはそれがわからなかった。書類が散らばったテーブルに壁を向いて一脚の椅子がおいてあるだけで、ソフィアはとりあえずその椅子に座った。
テーブルのそばには背もたれのない扁平なソファのようなものーーソフィアにはベッドがそう見えていたーーがあったが、枕元に置かれた金の装飾の禍々しい何かに気づき、座ることは躊躇われた。
金属が剥き出しの短い筒の後ろに持ち手らしき溝がついた、白に金の装飾を加えたその物体は、ウォーディアン・ケースと同じような蔦の装飾が施されていたが、剥き出しの金属も相まってか、全体的に禍々しい存在感を放っていた。
「ソフィア、ここにいたのか」
不意に扉が開き、クリストファーが顔を出す。肩を跳ね上げて驚いたソフィアに、クリストファーは叱ることはせず、続ける。
「紅茶が冷めてしまうよ。おいで」
すぐに居間へ戻ろうとするクリストファーの背中をソフィアは咄嗟に呼び止める。
「先生、あれはなんですか?」
指を差すことは躊躇われた。しかし、クリストファーには視線だけで伝わったようだ。
「あぁ、これかい?」
クリストファーはそれを両手で慎重に取り、ベッドの下の引き出しにしまう。その手つきから大切なものか、とても高価なものなのだろうかとソフィアは思ったが、なぜか納得がいかなかった。その理由はクリストファーの言葉ですぐに判明する。
「これは、人の心に穴を空けるための道具だよ」
ソフィアはその言い回しをすぐに理解することができなかったが、あとから、その意味に気づき血の気が引く。
「それって……」
「大丈夫。誰も失ったりはしない。これは、そのための道具なんだ。ペッパーボックスピストルと言ってね。五メートル先の的にも当たらない。だから誰も失うことがない。安全に、悪者を追い払うことができる」
怯えるソフィアの髪を撫で、クリストファーはなだめる。
「怖い思いをさせてすまない。あれは、君にはまだ早すぎる。忘れてくれ」
ソフィアは、縋るようにクリストファーの腕を掴んだ。温もりを感じた。同じ人としての、温もりを。それでもまだソフィアの恐怖は拭い切れなかったが、ましにはなった。
「さぁ、紅茶を飲みに行こう。気分が良くなるよ」
その後、二人は居間で紅茶を飲みながら話をした。ソフィアがペッパーボックスピストルなるものの必要性や危険について尋ねると、クリストファーは言い回しに注意しながら丁寧に教えてくれた。
ソフィアにとってこの日は、忘れられない一日となった。
ソフィアは床の上を水面さながらに泳ぎ舞い踊るバレリーナたちに目を奪われ、エメラルドの瞳を終始爛々と輝かせて感嘆した。演目が終わると、クリストファーの狙い通り、ソフィアはバレリーナの真似事をしたがった。礼儀作法だけは叩き込まれているため、衆目を尻目に踊り出すようなことはしなかったが、右手の指は自身のももの上でリズムをとってうねり、左手はバレリーナのようにしなやかに、しかし再現しきれずくねくねと滑稽な様相でせわしなく動きたがった。
「バレエに使える部屋を、一つ貸し切ってある。これから、君が練習に使い続けることになる部屋だ。そこでなら、どれほど激しく踊っても、誰も文句は言わないよ。さぁ、行こう」
差し伸べられたクリストファーの手を、何の迷いもなく取り、ソフィアは頷いた。
「馬車は初めてかい?」
繋がれた二頭の馬に怯えるソフィアに、クリストファーは笑いかける。
「はい。馬車、というのですね。このような大きな動物は初めてです」
ソフィアは馬のことを馬車と呼ぶのだと勘違いしているのかもしれなかったが、クリストファーにとって、それは些細なことだった。またいつか、教えれば良いのだ。
乗りづらそうにしているソフィアの腕をとり、クリストファーが持ち上げてやると、少女はようやく中へ乗り込んだ。
「そのドレスではあちこち動き回るには向かないね。あとで、もっと動きやすい服を買ってあげよう」
「ありがとうございます。それで、あなたのことは、なんとお呼びすれば?」
ソフィアが躊躇いながら問うと、クリストファーはその不安を吹き飛ばさんと声を出して笑った。
「すまない、自己紹介がまだだったね。私はクリストファー。気軽にクリスと呼んでくれて良い」
「そういうわけにはいきません。それでは、先生、とお呼びしますね」
