激烈

羽川明

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激烈

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 ――――付き合って五年、俺は彼女の下着の色を知らない。
 スカートの中を知らないし、脱いだ姿を見たことが無い。
 つまるところ俺は、彼女の着る服の中身を、知らない。見たことが無い。
 どころか俺は、彼女の手首の温度さえ、今はもう、忘れつつある。

 別れは、小雨の降る夜だった。
 ぴくりともしない赤い手の、粘つく泥の感触と、焼け焦げた肌の、燃え盛るような熱が、火傷するほど焼き付いて、三日三晩まともに眠れなかったのを覚えている。
 最後に口を開いたのは、どちらだったか。
 最後に交わしたその言葉は、なんだったろうか。


 絶え間ない絶叫。
 激昂のあまり、火照る火球と化した頭から、五感と理性が抜け落ちる。
 進んでいるかもわからない足で泥沼の如き地を蹴り上げ、俺は、わずか数メートル先の人影に迫る。
 口元に浮かぶ軽薄な笑み。貼り付けたように扁平で、虚ろなまま動かない双眸。筋張って、嫌に突き出た鼻先。半端に痩せた、不格好な輪郭。
 全てが当時のままで、余計にかんに障った。
 この男は、あんな事件を起こしていながら何一つ変わっていないらしい。大通りを何食わぬ顔で闊歩する様を想像するだけで、握り拳が砕けそうだった。
「……よくも、よくも、よくも、よくもっ、――――よくもぉぉーーーーーーーぁぁっ!!」
 二度目の咆哮ほうこう。喉が焼き切れ、取り残された声帯が、ちぎれるほど打ち震える。

 ――――それは、彼女との初デートの日のことだった。生憎の雨に降られながら、俺達二人は映画館へ向かっていた。その最中、青信号の横断歩道で、事件は起きた。
 突然、曲がり角から黒のワゴン車が突っ込んできて、彼女と俺をね飛ばし、そのまま走り去ったのだ。しかし、本当の悲劇はそこからだった。
 全身を強打し、朦朧もうろうとした意識の中横たわる俺達の前に、ふと、暗い人影が下りた。
 最初は、助けが来たんだと思った。これで助かると、泣いて喜んだ。
 ――――ただその人影は、俺を見てはいなかった。

 くたびれ、薄汚れた紺のジャンパーは、俺に背を向けたまま、彼女のそばにしゃがみ込むと、そいつは、彼女の体をまさぐり始めたのだ。しびれたように動けない、血だらけの俺の目の前で。
 ……結局、彼女は助からなかった。捕まったのも、運転手の女だけだった。
 そうして、俺だけが生き残った。
 こめかみに細い切り傷と、左の頬にタイヤ痕のような火傷の後を残して。

「ううぁぁーーーーーーーーーーーーああぁぁぁーーーーーーーーーーーっっ!!」
 三度目の絶叫。寝付けなかった三日三晩の果てに、男への復讐を誓った俺は、今まさに、それを成し遂げようとしていた。
 男は、ぽかんと口を開けたまま路上に立ちつくしていて、逃げる素振りはない。
 それでも、死にもの狂いで、全力で駆ける。
 転倒ついでに小石を拾い、右手で強く握りしめた。砕けた一片なのか、その先端は鋭く尖っていた。思わず、笑みが零れる。作り笑いでも苦笑いでも無く、正真正銘、本物の笑み。やがてそれは、狂ったような哄笑こうしょうとなり、叫喚きょうかんの渦に集約された。

 あの日から、あの雨の夜から、止まったままの阿呆面あほづらに、ぽかんと開いた間抜け面に、手にした小石をぶち当てる。足を引っ掛けて転倒させると、思いのほか重く、俺まで体勢を崩してしまった。
 コンクリの石がこめかみの傷を開き、あっという間に片目が血染めになるが、構わず立ち上がり、吠える。たぎる興奮に、どうにかなりそうだった。
 事態に気付き、今更のようにどよめく無価値な観衆エキストラどもは捨て置き、這った姿勢で逃げ惑う、あわれな背中を追いかける。
「ぐっ!」
 丸腰の背に振り被り、赤い小石を打ちつける。
 うめき声が上がる度、俺は、燃える体で歓喜した。
 本当に、燃えるような心地だった。天にも昇る気持ちだった。
 このまま死んでも良いとさえ、思った。

 ――――その時、俺の渇き切った左目に、血染めの左目に、一滴のしずくが落ち、ほほへと流れ落ちていった。その一滴を皮切りに、ぽたりぽたりと、小さな雫が額に垂れる。やがて、霧のように薄い雨のカーテンが、熱くき起こる全身を、冷たく包み込んだ。
 春の陽光ようこうに当てられたそれは、久しく忘れていたはずの、彼女の温度だった。
「…………ごめん。――――愛してるよ、今も」
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