逡巡の後、ソフィアはそう言って笑い返した。社交辞令とは思えない、とても自然な笑みだった。
「わかった。君がそういうなら、それでいい。だけど、その呼び方は対等じゃないな」
疑問を顔に浮かべ、続きを促すソフィア。箱庭で育ったとは思えないほど、会話は自然だった。
「いつか、君が私を、先生として扱う必要がなくなったとき、そのときは対等に、クリストファーとか、クリス、と呼んでくれ。いいね?」
「はい」
眠りにつく赤子に語りかけるようにクリストファーが告げると、ソフィアは嬉しそうに応じた。
それから、クリストファーによる、ソフィアのバレエのレッスンが始まった。クリストファーは体をしなやかに動かすコツや、バランス感覚を失わないためのテクニックなどを教えた。しかし、表現の仕方を指導することは決してせず、ソフィアの思うように踊らせた。
ソフィアもクリストファーも、笑みが絶えなかった。それは両者にとって忘れられない時間となった。そして、バレエのレッスンの一環として、クリストファーはソフィアに箱庭の外の様々なものを見せた。光も闇も、その中には等しく混ぜ込まれていた。
そんなある日、クリストファーは自身の様々なコレクションーー世界中のコインや写真、そして、ウォーディアン・ケースやベル・グラスなどーーを見たいとせがまれ、ソフィアを自らの家に招いた。
クリストファーに連れられ、玄関に入るソフィア。その目に飛び込んできたのは、靴箱の上に三つ並んだ鐘型のガラスケースに封じ込められた羊歯類の植物だった。
「これがウォーディアン・ケースですか?」
輝かせた目を見開いたまま尋ねてくるソフィアのその姿は、初めて対面したときからは想像もできないほど年相応に子どもらしく、クリストファーは笑みを深めた。
「これはベル・グラスだよ。ウォーディアン・ケースはとても高価なものだから、こんな場所にいくつも置いておくことはできないんだ」
「そうなんですね」
落胆するソフィアに、クリストファーは続ける。
「けれど、このベル・グラスも、ウォーディアン・ケースと同じ原理で作られたものなんだよ」「では、その植物たちも、買ってから一度も水をあげていないのですか?」
「そうだよ。ウォーディアン・ケースほどではないが、このガラス容器の中で、植物たちはすくすくと育つんだ。さぁ、奥にあるウォーディアン・ケースも見せてあげよう。おいで」
「はい!」
駆け出したいのをこらえているのだろう、ソフィアの息は弾んでいた。クリストファーには、ソフィアの美が、浮世離れしたものから、大地の足をつけた確かなものへ変容しながら、その強さを増している手応えがあった。
クリストファーの家は一人暮らしということもあって狭く、奥の大部屋へ行くには居間を経由しなければならなかったが、ソフィアはそこに飾られたコレクションの数々に見入り、不平を漏らすどころか、一種の演出として喜んだ。
クリストファーが重い扉を開けて通してくれた大部屋には、大きなすりガラスの窓があり、そのもっとも日の当たるテーブルの上に、ウォーディアン・ケースはあった。
ベル・グラスよりもずっと大きい、角ばったガラスケース。その中には、羊歯類に限らず、多種多様な植物があり、小さな池のようなものもあった。
「ウォーディアン・ケースの中は、一つの世界なんだ」
「世界?」
反芻するソフィアに、クリストファーは囁く。
「箱庭のようだろう?」
その言葉に一瞬振り返り、ソフィアはウォーディアン・ケースをまじまじと見つめ直す。
「たしかに、今まで私がいた、あの緑の世界を切り取ったようですね」
「だけどね、どんなに精巧なウォーディアン・ケースに封じ込められていても、ガラスの中のこの小世界は、やがて朽ち果てる運命にあるんだよ」
今度こそ、ソフィアはウォーディアン・ケースから目を離し、視線をクリストファーに向けた。
「なぜ、ですか?」
「彼らには狭すぎるんだ。誰の手も借りず、すくすくと育っているように見えても、植物たちはみんな、寿命よりも先に枯れてしまう。君や私がそうであるように、一人で生きていくことなんて、できないんだよ」
「先生も、一人では生きられないのですか?」
ソフィアが心底驚いた様子で問うと、クリストファーは儚げに笑った。
「もちろんだ。この服や髪型、口にする食材のすべて。私が作ったわけではないからね」
テーブルの上のウォーディアン・ケースに目を落とし、クリストファーは続ける。
「人も生き物もきっと、誰に教わるでもなく、育つことができる。でも、それは危ういことなんだ。そして、その危うさ故に、誰も一人では生き続けられない」
目線を上げたクリストファーの横顔は、ソフィアには、高潔で、どこまでも正しい存在に映った。
「だから、いつかこのレッスンが終わっても、君は僕に頼っていいし、それは何も恥ずかしいことではないんだよ」
沈黙するソフィアに、クリストファーの想いがどこまで届いたのかはわからない。気恥ずかしくなったクリストファーは、紛らわすように切り出す。
「お茶にしようか。さっきの廊下の途中に、ブロンズのチューリップがあしらわれた扉があっただろう? そこが応接間だ。お茶を用意するから、それまでそこで待っていてくれないか?」
言い終えると、クリストファーは足早に大部屋を出て行った。
ソフィアはすぐにあとを追って廊下に出たが、すでにクリストファーの姿はなかった。ソフィアには、チューリップがどのような花かわからなかった。箱庭とて、すべての花が揃っているわけではない。廊下を歩きながら、心細い想いで扉のシンボルを見比べていく。部屋はそう多くなく、すぐに居間へつながる扉についてしまった。ソフィアは引き返し、やっとの想いでそれらしきシンボルを見つけ、中に入った。
しかし、その扉のシンボルは薔薇。クリストファーの寝室だった。
中へ入ると、応接間にしては明らかに狭かったが、応接間を知らないソフィアにはそれがわからなかった。書類が散らばったテーブルに壁を向いて一脚の椅子がおいてあるだけで、ソフィアはとりあえずその椅子に座った。
テーブルのそばには背もたれのない扁平なソファのようなものーーソフィアにはベッドがそう見えていたーーがあったが、枕元に置かれた金の装飾の禍々しい何かに気づき、座ることは躊躇われた。
金属が剥き出しの短い筒の後ろに持ち手らしき溝がついた、白に金の装飾を加えたその物体は、ウォーディアン・ケースと同じような蔦の装飾が施されていたが、剥き出しの金属も相まってか、全体的に禍々しい存在感を放っていた。
「ソフィア、ここにいたのか」
不意に扉が開き、クリストファーが顔を出す。肩を跳ね上げて驚いたソフィアに、クリストファーは叱ることはせず、続ける。
「紅茶が冷めてしまうよ。おいで」
すぐに居間へ戻ろうとするクリストファーの背中をソフィアは咄嗟に呼び止める。
「先生、あれはなんですか?」
指を差すことは躊躇われた。しかし、クリストファーには視線だけで伝わったようだ。
「あぁ、これかい?」
クリストファーはそれを両手で慎重に取り、ベッドの下の引き出しにしまう。その手つきから大切なものか、とても高価なものなのだろうかとソフィアは思ったが、なぜか納得がいかなかった。その理由はクリストファーの言葉ですぐに判明する。
「これは、人の心に穴を空けるための道具だよ」
ソフィアはその言い回しをすぐに理解することができなかったが、あとから、その意味に気づき血の気が引く。
「それって……」
「大丈夫。誰も失ったりはしない。これは、そのための道具なんだ。ペッパーボックスピストルと言ってね。五メートル先の的にも当たらない。だから誰も失うことがない。安全に、悪者を追い払うことができる」
怯えるソフィアの髪を撫で、クリストファーはなだめる。
「怖い思いをさせてすまない。あれは、君にはまだ早すぎる。忘れてくれ」
ソフィアは、縋るようにクリストファーの腕を掴んだ。温もりを感じた。同じ人としての、温もりを。それでもまだソフィアの恐怖は拭い切れなかったが、ましにはなった。
「さぁ、紅茶を飲みに行こう。気分が良くなるよ」
その後、二人は居間で紅茶を飲みながら話をした。ソフィアがペッパーボックスピストルなるものの必要性や危険について尋ねると、クリストファーは言い回しに注意しながら丁寧に教えてくれた。
ソフィアにとってこの日は、忘れられない一日となった。
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